10月の日曜学校は3日です

今年も後3が月 衣更えの準備をしながら時間が過ぎていくのは本当に早いです。
10月の日曜学校は、10月3日の朝7時30分から8時頃までです。

ご家庭での平素の夕時のお勤め(重誓偈・文類偈・5首和讃)を一緒にお勤めいたします。輪(りん)の鳴らし方や、念珠の持ち方もご一緒にしますので自然と覚えます。
また、ご参加いただきますと念珠の一珠をお渡しして、24珠で単念珠が、108珠で二連念珠ができるようにご用意しています。(親珠には「妙華寺」の寺院名が刻印されています)
※新型コロナウィルスの感染拡大防止の件について、様々な意見があることは重々承知しておりますが、最終的にはお寺の住職の判断で、開催を考えています。

風邪の症状や熱のある方はご遠慮願います。
マスクの着用をお願いします。(お持ちでない場合お寺にお申し出下さい)
本堂入口に手指の消毒を行っていただき、うがいや手洗い場所も用意しています。
手が触れる出入り口のアルコール消毒もこまめにしています。
本堂内の換気・間(ま)の確保などして対策を講じます。
とはいえ、決して不安や不満を抱えながら参加する催しでもありません。
どうかご無理ない範囲で判断をしていただきますよう、よろしくお願いいたします

お寺の掲示板

お寺の掲示板
「むさぼりの心」に自分を食い尽くされない

『大往生できる人 できない人』潔く、とらわれず、おまかせして生きる 田畑正久著 から
著書では、「死んでいくことを「不幸の完成」にしないために、仏教では「成仏する道」を教えます」と続きます。

仏教が目指しているのは、この「迷いの六道」を超えることです。

仕合わせになりたいと言いながら不幸の完成になっていく生き方ではなく、仏になる歩みの途上で、「人間に生まれてきてよかった、生きてきてよかった、死んでいくことも何も心配ない、すべておまかせします」と安心して燃え尽きていける世界が開けてくるわけです。逆にそういう世界がわからなければ、この六道に迷ってしまうことに気づきもせずに、振り回されるだけになるのです。

※迷いを超える方法が多くあり、そこで迷ってしまうこともあります。それでも、「どんなことがあっても、必ず救う」と誓われた仏様に、おまかせできる心にお育ていただける機会に出遇うことができればとても仕合わせです。

 

【報告】秋彼岸会 お勤めしました

前日までの曇り空から青空の中で、秋彼岸会をお勤めすることができました。
三重県内も緊急事態宣言下で行事自体どうするか考えることでしたが、感染防止対策をとりながら「集う場」を続けていければと思っています。ご参加していただく方にも、体調が悪い場合はご遠慮いただいたり、マスク着用や検温・手指のアルコール消毒などご協力をいただいてのお寺の行事です。
13時30分からお勤めの後、真楽寺の鷲山了悟師が「他力不思議」と題してご法話をいただきました。はからいを離れることができない私が、仏のはたらきに遇うことは、当たり前でない「不思議なこと」を金子みすゞさんの「大魚」や「不思議」を紹介しながらお話していただきました。
今回も、遠方からも聴聞に駆けつけてくださる方々もいらっしゃり、翌日にメールで感想をいただいたり、とてもありがたいことでした。
※中川個人の感想です。

※また彼岸法会では、本尊前の焼香台の奥に「いのちの積み木」を掲示しています。先祖の「いのち」を通して、私の「いのち」の尊さを感じていただければと思っています。

秋分の日

秋分の日
毎年9月23日頃を秋分の日と言い「祖先を敬い、亡くなった人をしのぶ日」として1948年に祝日法で制定されました。
また秋分の日は、祝日法の上で「秋分日」とされています。毎年2月1日に、国立天文台が作成する「暦象年表」という小冊子に基づき閣議で来年の(秋分の日の)日にちが決定されます。
祖先を供養する日
秋分の日は春分の日と同様に、昼と夜の長さが等しくなる日です。しかし、春分の日よりも昼の平均気温は10度程高く、まだ夏の気配が残ります。
秋分の日を中心とした一週間を「秋彼岸〔あきひがん〕」と言います。各家々では、家族そろってお墓参りに行ったり、祖先を供養する「法会〔ほうえ〕」が行われたりします。
1948年には、お寺参りの日・先祖供養の日など、宗教的慣例としてのまつりの日だけではなく、広い意味で「祖先を敬い、亡くなった人を忍ぶ日」として国民の祝日に制定されました。

妙華寺では9月23日(祝・木)午後1時30分からお勤めをいたします。
そして真楽寺の鷲山了悟師のご法話がございます。
妙華寺では、ご法話をご聴聞していただくと法会参加票にスタンプを押印させていただいています。ご聴聞をお喜びするご縁となりますように、10回ご参加いただきますと記念の品をお渡ししています

※新型コロナウィルスの感染拡大防止で三重県内も緊急事態宣言下の時期での開催について、様々な意見があることは重々承知しておりますが、最終的にはお寺の住職の判断で、開催を考えています。

