見えない補修工事

今月は、境内墓地の表示板の改修と本堂西側の一部剥落した白壁を補修しました。
また、本堂の入り口の左右の板壁が経年で痩せ細ってすき間が、随分前からできていました部分を内側から補修しました。
墓地の表示板については、既にブログで紹介していますが、本堂西側の白壁が剥落しましたのは、昨年の年末寒波と強風の時、一部が剥落しました。隣接する書院へ続く建造物との間の部分の壁の一部でした。
本堂入り口の左右の板壁は本堂が開いている時、外側の唐戸に挟まれあまり見ることもありません。また本堂内からは、手前に掲示板を設置していますのでやはり見ることも少ないと思います。本堂が建立され、およそ150年の前からの板壁と思いますが、良く見ると、乾燥して板が縮んだり、亀裂が入ったりして、外からの日差しが本堂内に入っています。換気にはもってこいですがそのままにしておくのもいかがなものかと考え、内部から板壁を補修しました。
あまり視覚に入らない部分の補修ですが、このような作業を継続しているお陰で次世代に引き継ぐことができるのだと思います。

 

 

2月のおてらおやつクラブ

妙華寺は、2015年2月におてらおやつクラブの趣旨に賛同して、今月(2月)から8年目に入りました。
2月は、三重県もまん延防止等重点措置期間中ですが、県内の2つの支援団体様に「お供え」を「おすそ分け」させていただくことができました。

また、年2度回収の古本勧進での古本も募集しています。
今回は8月末までに集まった古本を寄付させていただきます。
不要になりました古本がありましたらいつでもお寺にお持ち込みください。
対象の本は、裏表紙にバーコードのあります文庫本・新書本・単行本です。
申し訳ございませんが、週刊誌・雑誌・百科事典・全集は対象外です。
本以外、書き損じのハガキ・不要なCDも受け付けています。

四季の花(2月)

四季の花 2月も早、下旬になりました。私(住職)は、寒いとき外に出るのはおっくうになりますが皆様はいかがでしょう。少し前から梅を見ていますが、咲きはじめた頃で盛りはこれからでしょう。裏庭にある彼岸桜も咲いています。こちらの方が梅より盛りが早そうです。
また、足もとには、寒アヤメ・スイセンが咲いています。ふきのとうも少しですが見ることができます。

あと 3ヶ月(5月22日)

あと3ヶ月
妙華寺の親鸞聖人ご誕生850年・立教開宗800年奉讃法会まであと、3ヶ月になりました。今から3年前(令和元年)にお寺で親鸞聖人ご誕生850年・立教開宗800年奉讃法会を、本山の法会に先立ち今年(令和4年)5月22日にお勤めすることを総代様やお世話方様にご賛同いただいたことから準備をしてきました。
どのようなテーマが良いか考える中、平成23年の親鸞聖人750回忌御遠忌法会の前年に、見つけた「選択本願念仏集」の掛軸のことを思い出し、この掛軸の表具を直して、「選択本願念仏集」をテーマにと考えました。皆さんもご承知の通り、「選択本願念仏集」は、法然聖人のご主著であります。親鸞聖人も法然聖人に帰依してから「選択本願念仏集」の書写が許され、生涯、その道を歩まれました。
尚、高田本山には、親鸞聖人筆の【国宝】「西方指南抄」が伝わっております。「西方指南抄」は、法然聖人の法語・消息・行状記を所収した書物です。

法然聖人の「選択本願念仏集」は、漢文の書物でありますが、妙華寺の「選択本願念仏集」の掛軸は、絵によって描かれています。高田派の監学であり、法然聖人の研究にも優れた清水谷正尊師に、掛軸について調査していただいていました。この報告を当日にお話していただきます。

ご賛同をいただいた皆様のご寄付で、選択本願念仏集の3幅の掛軸の修理・本堂東楽の間の改修・本堂床下補強工事・本堂音響設備の新設・照明器具の取り替え・本堂内陣のイスの導入・新しい生活様式への対応・境内墓地の水屋の改修・墓地表示板の改修・境内北側の樹木の伐採などの事業をやっております。

