報恩
真宗で「報恩」と言うと、「報恩講」が先ず思い浮かびます。
浄土真宗辞典では「自分自身に受けた恩に報いること」とあります。
法話で「報恩とは、ありがとうのお念仏」と簡単明瞭にお聞かせいただく場合もあります。
先日、拝読した法話では。
「道に迷った時、道を他者に教えてもらった」時の恩に報いるのは、「ありがとうございます」と言うことでなく、「教えてもらった通り、道を歩むこと」が根本的な報恩です。
そう考えた時に報恩というのは、その恩人が私に何を願ったのだろうか、私に何を教えてくださっただろうか、そのことを尋ねるところから生まれてくるわけです。
逆に言えば、そのことを尋ねる心がないところには報恩は生まれてこない。
阿弥陀さまは、私に、生きがたいこの人生を歩むのに、お念仏をしながら歩みなさい。そして、死ぬときは、滅びるのでなく、浄土に生まれると受けとめなさいと教えられました。
「仰げば尊し」井上見淳 2022年5月16日 ご命日法話から抜粋
よくよく考えると、「報恩」は、私に尋ねる心がなければ、生まれないのでしょう。
そう考えると、尋ねる心がない状況は、縁がないことなんでしょうか。また、尋ねる心はどのように生まれるか、興味深いてす。
※「報恩」には、「恩返し、受けた恩を少しずつ返していく」(鶴の恩返し)意味もありますが、真宗では、「恩返し」の意味ではあまり使いません。
※中川個人の感想です。