本堂入口に非接触型体温計・アルコール消毒液を設置するなどして対策を講じます。
マスク着用をお願いします。また風邪の症状の方・体調の優れない方はご参加をご遠慮していただく考えです。
そして健康である方も、不安を抱えながら参加する行事ではありません。
どうかご無理のないお気持ちでご検討をいただきますよう、よろしくお願いいたします。

【報告】Temple Morning ご奉仕ありがとうございました

【報告】9月のTemple Morning
昨日までの台風の影響もなく青空のTemple Morningになりました。
今回は9名に参加いただきありがとうございました。風はありましたが作業に集中していると日差しで汗ばむほどてした。

今回は、雨の後で駐車場で水が溜まっているところの水抜きを工夫されたり、落ち葉を集めていただいたり、それぞれ工夫をしていただきご奉仕をしていただきました。
本当に感謝申し上げます。
コロナ禍の中で始めたTemple Morningですが、掃除を通して集中する時間をもっていただき、心身の健康を維持できればと思います。

次回は、10月17日の予定(雨天中止)です。

住職・寺族の墓

住職・寺族の墓
お寺の「代々建立記」と著された書物の最後のページに住職と寺族の墓の配置図が記載されています。以前は、亡くなられた方を埋葬した後に石碑を建立していたと思われ、1人1人の墓が多いです。妙華寺の住職・寺族の墓も当初はそのように考えていたと思われますが、境内墓地は広がるスペースがなく、6代目が亡くなられた時、以前(5代目まで)の住職の墓地に埋葬されることになり同様の形で8代まで続いていたようです。寺族の墓は、代別のようでありますが早くに亡くなった子どもなどもその時その時の事情で埋葬されていたようです。記載されている図では、8代までの住職・寺族の法名がわかりますので、9代が亡くなられた時に、現行の墓の形態に変わっていたと思います。
※10代の住職は、私の祖父で前々住職です。住職や寺族の墓を改葬したことは知っていました。

どうなる仏教 アフターコロナ時代のあり方とは

「寺院・神社に関する生活者の意識調査」(2021年6月実施)でも取り上げましたが、コロナ下でお寺や仏事に関する生活者の調査に基づいたオンライン講座が複数行われているようです。
今回は、仏教伝道協会主催の「シンポジウム どうなる仏教 アフターコロナ時代のあり方とは」と題したシンポジウムがありました。大正大学地域構想研究所・BSR推進センターのアンケート調査や(株)寺院デザイン社のアンケート調査報告(朝日新聞「論座」掲載)からの意見をいただきました。いろいろな切口がありますが、コロナ以前から葬儀や法要について簡素化ははじまっていましたが、コロナ下では、簡素化のスピードが早まったと感じました。その要因もこれまでの地域コミュニティの変化や生活者の意識の変化に、お寺が対応できてこなかったからではないかと投げかけられました。
生活者の供養したい気持ちはこれまでとあまり変化はありませんが、葬儀や法要の儀式が形骸化して内容の意味が伝わっていない点も指摘されました。確かにこれまでと同じ形式で儀式をしても、その内容が伝わらなければ、生活者には意味の無いことと受けとめられてしまいます。儀式の内容も含め更に工夫をしながら、生活者に伝える努力が必要と感じました。
これからの時代、「縮小」は、寺院だけでなく日本全体で共有するキーワードで、「縮小」を見据えた視野で寺院活動をもう一度見つめ直していくことが必要と感じています。

※中川個人の感想です。

 

秋彼岸会は23日の13時30分からです

 

讃佛会(さんぶつえ)
「暑さ寒さも彼岸まで」と言います。日本では、昼夜が同じ時間になり、太陽が西に沈む頃の春分の日・秋分の日を中心に一週間を春秋二季の彼岸と例えます。日本人の心に根付いた仏教への心温まる気持ちの現れです。
彼岸は、仏典に出てくる言葉で、パーラミターというインドの言葉を訳したものです。彼岸とは「到彼岸」の略で、迷いの世界(この世)から悟りの世界に到るということです。この迷いの世界を此岸(しがん)といい、如来の悟りの世界を彼岸と名付けています。
親鸞聖人は、「人みなこの此岸、つまり人間世界から彼岸への途を歩まねばならない」とおっしゃってみえます。
此岸から彼岸へのこの道は阿弥陀如来ご廻向の道であります。浄土への道は、浄土からの呼びかけの道であります。彼岸会はインド・中国にはなく日本独自の法会です。真宗では彼岸の一週間を佛徳を讃嘆する場として、また聞法のご縁の場として大切にしています。
真宗では、彼岸会を讃佛会とも申しています。

法苑院妙華寺では、春分の日・秋分の日の午後1時30分からお勤めと法話を勤めています。 親鸞聖人のご和讃に
「生死の苦海ほとりなし
ひさしくしずめるわれらをば
弥陀の悲願のふねのみぞ
のせてかならずわたしける」とお述べになっています。
苦悩の世界(此岸)に沈んで久しい私たちは、阿弥陀如来の悲願によって救われる(彼岸へ運ばれる)とお諭しになられています。