当日、5月22日(日)は、午前10時から11時30分まで、田畑正久氏のご講演がございます。田畑先生②は、令和2年の「お寺の講演会」でご講演を予定していましたが、新型コロナウィルス感染症の感染拡大にて、令和3年に延期し、昨年も開催が難しく、今回を予定しています。
午後1時30分からお勤め。午後2時30分から、「法然→選択本願念仏集←親鸞」をテーマとして、浄土宗 光琳寺 井上 広法 師と真宗高田派 青巖寺 清水谷 正尊 師のお話と座談会を予定しています。

また、新型コロナウィルス感染症感染防止対策として、参加者の事前申込を考えています。
本堂30名・妙華寺会館でモニター視聴20名ほどの予定です。

お申し込み希望者は、4月1日消印から4月末消印のハガキにてご応募ください。
申込多数の場合、抽選で5月にはいりましたら、参加票をお送りします。

【田畑 正久 先生】

【井上 広法 先生】

【清水谷 正尊 先生】

「飛行機の失敗」の看板設置していただきました

「飛行機の失敗」の看板が設置されました。
津観光ガイドネットさんが、妙華寺に「飛行機の失敗」の看板を設置されました。

以前お寺のHPのブログにも掲載しましたが、久居(藩)の歴史を書かれた『藤影記』(梅原三千著)にある「飛行機の失敗」と言うお話しです。国友貢(みつぐ)は、鳶鼻の異相を有し、天狗の如く空を飛んでみたいと考え、鴨を一羽手に入れて両翼と尾を秤(はか)り、体の重さも精密に秤量し、その割合を算出して、その比準で自分の体重に適当する大きな羽根を造った。早速、法苑院へそれを持ち込み、実験するということで、本堂の屋根から、羽ばたきたくましく飛んだが失敗して 蓮池の真ん中に墜ちた。国友はこの時挫折したのかその後空を飛ぶことを計った噂はなかった。今「久居城下町案内人の会」でこの話を紙芝居の一つとして紹介されています。

ここからは住職の想像です。①本堂の屋根から飛ぼうとして時期は?江戸時代のいつであるか定かでないのですが、妙華寺の本堂は、文政4年(1821)3月の久居の大火にて焼失しています。再建された今の本堂は、安政4年(1857)12月に棟上げされました。推測できることは、棟上げされて本堂が再建する過程で、屋根に瓦を載せる前の状態の時ではないかと考えています。②蓮池はどこに?妙華寺にはかつてお寺の境内の東南に弁天池と言われる池ありました。現在は、樹木の元でのお墓と駐車場になっています。また本堂の西側に蓮池と言われる池が今もあります。現在は、以前より池の範囲が小さくなり蓮も咲いていません。本堂の屋根の形状が寄棟ですので飛ぶ方向としてはこちらが有力と考えています。人類で最初にライト兄弟が空を飛ぶことに成功しましたが、世界中で空を飛ぶことを夢見た人はたくさんいたのでしょうね。」((https://myoke-ji.com/2016/02/ 参照 2021年4月22日))

昨年、長浜市役所から、長浜(市)には、国友村(長浜市国友町)と言う鍛冶(鉄砲)集団の村があり、今も続く一族の古文書から江戸時代の飛行機図(「阿鼻機流 大鳥秘術 詳細図」)が発見されたことのプレスリリース(資料提供)を送っていただまたした。
江戸時代に空を飛ぶことを試みた方は日本にも何人かいたが飛行機図などは残っていないので貴重なものです。
どうして、お寺に送っていただいたかと言うと、江戸時代の久居藩のことが記載されている『藤影記(とうえいき)』に妙華寺の本堂の屋根から飛行した人物がいると言う伝承から連絡をいただきました。この方の名は「国友貢(みつぐ)」さん。
「国友」の名前からの想像ですが、津藩の藤堂高虎が、滋賀県の高島市から三重県(伊勢の国)の伊賀上野そして安濃津に入ったことから考えると鍛冶集団の何人かが藤堂高虎について来た可能性があり、その後、久居藩にも「国友」家ついて来たと想像します。(久居藩の地図にも「国友」家の場所が表記されているそうです)

今回の「飛行機の失敗」の看板設置には、いろいろな方々の思いが羽ばたいた結果と思います。

新しい墓地表示板

墓地の表示板
以前、墓地通路を整備しました時に、墓地表示板も整備しました。お墓参りの方の邪魔にならないよう通路から10cmほどの高さの表示板でした。しかし、靴やバケツなどに接触し、皆様にご迷惑をおかけし、表示板も傷んだりし、何度も作りなおすことをしています。
今回、親鸞聖人ご誕生850年・立教開宗800年奉讃法会の事業の1つとして墓地の表示板を一新しています。高さ150cm(一部180cm)の表示板です。お墓参りの皆様の視野に入り、「うっとうしく」感じられる場合もありますが、わかりやすい墓地整備の一環としてご理解いただきたいと思います。

