寺族からの便り Vol.2

寺族からの便り Vol.2
高田派青年会 感想
全国津々浦々に散らばっている真宗高田派の青年僧侶・寺族が集まり共に仏教や真宗の見聞を広める青年大会が毎年1度開催されています。今年度は、「あなたにとって信仰とは」というテーマで2日間にわたり東京にて講義をいただきました。
ここでは2日間で学んだことを踏まえ、感じたことを述べたいと思います。

宗教と呼ばれるものには、共通点を感じています。それは「死なないために何かをする」のではなく、死んでいくことの先に物語を有しているという点です。特に「世界宗教」と呼ばれるような国や人種を超えて広がりを持っている宗教には、死んでいくことの意味や死を超えたストーリーを私たちに語ってくれている一面があると常々感じます。

普段の生活の中では、私たちは「自分や家族の死」をテーマにじっくりと話をする機会はあまりありません。そんな話は不謹慎な話、縁起でもない話となるか、想像しただけで悲しい気持ちになるので触れたくないというのも正直なところあるでしょう。さらには、家族の死といって考えるのは、家族の中で一番の年長者の死を想像するかもしれません。けれど「家族の死」というのも、家族の中で最も年が若い者の場合もあるし、自分より小さな家族が命を終えていくことも実際にあるわけです。少し想像しただけでも、そのような状況は胸が締め付けられるし、そのような話が普段の生活の中であがらないのも無理はないことだと思います。
では、仏教の場合はどうでしょう。仏教の場合は、常なることはこの世界で一つもないから、命の終わりは、いつどこで誰の身に起こるのか順番はなくやってくると説かれています。そして、阿弥陀という仏様は「すべての生き方、死に方が尊い」と私たちを見てくださっている仏様だと知らされます。つまり、どのような縁によって生きて、どんな命の終え方をしても関係なく、世間の人すべてから見捨てられたとしても、見捨てず、命終えるその瞬間もその後もそばにいてくれる仏様という存在が自分の世界観、人生観の中に存在するようになるということです。
存在するということは、仏様からみた世界を私たちが知らされていき、その世界を生きて命を終えていくということになります。これが「死んでいくことの先の物語」に繋がっています。


1日目の講義の中では、代々木公園の近くにある東京ジャーミイと呼ばれるイスラム教の寺院の見学をさせてもらいました。他者との関わり、他文化との関わり、他宗教の価値観に触れるということは、自分の価値観を知らされることにつながっていきました。
印象的だったのは、イスラム教に出会われた方が、ご自身の心境の変化の一つに「死ぬことの怖さがなくなった」という内容をおっしゃっていたことでした。死んでいくことへの恐怖が消えることのみが宗教のもつ「救い」だとは私は思っていないのですが、これも宗教の持つはたらきの一つと言えるのだろうと感じました。
そして、自分のことを振り返ってみると私の死生観はどうだろうなという問いが生まれました。
自分の命の終わりを想像すると、その時に出てくる思いというのはその時の縁によって様々になりそうです。しかし、自分の気持ちをわかってくれる存在、つまり仏様のはたらきが届いているということの安心感の大きさがこれまで意識をしなかったような、自分の信仰の境界線として浮かび上がってきました。それは、言ってみると恐怖に打ち勝つ「救い」ではなく、恐怖の気持ちを内包したまま救われることが知らされる救いだと言えるような気がします。自分の感覚を言葉にしてみると、自分の望む「救い」とは違う救われ方が存在するし、そのことによって自分も救われると知らされることが今届いている救いということでしょうか。ややこしいですね。
教えに出遇い、浄土真宗の世界観を生きるということは、その前の世界観を生きる自分には戻れません。そして、価値観や人生観に影響が与えられるということは、行動に対しても当然影響が出てくるということです。信仰が継承されていくというのは、そこに集う人々の上に現われてくるそれぞれの人々の生き方が影響し合っていく中で、繋がっていくのだろうと思いました。
さらに、2日目の講義では、中国で浄土真宗に出遇われたチャン・ウェイ先生のように書物を通して広がりを持っていくことによって、国を超え、話す言葉を超えて、人々に届いていくとのだということを教わりました。お念仏の教えに頷くということに国境は関係ありません。
思うに、過去から今の私に浄土真宗のみ教えが届くまでずっとそうであったことに改めて気付かされる時間となりました。そして、これから未来に向けてもそうなのでしょう。                                                     合掌 釈鳳瑞

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※住職より 「寺族からの便り」が届きましたので掲載いたします。娘は今年の3月に龍谷大学大学院を卒業しましたが、まだまだ京都で研鑽中です。6月に高田派の青年会に参加して学んだことを報告していただきました。
今後も、お同行の皆様と共に親鸞聖人のみ教えにお育ていただければと思います。
また、「お同行の皆様からのお便り」をお待ちしています。皆様のお寺への思いや期待、苦言や提案がありましたらお知らせください掲載させていただきたいと思います。

 

寺族からの便り

寺族からの便り Vol. 1
 私は、大学卒業後、京都市の児童館に勤務し、人と人とがつながる仕事に大きな喜びを感じました。
僧侶となり、学びを深める中で、寺院もたくさんの人がつながる拠点となりえるのではないか、あたたかい居場所作りを通じた伝道活動も行なえるのではないかと考え、教義と現代の私たちが暮らしている生活の間でもぶれない軸を求めて龍谷大学大学院の実践真宗学研究科への進学を希望しました。
 現在は、次世代へと続く寺院活動の可能性について関心があり研究を行っています。様々な寺院活動が各地で展開されている中、寺院活動の分析や伝道学の理論について研究を行いながら、自身が試行錯誤しながら学び続けていく姿勢を持ち続けていきたいと考えています。
 実践真宗学研究科では、「多様な社会の中における宗教の使命とは何か」多角的に深く考えることができ、これまで大切に伝わってきた宗教の根幹が次世代へとつながるために大きな意味がある研究だと感じています。
また、高度な専門領域を持った先生方、多彩なバックグラウンドを持っている院生たちと共に研究できる実践真宗学研究科は、教義と現代社会をつなぎつつ、単なる自己満足で終わらない、意味ある宗教実践や社会実践を行うための素養を養える、他にはない貴重な環境です。
 少しでもたくさんのことを吸収して持ち帰り、お同行の皆さま、妙華寺とご縁のあった方々と、仏教の持つ力を大切にしながら、いのちのはじまりから終わりまで自然と語り合える、人生の悲しみもよろこびもそのまま大切にしてくれる仏様を中心とした歩みをすすめていきたいと思っています。
合掌 釈鳳瑞
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※住職より 「寺族からの便り」が届きましたので掲載いたします。娘は2年前の夏に得度をいたしました。昨年から龍谷大学大学院で学んでいます。これからのお寺にできる可能性をお同行の皆様と共に学び続けていきたいと願っています。
また、「お同行の皆様からのお便り」をお待ちしています。皆様のお寺への思いや期待、苦言や提案がありましたらお知らせください掲載させていただきたいと思います。