何が大切か

何が大切か
お盆勤めに伺い、お話をする時間があります。直接「大切なものは何ですか」とお聞きすることはありませんが、話の中で感じるのは、「健康や家族・生きがい・趣味・生活する為の収入」などさまざまのことが大切であることが伝わってきます。私(住職)も当然それらが大切であることに賛同します。お盆期間でありますので、先祖さんのこともお聞きすることもあります。
「南無阿弥陀仏」と称するお念仏に対してはどうでしょうか。
短い時間での会話ですので踏み込んだお話はできませんが、お仏壇を通して、今を生きる私たちの大切なものの1つに、「お念仏」が含まれているのかどうか考えることもあります。生活する中で圧倒的に「生きる」為に大切なものが最優先されるのはわかっているのですが、「生きる」意味を深めるお念仏についても関心を持っていただくよう努力しなければいけないと感じています。
宗教者として、「み教え」の魅力を伝えているのか、問われています。
※中川個人の感想です。

裏千家千玄室(大宗匠)のご逝去

裏千家千玄室(大宗匠)のご逝去

お盆の最中(8月14日)に茶道(ちゃどう)裏千家の大宗匠が亡くなられたことを知りました。
私(住職)が茶道入門時の家元でありましたが、はるか彼方の遠い存在でした。
「一盌からピースフルネス」と茶道の実践を通して世界中で「平和」への願いを、ご自身の体験も含めて語られていました。
茶道は、一期一会の席中で、一盌をかいして分け隔て無い平等な場を造り上げていきます。このような場が世界中に拡がることを大宗匠は願われていました。
私(住職)も遅々たる歩みの中で実践していければと思いを新たにしています。

大宗匠は私にとって遠い存在でしたので、直接言葉をいただくこともありませんでしたが、裏千家での研修や神宮献茶式・地区大会などでお見受けできることだけでもうれしかったです。謹んで哀悼の意を表します。

※中川個人の感想です。

【報告】8月の初盆総回向

【報告】 初盆総回向
8月の初盆のお勤めが終わりました。妙華寺では初盆の最後のお勤めを初盆を迎えられましたご家族の皆様と一緒にお勤めしています。

お勤めの後、、「高田派の平素のお給仕」のビデオを視聴していただいています。今回も、器具の不具合で視聴していただくことができず、資料を配付してお話させていただきました。ご自宅のお仏壇の作法を改めてご確認していただいています。

お盆について、真宗ではどのようにお話できるのでしょうか。40年以上前に「お盆によせて」の一文に出合いました。それ以来、真宗のお盆としての意味をお話しています。

こころ

こころ
「私の心はどこにある」と聞かれたらどう応えますか。身体の一部のように感じる時もありますが、心は「物」でなく、空(くう)の思想家・龍樹菩薩なら、「心という言葉だけがあり、実際には存在しない」といわれそうです。
実態なきものにしがみつくから苦しみが生じるというのが思想の根本だからです。

仏教の教えを短い詩節の形で伝えたダンマ・バタに、「こころ」について語られています。
「心は捉えがたく、軽くたちさわぎ、欲望のまま動き回る」(ダンマ・パダ 35偈)
「心はきわめて見がたく、まことに微妙で、欲望のまま動きまわる 聡明な人はこの頃を制御し、制御された心は幸せをもたらす」(ダンマ・パダ 36偈)
「心は遠くにさすらい、独り動き、姿かたちなく胸の奥深くに潜んでいる」(ダンマ・パダ 37偈)

先日、TVドラマを見ていて「こころ」について「こころは、人と人の間にあるもの」語られることがありました。何気ない一言で、聞き流してしまいそうになりながら、「こころ」についてこれまで考えていない視点をいただきました。
私と他者の関係性とも関連する領域もありそうで、興味深く、自分の「こころ」について考える時間をいただきました。

※中川個人の感想です。
『摩訶止観』には、「質多とは天竺の音なり、この芳には心といふ。心とはすなはち慮知なり」【浄土真宗辞典】

大裏方様の本葬儀

大裏方様の本葬儀
7月7日にご往生されました大裏方様の本葬儀(8月20日)で、専修寺総代の1人として焼香させていただきました。
大裏方様が創設されました坊守会に祖母(前々坊守)・母(坊守)が参加させていただいたことで、お寺の私(住職)のことも知っていただいたようです。「古門書を読む会」や、高田派聖典の発案の場にもお誘いいただき、学ぶ機会をいただいたことは私(住職)の中でも貴重な時間でした。本山のことを大切に考えておられるお姿は、私(住職)も見習わなくてはいけないと改めて考えることです。
※中川個人の感想です。

