【案内】8月の日曜学校は4日午前7時30分からです

【案内】8月の日曜学校は、4日朝7時30分からです
8月の日曜学校は、久居の花火の翌朝です。暑い中ですが、お待ちしています。
ご家庭での平素の夕時のお勤め(嘆仏偈・文類偈・5首和讃)を一緒にお勤めいたします。輪(りん)の鳴らし方や、念珠の持ち方もご一緒にしますので自然と覚えます。
新しい年度始まりから、日曜学校にご参加しませんか。

また、ご参加いただきますと念珠の一珠をお渡しして、24珠で単念珠が、108珠で二連念珠ができるようにご用意しています。(親珠には「妙華寺」の寺院名が刻印されています)

報恩

報恩

真宗で「報恩」と言うと、「報恩講」が先ず思い浮かびます。

浄土真宗辞典では「自分自身に受けた恩に報いること」とあります。
法話で「報恩とは、ありがとうのお念仏」と簡単明瞭にお聞かせいただく場合もあります。
先日、拝読した法話では。
「道に迷った時、道を他者に教えてもらった」時の恩に報いるのは、「ありがとうございます」と言うことでなく、「教えてもらった通り、道を歩むこと」が根本的な報恩です。
そう考えた時に報恩というのは、その恩人が私に何を願ったのだろうか、私に何を教えてくださっただろうか、そのことを尋ねるところから生まれてくるわけです。
逆に言えば、そのことを尋ねる心がないところには報恩は生まれてこない。
阿弥陀さまは、私に、生きがたいこの人生を歩むのに、お念仏をしながら歩みなさい。そして、死ぬときは、滅びるのでなく、浄土に生まれると受けとめなさいと教えられました。
「仰げば尊し」井上見淳 2022年5月16日 ご命日法話から抜粋

よくよく考えると、「報恩」は、私に尋ねる心がなければ、生まれないのでしょう。
そう考えると、尋ねる心がない状況は、縁がないことなんでしょうか。また、尋ねる心はどのように生まれるか、興味深いてす。

※「報恩」には、「恩返し、受けた恩を少しずつ返していく」(鶴の恩返し)意味もありますが、真宗では、「恩返し」の意味ではあまり使いません。
※中川個人の感想です。

炭団のたとえ

炭団(たどん)のたとえ
「人間は、磨けばダイヤモンドになるとか、洗えば白くなると思いたいんや。でも凡夫っていうのは洗っても白くならん、磨いても芯の芯まで真っ黒なんや」「炭団の輝く方法が1つあるんや」「炭団を磨いてダイヤモンドにしようとしたり、洗って綺麗にしようとするのは方法が間違っとる。炭団の輝く方法は、仏法の火がつけばええんや」「真っ赤になって燃えるやろ。だから、炭団と言っても、情けない者という意味ではないんや」
※安田理深  「人間はなぜ争うことをやめられないのか」 一楽真著から抜粋

このたとえは、「自分自身に仏性があるか、ないか」を問われているように感じます。あなたはどう感じますか。
※中川個人の感想です。

【報告】7月の初盆総回向

【報告】7月の初盆総回向が終わりました。妙華寺では、7日に各自宅で「火入れ」と称して初盆の方の法名を荘り、お盆中にお寺に法名を「送り」(安置)、お寺で23日まで朝晩お勤めをしています。最後のお勤めを皆様と一緒にして、仏壇の給仕の仕方を紹介しています。
最近は、自宅での「火入れ」のお勤めを略して、本堂で「火入れ」のお勤めをされる方も多くなりました。
今回は、DVDの器械が途中で動かなくなり、ご迷惑をおかけしました。
高田本山作製の仏壇の給仕の紹介も50年以上前のビデオですので、映像や音声も新しくしたほうが良いかもわかりません。

花をとおして

花をとおして
花と聞くとみなさんは何を思い描くでしょう
私(住職)は、四季折々の梅・桜・藤・紫陽花・蓮・百日紅など境内の花々が思い浮かびます。また、茶花や生け花や本堂の立華、内仏(仏壇)や墓の供華にも思いが及びます。
そして、はかなさも感じることがあります。花のはかなさ(無常)から、自分の「いのち」のはかなさに想いを馳せる時もあります。
違う一面では、花の値段を気にする場合もあります。境内や庭で花を育てようとする時、園芸店で花を探しながら、価格の安い花を求めたりします。自分の中で花にランク付けするということは、「はからう」ことを無意識にしているのでしょう。「花以外でも生きている中で同じようなことをしているのではないか」と考えると私(住職)は、はたして、「仏教の教えに遇うことができているのか」が問われているように思ってしまいます。
みなさんは、花をとおして、どのようなことを思いますか。

「ことばの向こうがわ」

「ことばの向こうがわ」安部智海著 法蔵館
今から13年前の東日本大震災の被災者に寄り添い話を聞く2011年から2016年までの仮設住宅居室訪問活動の記録です。
7年前に出版されてから、今回ご縁をいただいて、拝読する機会を得ました。
阪神淡路大震災の時もそうでしたが東日本大震災のTV中継(映像)には、とても衝撃をうけました。遠く離れた場所に住んでいる私(住職)でも胸を締め付けられる思いが、今も込み上げてきます。被災された方々も誰1人同じではない想いを聞き取ること、時間の経過の中で変化する想いを拝読しながら、このそれぞれの想いをどのように捉えていけばよいのか、とまどうばかりです。被災者のいろんな感情(死にたい気持ちや自分を責める気持ち)に気づかせられながら、それでも生きていくこととの意味は何か。発せられたことばの想いは何か。人間の根源的な意味を問われているようです。

