祥月命日

 

 

 

 

 

 

 

 

祥月命日
大切な方が亡くなられた日を命日(めいにち)と呼んでいます。亡くなられた月日を祥月命日と呼び、一周忌・三回忌・七回忌など年忌の年にお勤めをされます。
年忌以外の年も、お勤めを依頼される場合もあります。

命日を「忌日」と呼んだりしますが、以前、「忌日」について、忌まわしいと言う字が含まれていますがと尋ねられました。
私の大切な方が亡くなられた時、亡くなられたことをすぐには受け入れがたい心があります。亡くなられてからも生きているように感じる心もあります。しかし、私から離れた関係の方の死について、不浄なものと考えてしまう気持ちも出てくる場合があります。高田派の鑑学の先生が、「大切な方の忌日を勤めるのは、私自身(己の心)の中にある仏道に修しているという思いを改めて省みる日である」と述べられたことを思い出します。

真宗では親鸞聖人のご命日を縁としてお勤めする報恩講があります。高田本山では毎年1月9日から16日までお勤めいたします。各寺院も毎年一番大切な行事としてお勤めしています。(妙華寺では12月の第1日曜日です)
私の大切な方のご命日も、私が仏法に出遇い、阿弥陀如来の恩徳に報謝する大切なご縁であったことに間違いないことです。

お寺では、毎月16日に、境内にある戦没者・無縁の碑前、「倶会一処」(共同墓)・樹木の元の碑前・名号の碑前でお勤めをしています。季節によってまだ夜明け前の暗い16日や、既に日差しが強く暑い16日であったり、雨であったり、晴であったり、毎回同じ時間にお勤めをしていますが、同じことは何一つなく、移ろいを感じる時間でもあります。

 

優先順位

優先順位

僧侶として優先するのは、お同行様から依頼されるお勤めの時間です。お寺の清掃などにも時間も優先されます。そうはいっても、突然連絡をいただく葬儀については、いつも連絡をいただきながら既に予定が入っていると調整することがむつかしい場合が出てきます。私(住職)に代わってお勤めをしていただくことができればありがたいことですが、それがむつかしい場合も出てきます。日時を変更をお願いすることもあります。また、先に火葬され、後ほど、本堂で葬儀式(納骨式)をお勤めさせていただくこともあります。
お勤めする葬儀一つにしても、同じものはありません。

弔辞と思い出

弔辞と思い出
葬儀式での弔辞は、弔辞を読まれる方との関係でありますが、亡くなられた方のことを知る機会でもありました。

最近は、家族だけや近い親戚を含めての葬儀式がほとんどなので、弔辞を聞くことも少なくなっています。
しかし、亡くなられた方との思い出は、葬祭に参加される方々にはそれぞれありますので、その思いを表現できると場(時間)を考えたいのですが、葬儀式の時間は決まっていますので難しいです。
葬儀の前夜に、通夜のお勤めがあります。「夜を通す」とありますので、本来は、一晩中、亡くなられた方の近くで過ごしたのでしょう。それぞれの方の想い出を語り合った時間もあったと思います。私だけの思い出も大切にしたいですが、多くの方の思い出を聞くことで亡くなられた方の思い出がより豊かになると感じています。

しつけ糸

しつけ糸
衣や着物を新調したり洗濯から帰ってくると「しつけ糸」で衣や着物を整えています。
衣や着物を着用するには、「しつけ糸」を外すのですが、衣更えの時は、1度に多くの衣などを準備しますので、外し忘れるとやはりみっともないです。