オンラインのお勤め

オンラインのお勤め
2020年1月頃から新型コロナウィルス感染症の感染リスクとして「集う」ことに不安な心になり「集う」ことが当たり前では無くなってきました。

妙華寺でも感染防止対策の基本であります検温・手指の消毒・マスク着用のお願いであったり、本堂の換気対策や消毒の徹底・着席する椅子の間隔に仕切り板を設けたりしていますが、全ての方が安心することは難しい時代です。
それでも、「集う場」は必要と感じていますのでお寺としてできることは、今後も取り入れていこうと考えています。

そのような中、社会でこれまで「集う」ことで成立していた仕事や会議・授業などの一部がオンラインでも成り立つことも可能になってきました。
お寺に「集う」ことが難しい場合、法要やお寺の行事をオンラインで配信するお寺も増えています。新しい取り組みの1つとして妙華寺でもオンラインのお勤めを手探りながら始めています。インターネット環境やPCなど設備がそろわないと難しい面もありますが、 若い世代の方々は日常的に使われていますのであまり違和感はないかもわかりません。
オンラインでできることできないこともありますが、お寺に「集う」気持ちをお持ちでも「集う」ことが難しい方々にオンラインでご一緒(集うことが)できる可能性もございます。

今年も遠方の方からオンラインのお勤めの依頼がございました。映像は、お寺のご本尊を中心にして、お勤めをしています。お勤め中にご自宅のお仏壇で焼香していただきます。
1つの空間に「集う」ことはできませんが、同じ時間一緒にお勤めできる環境でありましたらオンライン上で離れたご家族やご親戚と「集う」ことも可能です。

オンラインのお勤めをご希望の場合、事前に打ち合わせをさせていただきますのでご連絡をお願いします。

葬送仏具

【野仏】

葬送仏具
妙華寺では、葬儀の時、「野仏」と「野袈裟」と言われる高田派の葬送仏具を用意しています。
「野仏」は、「野袈裟」と共に葬儀で使用する掛軸で、阿弥陀如来が描かれていて、葬送の時の本尊として扱っています。形式はいろいろあるようで、妙華寺の野仏さんは、三尊仏が描かれた掛軸です。

これまでは、自宅での葬儀が多く、仏間と隣接する部屋の襖を取り払い1つの空間として葬儀をおこなっていました。私の知る昭和50年代頃からは葬祭業者の立派な祭壇を設え、その中央に「野仏」を掛け葬儀を行っていました。

今の葬儀は、殆どが葬儀会館で行われ、葬儀会館が自前で各宗派のご本尊を用意されている場合もあり、妙華寺の「野仏」は掛けられない(使われない)時もあります。

「野袈裟」の方は今も棺の上に掛けて使われています。

「野袈裟」は、僧侶が着用する袈裟を模したもので羽二重でつくられています、100cmから120cm四方の布の中央に「南無阿弥陀仏」 向かって右側に「其仏本願力 聞名欲往生」向かって左側に「皆悉到彼国 自到不退転」と揮毫した高田派の法主の名と下付された寺院名や年月日が書かれています。

「野袈裟」は、高田派の10代真慧上人が伊勢に入られた頃、生み出され、高田派の一部の地域のお寺で今も使用されています。
葬送の場所に「野仏」(掛軸)を掛け、ご遺体の上に「野袈裟」を掛けたり、棺の場合は、棺の上に「野袈裟」を掛け、「棺腰巻」と言われる「野袈裟」と同様の布で棺を覆い、荘厳されたのでしょう。

※「棺腰巻」は、妙華寺には、伝わっていませんが、伝わっている寺院では、「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」「願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国」が記されているようです。

私たちが今行っている葬儀の形と真慧上人時代(1500年頃多くの「野袈裟」を書き与えた頃)の葬儀の形は違っていたと思いますが、どこがどう違っていたか、私(住職)には想像することもできません。
葬送の場所も、三昧や墓地の屋根がないところだったかもわかりません。僧侶が参加していたとは思いますが定かではありません。簡素な形であっても亡くなられた方との別れを大切にしたい思いがあっての葬送仏具であると思います。

