我慢(がまん)
じっとこらえて、辛抱(しんぼう)することを「我慢強い(がまんづよい)」などといって、人間の修養(しゅうよう)には大切な心構えのようにいわれています。
しかし、もとは仏教語で「自慢」の意味で使われています。自分の才能をたのんで、他人に押しつけたり、我執(がしゅう)によって自分をおごることです。
この心は、ほとけの教えに逆らうので「念仏を信ずることかたし」といましめられています。
月: 2016年10月
10月のおてらおやつクラブ
10月のおてらおやつクラブ 秋の千部会が終わり今月もおすそ分けさせていただきました。秋と言えば「食欲の秋」が頭に浮かびます。飽食の時代とも言われて久しい日本です。 おてらおやつクラブの活動に参加させていただきくことで、今自分の食について振り返ってみるとどれだけ一つ一つの食べ物に感謝していただいていただろうか反省することが多いです。
一人親家族の支援団体への寄付となる「古本勧進」もやっています。
次回の発送は来年1月の末です。
ご家庭で不要になりました本がありましたらお寺にお持ちください。
10月に入りお同行様から不要な本をご持参いただきありがとうございました。
対象の本は、裏表紙にバーコードのあります文庫本・新書本・単行本です。
申し訳ございませんが、週刊誌・雑誌・百科事典・全集は対象外です。
本以外、書き損じのハガキ・不要なCDも受け付けています。
四季の花
秋の千部会
道綽禅師
龍樹の『十住毘婆沙論』の「易行品」
天親の『無量寿経優婆提舎願生偈』(浄土論あるいは、往生論と略する)
曇鸞の『無量寿経優婆提舎願生偈註』(往生論註あるいは、浄土論註、単に論註と略する)
と『讃阿弥陀仏偈』
道綽の『安楽集』
善導の『観無量寿経疏』 と『法事讃』と『観念法門』と『往生礼讃』と『般舟讃』
源信の『往生要集』
源空の『選択本願念仏集』
道綽はAD562年に生まれている。それ故に「当今は末法にして、現にこれ五濁悪世(ご じょくあくせ)なり。ただ浄土の一門のみありて、通入すべき路なり」と彼は言うの である。道綽は、仏法を聖道門と浄土門に分類し、さとりを得る可能性の佛性があり、 「聖道門」というすばらしい仏法があっても、末法の時代では何の役にもたたない。 ただただ念仏して浄土往生を願う浄土門のみが、私たちのとるべき道と強く訴えた。 『親鸞読み解き事典』から
ひとくち法話
道綽禅師(どうしゃくぜんじ)
道綽禅師(どうしゃくぜんじ)(562~645)は、曇鸞大師(どんらんだいし)が亡くなられてから、20年目に中国の大原にお生まれになりました。当時は釈尊の没後1500年以上経過していましたから、禅師の教えの根底には、末法(まっぽう)の世に生まれたという意識が流れていました。
禅師は48歳の時、玄忠寺(げんちゅうじ)で、曇鸞大師の功績を讃えた碑文(ひぶん)を読まれ「大師のように知徳(ちとく)のすぐれたお方でさえ念仏門(ねんぶつもん)に入られたのだ。自分のような愚鈍(ぐどん)なものがどうして自力修行(じりきしゅぎょう)の聖道門(しょうどうもん)にとどまることができようか」と感動され、阿弥陀如来(あみだにょらい)のみ教えに入られました。
そして『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』を明らかにするため、『安楽集(あんらくしゅう)』を著(あらわ)されました。同時に田舎の7歳以上の子どもたちまでよくわかるように、お念仏を勧められたので、お念仏の声は天地にあふれるほどの盛況でありました。
その道綽禅師を親鸞聖人は、次のようにご和讃しておられます。
本師道綽禅師(ほんじどうしゃくぜんじ)は 聖道万行(しょうどうまんぎょう)さしおきて
唯有浄土一門(ゆいうじょうどいちもん)を 通入(つにゅう)すべきみちととく 『高僧和讃道綽讃第1首』
この末法の時代の私たちにあっては自分の努力で悟りを開き、仏になろうとする聖者(しょうじゃ)の道を通るのはとても難しいから私たちの進むべき道ではないとされました。そして、阿弥陀如来の願いに「はい」と、信順(しんじゅん)する他力念仏門こそが、仏にならせていただく唯一(ゆいいつ)の道であることを明らかにされました。このことを「ただ浄土の一門あり」と主著『安楽集』におっしゃっています。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より