「しつけ糸」は、「裁縫などで、縫目が狂わないように、仮に縫目をつけておくこと。またその糸」とあります。

仮であって、使用する時には無くなっているものですが、そのお陰で、使っているものが整うのですから「しつけ糸」にも目を向けることが大切であると思います。

国宝『西方指南鈔』の世界 親鸞聖人が残したかったもの 講師 清水谷正尊師

企画展「親鸞と高田本山」第2回講演会
国宝『西方指南鈔』の世界 親鸞聖人が残したかったもの 講師 清水谷正尊師

三重県総合博物館の「親鸞と高田本山」展の期間も残るところ2週間ほどになりました。
今回の講演は、国宝『西方指南鈔』を取り上げてのお話でした。
講師の清水谷正尊師は、青巖寺の住職で、高田派の鑑学であります。また、4月からは高田短期大学の学長としても活躍されています。
『西方指南抄』は、親鸞聖人84歳頃に、師匠である法然聖人の法語や行実を書き留めた6冊の書物です。親鸞聖人は法然聖人の教えに救われ、その教えを伝えようとされた弟子の1人ですが、対面されていた時間は、親鸞聖人29歳から35歳までのわずか6年ほどでした。
その後は、お二人は念仏停止の罪により違う場所に流されお会いすることはありませんでした。法然聖人が亡くなられ44年後の親鸞聖人84歳に、たぶんそれまでに集められていた法然聖人の法語や行実を『西方指南抄』としてまとめられたものと感じています。
講師は、その時の親鸞聖人の思いがどのようなものだったか、ご自身の体験をふまえて語られました。親鸞聖人が、師匠の法然聖人を慕う心を強く感じました。
また、そのことを弟子の、真仏・顕智上人へ伝える為に『西方指南鈔』を書かれたとも感じられました。
また、『西方指南鈔』は、親鸞聖人直筆の書物でありながら、これまであまり注目されていなかった書物であったようです。『西方指南抄』の内容が法然聖人の法語や行実でありますので、真宗側からは、法然聖人のこと。浄土宗側からは、法然聖人のことであるが浄土真宗の親鸞聖人が書かれたものと少し研究する立場からすると端っこに置かれていたようです。ここ10年前から、浄土宗側からも真宗側からも、注目をされだしたことで、新しい発見も期待したいと思います。
※中川個人の感想です。

HPからのお問い合わせ

 

いつもお寺のHPをご覧いただきありがとうございます。

先日、HPから「墓じまい」についてお問い合わせがございました。

妙華寺では、「墓じまい」について、お墓の継承者様からのご相談でお話をお聞かせいただいてております。

お墓の継承者様からご連絡いただくようお願いします。

真宗高田派 法苑院 妙華寺 中川 和則

 

「これからの供養のかたち」

「これからの供養のかたち」著者 井出悦郎 祥伝社新書

著者は、(一社)お寺の未来の代表理事で、私(住職)も、未来の住職塾を受講した時の講師の1人であり、お寺のポータルサイト「まいてら」やお寺のHPでもお世話になっています。
僧侶として「供養」を考えると、対象が広範囲で、考えも宗派によってさまざまであり、また、「供養」を執行する側からの視点で考えてしまいがちです。今回、僧侶としてではなく生活者として、考える機会になりました。

著者は自身の子どもさんを亡くされたことが、著書を書き始める機縁になったと述べられています。私は、古希が近づく年齢で、一緒に生活をしていた、祖父母・父母を亡くし、弔い、供養を続けている生活者の1人でもあります。そして、嫁いでいた妹が私より先に亡くなるとは思ってもみませんでした。妹は、最後まで、自分の病気のことは、妹家族以外に知らせませんでした。後ほど妹の家族から聞いた話ですが、当時、私の母(妹の母)が、高齢で、病後のこともあり、母に子ども(妹)の病気を知らせたくなかった(心配をかけない)気遣いからのようでした。誰もがそうだと思いますが、自分に近い関係者が亡くなれば、いろんな感情が湧き出て、いつものようにな平常心を保ち続けることは難しく、困惑する感情の中で、すぐさま、亡くなられた方の弔いについて考え、行動(事務手続・処理)をしなければならなりません。「死」について少し関わっている僧侶の私だってうろたえながら、物事を決めていたのだから、日常で「死」について考える機会が少ない生活者であれば、誰かにすがる(任せる)ことしか頭に浮かばないと思われます。
その時出合う関係者(葬儀社や宗教者)の印象によって、「弔い」や「供養」について、どのように感じたり、考えたりしていくかさまざまだと思います。これまでの時代でもそうでしたが、今の時代では、その時の印象が良くないことが情報が、瞬時に、報じられることが多いので、宗教者や葬祭関係者は、「供養」に関してこれまでの価値観でしか語れない供養のかたちでは、生活者の考える多様な「供養」についての考え方に寄り添うことは難しいとしか感じられません。
著書にも書いてありますが、「供養」の意味は多様で、一言で定義することが難しい言葉ですが、日本古来からの考え方から見ると、先祖供養として捉えるのがわかりやすいと思います。
ただ、現在は、これまで続いていた、家制度による先祖の考え方も、死の捉え方もこれまでとは大きく変容しているように思えるので、私(住職)は「私にとって大切な方のいのち」をどのように見ていくかを考える時間になりました。