私たちの住んでいる地域も東南海地震で被害が発生する可能性があり、地震対策に備えていますが、実際被災した場合の、人々の想いまでは考えることがありませんでした。その時の私の想いはどうなるのか、気になるところです。

妙華寺では、この本を何冊か必要な方へお渡しすることができます。関心がありましたらご連絡ください。

先輩との分かれ

先輩との分かれ

7月のお盆の期間に、5歳上のお茶の先輩が亡くなられたと17日に連絡を受けました。ご本人の意向で家族で葬儀をされたそうです。先輩は、私が青年部活動を始める時にそれまでの青年部長として長年活躍されていました。青年部の年齢でありながら、支部活動に関わられ長く支部役員として尽力されていました。この間、三重県の青年部や支部の成り立ちを丁寧にお教えいただき、他青年部や他支部の会員と交流し、次世代に引き継ぐことの大切さを学びました。私が青年部を卒業してからは、同じ支部の班の会員として一緒に活動させていたこともうれしい思い出です。三重北支部青年部主催の東海ブロック大会や三重北支部主催の東海地区大会では、支部・青年部の役員として一緒にお手伝いをしながら多くの組織運営について学ぶことができ、今の寺院運営にも生かされています。
この2年は、闘病生活であまりお会いすることもできない状態で、私はさみしい思いでした。茶道の多くの事をお教えいただきありがとうございました。

【報告】7月のお盆

【報告】7月のお盆が終わりました。
今年の12日から15日の4日間は、強雨から始まりました。13日は曇りで、14日は午前中曇りで午後から雨でした。15日も12時頃から雨が降り出しました。この時期は、梅雨の終わりですので天候は不順ですが、我が儘ですが、雨が降らないことを願ったりしてしまいます。
同世代の家に伺うと、これまで家族のことの話が多かった気がしますが、今は、自分の健康のことの話題が増えてきたように感じます。また、ご高齢でもまだまだ元気な姿を拝見すると、こちら(住職)に元気をいただくこともあります。
また、今年は、お盆中に葬儀も重なり、多くの僧侶の協力があって無事終わりました。
毎年のことで間違いがないようお伺いしていますが、こちらのミスでご迷惑をおかけしてしまうこともあり申し訳ない気持ちです。
私(住職)自身のことですが、年々、疲れが取れにくく感じています。
暑苦しく、健康管理が難しい時期ではありますが、自分自身のことや先に往生された先達のことに思いをはせる時間(私はなにものか)も大切だと感じています。

お盆によせて

お 盆 に よ せ て

お盆といいますと、私たちは、一年に一度家に帰ってこられるご先祖の霊に供養し、なぐさめることと思っています。
しかし実は、お盆は、どれほど厚い孝心をもって亡き母への供養をしても、所詮その心はとどかないものであったことを思い知らされた目蓮尊者の悲嘆に由来している仏事なのです。つまり、亡き人への供養一つできない身であったことを、あらためて懺悔し、自らが聞法する時なのです。
私たちの日々は、ふりかえってみますと、そうはっきり意識しているわけでないにしても、自分があって父母があり、おのれがあって社会があるという考え方、生き方をしています。亡き人々への供養といっても、自分の心のままに務めているもので、供養の後は、これで一安心と、自分が満足するものでしかありません。
母親への供養が届かないことを悲嘆する目蓮に、釈尊は、安居(あんご)のとき衆僧供養することをすすめられます。安居とは、虫たちがもっとも活発に歩きまわる季節をいいます。無駄な行動をして虫たちを踏み殺さないようにつつしみ、専ら聞法につとめる期間です。
お盆は、亡き肉親をはじめ、こんなに多くの人(多くの命)とのつながりのなかに賜っている我が身の命を、今一度いただきなおし、その尊さを聞きひらいていくべき時であったのです。
そしてもし、私が、賜っているこの私の命を歓び、尊ぶということがなければ、ご先祖への供養も、遂に形だけの気安めに終わるばかりです。
宮城 顗
【法苑院妙華寺資料】

妙華寺では、7月12日から15日までと8月11日から15日まで、地区を分けてお盆のお勤めをさせていただいています。
お盆の期間、お釈迦様の弟子の目蓮尊者の母親の話から「いのち」について考えさせられることがあります。
当日、お盆勤めのご都合が難しい場合は、ご連絡ください。他の日時やお墓でのお勤めも可能です。

 

「人のさいご」

「人のさいご」
看取りの場で出逢った人々から実際に「人は死ぬ時にどう変化していくのか」と問われた経験から生まれました。自分のいのちが閉じられていくことに気づいたとき、自らに訪れる変化を知っておきたいと願う人が多くいるからです。人のいのちがどう閉じられていくのか、前もってその知識に触れておくことが、きっと大切な人と過ごす時間をかけがえのないものにしてくれる。わたしたちは、そう願っています。
「人のさいご」制作チーム一同 「人のさいご」を制作した理由が述べられています。

私(住職)は、自分なりに父母を見送りましたが、看取りの多くは、医療関係者や介護関係者に委ねていたことをあらためて自覚しました。誰もが1日24時間ずっと付添うことは不可能だと感じます。新しい「いのち」が生まれてくる時も、「いのち」の最後に関わることもひとりでは何一つできません。
自分が生まれてきたことのことは、記憶として残っていませんが、自分の死期(さいご)について、学ぶことができる1冊です。

※中川個人の感想です