【野袈裟】

佛涅槃図の公開

 

佛涅槃図
佛涅槃図は、釈迦(しゃか)の入涅槃の場面を描いたもので、釈迦が亡くなられた2月15日の涅槃会で本尊とされます。
平成24年から、妙華寺では、2月15日から1ヶ月間、本堂西余間(むかって左側)に涅槃図をお掛けしています。
妙華寺所蔵の佛涅槃図は、江戸時代の久居の大火で焼失しました。
今お掛けしていますのは、平成23年の親鸞聖人750回御遠忌の記念として高田本山より京都別院の佛涅槃図の複製が配布されましたものです。
京都別院の佛涅槃図は、室町時代の兆殿司筆で、大きさは、縦151.2cm 横128.7cmです。
本堂にお上がりいただきお詣りください。

※また、高田本山では、3月15日頃に如来堂にて佛涅槃図がかかります。(詳細は高田本山のHPでご確認ください)

お寺に伝わる茶道具

お寺に伝わる茶道具
私(住職)の祖父(前々住職)が存命の頃、毎日、居間の火鉢にかかる鉄瓶の湯で抹茶(薄茶)を点てていました。祖母や母、たまに居る父や私・妹も、薄茶のお相伴する時がありました。到来物の羊羹がお菓子となり、祖父が点てた薄茶をいただいていました。親戚が見えると、書院や晩年造った茶室でお茶(薄茶)を楽しんでいました。特に、祖父の誕生月の2月には、中庭の梅見を兼ねて親戚が集まったことを思い出します。
祖父が亡くなってから、私(住職)もお茶に親しみを感じ、祖父が使っていた茶道具などを整理する機会があります。母から聞いた話ですが、祖父の祖父(8代住職)が松尾流のお茶をされていたと聞きました。庫裡の十畳の部屋から中庭を通って書院へと続く露地やつくばいなど、昔の中庭の造りとは言え、お茶を通して見ると赴きも感じます。
祖父が晩年造った四畳半の茶室に切られた炉のサイズも調べると、今のサイズより一回りほど小さい炉でした。炉用の釜や炭も使えず、風炉釜と風炉用炭で工夫していました。

平成22年に祖父の茶室の炉のサイズを、今のサイズに改めて再現(写し)しました。祖父の名の「實明」が「居る」と言う意で、その茶室を「居實(きょじつ)」庵と名づけました。

お寺に伝わる茶道具の一部を紹介します。
祖父が、居間で毎日使っていた茶碗は、黒(楽)で後に調べて知ることですが、箱に、玉水焼の「一元作写」とありました。棗は、瓢と唐草が描かれたものを使っていました。
茶室でのお茶では、茶碗や棗以外に、水指や茶杓、蓋置・建水も使っていました。

茶室を造った頃、お祝いで親戚から贈られた、風炉先(伊勢型紙に鶴が描かれています)もあります。
菓子器で覚えているものは、梅の絵が描かれたものや、高坏(たかつき)と呼ぶ菓子器です。
水指は、小ぶりのもので、底裏に「春岱」とあります。棗には、「雪吹(ふぶき)」や黒の小棗の他、濃茶入も何点かあります。茶杓は、松尾流の宗匠「楽只」(釘彫)斎の「古(いにしえ)」と銘があります。他にも地元の得水の茶杓他、本山の安楽庵の改修記念の「安楽」や桐陰(とういん)席の「桐陰」の焼き印の茶杓もあります。
茶碗は、旅行で行った、萩焼や久谷焼・美濃焼・相馬焼などの茶碗や親戚や法友(茶友)からいただいたものも残っています。祖父が還暦に自祝いとして絵を描いた茶碗も残っています。
花入で大切にして残っているのは、本山に伝わる宗旦古流のものとして、竹二重切のものがあります。後ろ側に「○○のとも」墨化(専修寺19代圓祥上人)と朱漆で書かれています。
香合は、六角織部香合に花押が書かれていますが、どなたのか分かっていません。祖父の干支の「ねずみ」香合は、松古窯の「芳りん」のものも大切にされていたようです。

箱や、道具に書かれた草書体の字が読めずに苦労していますが、これからも大切にしていきたいと思っています。