著書の言葉を引用すれば、「あなたにとってご先祖はどのような存在で、今後もどのようにつながっていきたいですか? あなたは家族など親しい人をどのように送り、供養したいですか? あなたは死後にどのように送られ、供養されたいですか?そして、どのような先祖として記憶されていきたいですか?」
これらについて、生活者と僧侶が丁寧に一緒に考えていくことが、「これからの供養のかたち」になっていくと思います。

著者が、生活者と宗教者の視点をとても丁寧に掘り下げていらっしゃるのは、10年ほど前から寺院のサポートをされた中で培われた宗教者との信頼関係であったり、自身が生活者として宗教者に対して厳しくも、温かい視点からのたまもののように感じています。
生活者は勿論のこと、宗教者も著書から学ぶべきことはたくさんあると思います。

高田本山の 奉讃法会

高田本山 奉讃法会
5月21日から28日の8日間、50年に1度の親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年・真慧上人500年忌・聖徳太子1400年忌を併せた奉讃法会が行われました。私(住職)は、23日に伺うことができました。高田派の鑑学の栗原廣海先生の「『なもあみだぶつ』を聞く」ということのお話をお聞かせいただきました。親鸞聖人がお生まれになられ、聖徳太子の夢告で法然聖人に遇うことができ、その教えが高田派の真慧上人を始め歴代法主がお伝えされる中で、今日を迎えることは、阿弥陀さまの「よび声」の「なもあみだぶつ」が届いているようにも感じました。(※中川個人の感想)
山門には、ストリートピアノが置かれていて、優しい奏で出迎えていただいたようにも思いました。
講演の後、皆様にご賛同いただき完成しました新宝物館「燈炬殿」を拝観しました。
最新のデジタル技術で表現されるVRは、初めての体験でした。展示室もこれまでの2倍ほどの大きさになり、「第1回企画展 知られざる専従寺の至宝」展は、工夫をこらした展示でした。新宝物館の企画展は、7月2日まで開催されていますので、ご関心がありましたら是非、足をお運びください。(ご賛同いただきました皆様のご芳名が館内の壁面に刻まれています)※6月からの宝物館の入場は予約制ですので、前もって高田本山のHPでご確認ください。

50年に1度の行事で、お同行の皆様も高田本山へお参りに行かれたと思います。関東のお同行のご家族も専修寺の行事に遇うことを楽しみにされていました。21日の前日(20日)、京都国立博物館の「親鸞」展を拝観し、21日午前中に三重県総合博物館での「親鸞と高田本山」展をご覧になり、午後から高田本山にお参りされ、新宝物館も拝見されたことをお知らせいただきした。近くの方からも奉讃法会に参詣してよかったとの感想もいただいています。

今年、親鸞聖人の大切にされていました法宝物をこれほど一同に拝見することができることは、私(住職)にとって大きな喜びでした。遇うことができた喜びとともに、これからも皆様に、親鸞聖人が伝えてきた「み教え」を、次の世代に伝えていくことの大切さを身をもって感じています。

妙華寺の衆徒は、21日大講堂でのリレー法話で、「ああ弘誓の強縁 多生にも値いがたく 真実の浄信 臆劫にも獲がたし たまたま行信を獲ば 遠く宿縁を慶べ」の讃題で法話をさせていただきました。