9月23日(祝・木)午後1時30分からお勤めをいたします。
真楽寺の鷲山了悟師のご法話がございます。
妙華寺では、ご法話をご聴聞していただくと法会参加票にスタンプを押印させていただいています。ご聴聞をお喜びするご縁となりますように、10回ご参加いただきますと記念の品をお渡ししています

※新型コロナウィルスの感染拡大防止で三重県内も緊急事態宣言下の時期での開催について、様々な意見があることは重々承知しておりますが、最終的にはお寺の住職の判断で、開催を考えています。

本堂入口に非接触型体温計・アルコール消毒液を設置するなどして対策を講じます。
マスク着用をお願いします。また風邪の症状の方・体調の優れない方はご参加をご遠慮していただく考えです。
そして健康である方も、不安を抱えながら参加する行事ではありません。
どうかご無理のないお気持ちでご検討をいただきますよう、よろしくお願いいたします。

Temple Morningは、19日 8時からです(雨天は中止)

【案内】今年もTemple Morningは、4月から行っています。第4回は09月19日(日)午前8時から9時頃までです。
今年は6回のご案内です。
Temple Morning お寺の朝(テンプルモーニング)はじめます
いつもと違う朝 気持ちを整えて集中できる時間を創りませんか

予定 お勤め(10分)・境内の掃除(30分)・お話(10分)・茶話会(自由参加)
風邪の症状のある方・37.3度以上の熱のある方はご遠慮ください。
   お勤め・お話は、短めに、自由参加の茶話会は、当面中止します
掃除道具は貸し出します。途中出入り自由です。雨天は中止です。

お寺の掃除を今風に呼びかけるには、これまで妙華寺の境内(特にお墓)の草抜きなどの掃除は、古くは草抜きなどをされている方、そして現在は高齢者(シルバー)人材センター様に登録されている方にお願いをしていました。依頼していました方がご高齢になり、次の世代の方に草抜きを希望される方がいない状態になり2020年から境内(墓)の掃除が難しくなったことが主たる要因です。境内(特にお墓)の清掃として1年の内おそよ8が月延べ160日(1日6時間労働)ほどこれまで高齢者(シルバー)人材センター様に登録されている方々に境内の清掃をしていただいていました。お寺側の身勝手な思いでありますが、お同行の皆様のお力をいただき境内(特にお墓)がこれまでのようにきれいな環境を保てることを願う行事です。
各位のそれぞれのご事情もありますので、お身体の状況をお考えていただきお時間が許しましたら一緒に境内をお掃除しませんか。
Temple Morningは、境内(外)の掃除に集中してすることで気持ちを整える時間です。
お一人お一人十分なほど距離をとることは可能です。

※新型コロナウィルスの感染拡大防止で三重県内も緊急事態宣言下の時期での開催について、様々な意見があることは重々承知しておりますが、最終的にはお寺の住職の判断で、開催を考えています。

本堂入口に非接触型体温計・アルコール消毒液を設置するなどして対策を講じます。
マスク着用をお願いします。また風邪の症状の方・体調の優れない方はご参加をご遠慮していただく考えです。
そして健康である方も、不安を抱えながら参加する行事ではありません。
どうかご無理のないお気持ちでご検討をいただきますよう、よろしくお願いいたします。

年6回 第3日曜日午前8時から1時間【1月・2月・3月・7月・8月・12月は休会・雨天中止】
4月18日(11名参加)・5月16日(雨天中止)・6月20日(4名参加)・9月19日・10月17日・ 11月21日
清々しい朝の1時間 お寺で過ごしませんか

お寺の掲示板

お寺の掲示板
自分が信じるものを信じて、悲しみから抜け出す

『人は人を救えないが、「癒やす」ことはできる』 谷川洋三著から

著書では続けて、「神社のお参りや、ご利益があると思うもの、スピリチュアルなパワーがあると思うものを自分で上手に選び、セルフケアに利用していきましょう」

基本的に、人は物事を自分の都合のいいように解釈したいものです。自分の中で何らかの理由を見つけて、ポジティブな解釈をすることは、けっこう大事なことなのではないかと思います。ただし、このような解釈は他の人から言われても納得しにくいので、他の人に押しつけたりしないほうがいいでしょう。無理やりかもしれないけれど、都合良く解釈したり、ご縁を信じたりすることは、ある意味「宗教的ケア」や「スピリチュアルケア」であり、同時に自分で自分のためにしている「セルフケア」でもあるといえるでしょう。

私は、宗教的ケアやスピリチュアルケアも、すべてセルフケアだと考えています。たとえ、宗教者、臨床宗教師など援助する立場の人がいたとしても、結局、患者や遺族、困難を抱えている人が、自分自身の人生を選択して、これでいいのだと思えることを支援しているだけです。
もちろん、危険な宗教団体や怪しい人間に騙されないように気をつけてほしいのですが、自分で積極的に選択した方法であるなら、大いに活用するといいでしょう。

※自分に都合のいいように解釈する自分であることは自覚していますが、自分が選んだものをセルフケアとして利用していくだけでよいのでしょうか。人生の選択は自分自身がしていると考えることもできますが、私(住職)は、大きなはたらきの中のものだとも考えます。