「好きです 久居の町」

{好きです久居の町」
お盆のお勤めに伺った時、「好きです 久居の町」の歌をお聴かせいただきました。歌詞が印刷されていて、初めて聴く歌を歌詞を見ながら聴いていました。
ご夫婦で歌の教室に参加され、主催者の方が、作詞作曲した楽曲だと知りました。
私(住職)が子どもの頃(昭和30年代)の久居の町が懐かしく思い出されます。歌詞にもあるお寺の境内の参道は、久居駅に向かう通勤・通学路として朝夕地元の方々が使われていました。
あれから60年。今も住んでいる久居の町もずいぶん変わってしまいました。ですが、私(住職)も「好きです 久居の町」が。

【報告】8月のお盆

【報告】8月のお盆
妙華寺では地区を分けて7月と8月にお盆勤めをしています。
今年の8月のお盆は、11日から15日までは例年通りお勤めに伺いました。
猛暑ではありますが、曇り空で前日までの暑さではありませんでしたが、蒸し暑いお盆でした。13日の午後からは夕立のような雨も降りました。

今月も、ひざ関節症が完治しておらず、仏壇の前に座ることができず、イスをお借りしてのお勤めでした。
お仏壇を守られている方は、年配者が多く、お一人の方も多く、毎日の生活での不安をお聞かせいただくこともありました。わずかな時間ですが、一緒にお勤めし、お話をお聞かせいただくことができることは、私(住職)にとってとてもありがたい時間です。
共に一年歳を重ねて会える縁を喜ぶことがいつまでできるか。
毎年でありますが、お仏壇を何代にも渡りその家で大切にされてきたことに頭が下がりますし、一緒にお勤めできましたことに感謝申し上げます。

また、8月のお盆の期間は、家族でお墓詣りも多く、賑やかでした。

津 平和の鐘 

【報告】8月15日津・平和の鐘
今年8回目になる、「津 平和の鐘」を8月15日に開催しました。「津がつながる津ぅりずむ」が主催し、津市内にある鐘を撞き「戦没者の追悼と世界平和を祈念する」ことに賛同した寺院が正午に黙祷をしてから鐘を撞きます。
妙華寺も趣旨に賛同して終戦記念日の15日(木)正午から30分間、一分間の黙祷の後、鐘をつきました。
今年は、終戦80年の年でもあり、戦争について考えさせられます。伝え方も難しいことを感じますが、戦いのないことを念ずるばかりです。
※中川個人の感想です。

※妙華寺の鐘は、お寺の行事の案内の時だけ撞いています。

「戦争を知らない子どもたち」

戦争を知らない子どもたち
1970年今から55年前、私(住職)が中学3年生の時、大阪万博のステージでうたわれたと記憶しています。戦争を知らない世代が社会人として活躍はじめる時代で、反戦を声高く主張するグループでもない人々に支持された曲だと感じています。個人的には、作詞の、北山修のファンでもあったのでとても気に入っていた歌の1つでした。
「戦争には反対」だけど行動(活動)することもできない私(住職)には突き刺さる歌でした。
世界中で誰もが望まない戦争が終わらないのは何故なのか。答えは簡単には見つからない問題で、問い続けることしかないのでしょうか。
※中川個人の感想です。

 

躾(しつけ)

躾(しつけ)
私(住職)が若い頃は、両親や年上の方から教えいただく中に作法や立ち振る舞いがありました。それらは「しきたり」とも言われていた部分もありました。しっかり覚えると「躾のよい子」と褒められることもありました。きっと、知らないことを教えてもらうことが楽しかったからだろうと振り返ります。

躾とは、礼儀・作法を教え込むこと
自分の環境や関心興味があることの「礼儀」や「作法」は教えられたりするものですが、自分の知らない分野のこの「礼儀」や「作法」はわからないのが実状でしょう。

躾は、日本的な「身を美しくする」生き方へつながると聞くこともあります。

一方、「しつけ」には、おしつける意味もあることを、最近知りました。
確かに、教えられることは、教えられる方から見ると、「おしつけ」になるのでしょうか。

私(住職)自身の問題として、ペットへの躾ができないのは、相手の気持ちを想像できないからでしょうか。
他にも、性別や利き手(日常生活で無意識に使いやすい手と感じ優先的に使用する手)
に関する差別や偏見も含まれていると感じることもあります。
しかし、同じ目的を持った同士的な関係からは、「おしつけ」とはあまり感じることがないのは私(住職)だけでしょうか。
※中川個人の感想です。