聖徳太子1400年忌

聖徳太子1400年忌
聖徳太子(574-622)厩戸(うまやど)皇子、上宮(じょうぐう)太子とも言われます。父は用明天皇。高句麗の慧慈(えじ)に仏教を学び、法隆寺、四天王寺などの寺院を建立し、『法華経義疏』・『勝鬘経義疏』・『維摩経義疏』を制作したと伝えられ仏教の興隆に尽力した。政治の世界では推古天皇を助け冠位12階や憲法17条を制定し、遣隋使を派遣しました。
聖徳太子は、仏教興隆の祖として鎌倉時代に信仰が広まり、親鸞聖人は、観世音菩薩の化身してい崇め「和国の教主」とも讃仰されました。「正像末法和讃」の中に皇太子聖徳奉讃11首、皇太子聖徳奉讃75首、大日本国栗散王聖徳太子奉讃114首を和讃されました。
真宗では一般に16歳孝養(きょうよう)太子像を余間に安置します。美豆良(みずら)を結い、右手は胸前で柄香炉を執り、左手は右手の下で布をつかむ。聖徳太子が16歳の時に、父用明天皇の病気平癒を祈願したという伝説に基づく姿です。

※妙華寺でも100年前の聖徳太子1300年忌の時は戸帳を新調した記憶が残っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

真慧上人500年忌

今回令和5年の奉讃法会にて真慧上人500年忌が高田本山にて厳修されます。

【高田派第10世】真慧(しんね)上人 永正9年(1512)10月22日示寂

下野国(現栃木県)の高田門徒の中心である専修寺には、親鸞聖人在世中から三河国に高田門弟の道場(寺院)があったが、更に西の近畿地区に教線を伸ばしたのは真慧上人であった。真慧上人は、北陸および近江国(滋賀県)・伊勢国(三重県)を教化し京都へも進出を図ろうとしている。また、公家社会への接近も顕著である。

『正統伝後集』(五天良空著)によると真慧上人は26歳に下野国高田を出て加賀・越前を経て近江国坂本十津浜妙林院(みょうりんいん)に逗留したという。他の史料からも確認されるので信頼できると思われる。坂本は琵琶湖の要所で比叡山延暦寺の荘園の年貢はここから陸揚げされたので比叡山の外港として、比叡山の里坊の門前町となっている。この地に真慧上人は逗留されたのは、比叡山との接触をはかる為と考えられる。また当時本願寺の蓮如上人も琵琶湖沿岸に教線を延ばしていたため接触をはかったと思われる。

伊勢国には寛政元年(1460)頃に入られ教化されたようだ。近江から伊勢への移動には、蓮如上人との軋轢が生じたのも一因であろう。寛政六年(1465)の比叡山僧徒の大谷本願寺破却事件で、真慧上人は専修寺と本願寺の混同は困るとして比叡山に登山し熱弁をふるい比叡山僧も認めたと伝えられている。その褒賞が専修寺の如来堂の阿弥陀如来像(証拠の如来)とある。

「顕正流義鈔」・「永正規則」・「中陰次第」を撰述、「野袈裟」の創始するなど、高田門徒の諸制度を整備確立し、高田派の中興として崇められている。
「顕正流義鈔」は、真慧39歳の時に書かれた。内容は、顕正と破邪の二部から成り立ち、顕正の部分では、伝統に基づく称名念仏の真実性が述べられ、破邪の部分では、高田門徒に向けられた邪義①念仏して助かろうと思うのは自力である②念仏して助かろうと思うのは第19願の心で諸行往生である③絵像・木像は方便で有り利益はないと言う三箇条の非難と相丞論に対して反論している。本書が執筆された文明4年は、本願寺8代蓮如が越前吉崎で独自の教化活動を展開し勢力を拡大している時期で、また真宗各派の対立が顕著になる時期でもあった。このような背景の中、高田の伝統流儀を高揚したのが本書である。
「永正規則」は永正元年(1504)真慧71歳の時に発出した御書で、真慧の教化態度が端的に示されている。右筆門弟に筆記させ、末尾に真慧が花押を書き加える。北陸での教線拡張にあたり本願寺との緊張関係が高まる時期に門弟にあてた四箇条からなる条文で門弟の心構えを誡め、本寺崇敬の心を忘れず、阿弥陀如来の本願を信じ、念仏を称えよと説き、そのプロセスを「一本寺、二善知識、三信心、四念仏、是肝要也」と結んでいる。

※妙華寺では、平成26年10月に天台真盛宗の本山西教寺にある真慧上人の墓参に行きました。