秋の千部会 10月22日です
また、お勤めの後ご法話をお聴聞していただけます。
布教使は、明通寺の佐波真教師です。
ご法話をお聴聞していただきますと「法会参加票」に押印させていただきます。ご聴聞をお喜びするご縁となりますように、10回ご参加いただきますと記念の品をお渡ししています。
生活の中の仏教のことば
億劫(おっこう)
普通は「億劫(おっくう)」と読んで「気乗りのしないこと」をいいます。
この言葉のもとは、仏教からで「おっこう」と読みます。劫(こう)は、極めて長い時間のことで、それを億倍したものが億劫(おっこう)ですから「無限」「永遠」という意味で用いられています。
親鸞聖人が、「真実の浄信、億劫(おっこう)にも獲(え)がたし」とのべられたのは有名です。
曇鸞大師
龍樹の『十住毘婆沙論』の「易行品」
天親の『無量寿経優婆提舎願生偈』(浄土論あるいは、往生論と略する)
曇鸞の『無量寿経優婆提舎願生偈註』(往生論註あるいは、浄土論註、単に論註と略する)と『讃阿弥陀仏偈』
道綽の『安楽集』
善導の『観無量寿経疏』 と『法事讃』と『観念法門』と『往生礼讃』と『般舟讃』
源信の『往生要集』
源空の『選択本願念仏集』
また、曇鸞は「他力」をあきらかにした。「覈求其本釋」(かくぐごほんじゃく)とよ びならわしている「まことに其の本を求むるに、阿弥陀如来を増上縁となす」といい、 また「およそこれかの浄土に生ずると、およびかの菩薩・人・天の所起の諸行とは、 みな阿弥陀佛の本願力によるがゆえなり。なにをもってこれをいふとなれば、もし佛 力あらずは、48願すなわちこれ徒説ならん」と語って、阿弥陀佛の本願力=佛力こそ がすべてであると主張する。この項目のまとめとして、「他力を増上縁となす」とある が、阿弥陀如来の本願力=佛力がすなわち他力であり、この他力こそが往生を得させ る根源の力であると説く。曇鸞の『浄土論註』の主張は他力思想であるとされる。
その他に曇鸞が示した特徴的な教えは、阿弥陀佛に救われるべき人間はどのような種 類のものか議論し、謗法罪(ほうぼうざい)のものは、浄土願生の理がないから救わ れないと示したこと。信心のすがたを丁寧に説いたこと。法性法身(ほっしょうほっ しん)と方便法身(ほうべんほっしん)という二種法身説を説き、阿弥陀佛のすがた をあきらかにしたこと。さらに「廻向は二種あり」として往相と還相を教えたことがある。 『親鸞読み解き事典』から
ひとくち法話
曇鸞大師(どんらんだいし)
斉朝(せいちょう)の曇鸞和尚(どんらんかしょう)は 菩提流支(ぼだいるし)のおしえにて 仙経(せんぎょう)ながくやきすてて 浄土にふかく帰せしめり 『高僧和讃曇鸞讃第1首』
七高僧の第三祖は曇鸞大師と申し上げます。今から1500年程前、中国の雁門(がんもん)、今の山西省太原(さんせいしょうたいげん)あたりのご出身です。
近くの霊地五台山(れいちごだいさん)で出家されました。仏教をはじめ多くの書物を学ばれたので、後に四論(しろん)の始祖と仰がれるようになりました。
しかし、病にかかり、まず長生きの方法を身につけねばと考え、当時の道教の権威であった陶弘景(とうこうけい)から不老長寿の法を学んで、仙経十巻を授けられました。
喜ばれた大師はその帰途、洛陽(らくよう)で菩提流支(ぼだいるし)に出会ったので「仏教の中に、道教で説くよりも立派な不老長寿の法はあるのか」と尋ねましたところ、菩提流支は大地に唾をはいて、その愚かさを笑い「そんな仙経が何になるか、永遠のいのちを身につけるのはこのお経ですよ」といって、『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』一巻を曇鸞大師に授け、長生不死の法は、仏教にまさるものはないということを力説されました。
菩提流支の教えに深く感ずることのあった大師は、せっかく持ち帰った仙経を焼き捨てて、深く浄土の教えに帰依されたのでした。
それからの大師は、道教はもちろんのこと自力修行の仏道をすべて捨てて、浄土の教えを明らかにすることに精進されました。
この曇鸞大師のお導きで自力(じりき)と他力(たりき)の教えが明確になり、一層はっきりとお念仏がいただけるようになりました。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より