今年最後の日曜学校は4日の報恩講の朝7時30分から8時頃までです。
お寺の一番大切な日を日曜学校から始めませんか。報恩講のお話しもできればと思っています。
ご家庭での平素の夕時のお勤めを一緒にお勤めいたします。輪(りん)の打ち方や、念珠の持ち方もご一緒にしますので自然と覚えます。
また、ご参加いただきますと念珠の一珠をお渡しして、24珠で単念珠が、108珠で二連念珠ができるようにご用意しています。(親珠には「妙華寺」の寺院名が刻印されています)
月: 2016年11月
生活の中の仏教のことば
報恩講のご講師様から
講師挨拶
この度は妙華寺さまの報恩講にご縁を頂戴しました、大河戸悟道と申します。
報恩講とは恩に報いる講(あつまり)という名称であります。さて、その恩とはいかなるものなのでしょうか。よく「親になって初めて知る親の恩」などと言うことがありますが、親になったからといって親の恩に気づくとも限りませんし、もし「ありがたい」と感じることがあったとしても、それで親の恩を知り尽したとは言えないであろうと思います。
報恩講の恩とは、親鸞聖人がいらっしゃったからこそ、この私はお念仏に出遇うことができたことに違いありません。その恩を私はどれほど頂戴しているのでしょうか。気づかないまま息をしているばかりでは、恩に報いるどころか、恩を恩とも知らずに生きていることになってしまいます。
報恩講は私の人生における句読点のようなものと思っています。ここで一旦立ち止まり、足元から確かめてみることで、大きな恩に気づくかもしれません。
南無阿弥陀仏
住職より
※今回の布教使であります大河戸悟道(おおこうど ごどう)師からご挨拶が届きましたのでご披露させていただきます。大河戸師は、豊橋市にあります高田派の正太寺(しょうたいじ)のご住職です。高田本山では勿論のこと宗外でも布教について研鑽されています。
この度ご縁をいただきまして妙華寺の報恩講でご法話をいただくことになりました。
私たちは人生の中でどれほどご法話をお聴きすることができるでしょうか。振り返ってみると私(住職)は自坊の年に5回ある行事のご法話も満足に聴聞できていない身であります。多忙であるから聴聞できないのでなくなんとはなしに聴聞する時間をとらない自分自身があるのです。聴聞できる時間をとらないと聴聞できないのであれば365日間、聴聞する訳ではありません。是非とも妙華寺の5回の行事にご参詣いただき、ご法話をご聴聞していただければと思います。
大河戸師の正太寺につきましては正太寺のHP(http://shotaiji.com/)がございますのでご覧下さい。
源空聖人
龍樹の『十住毘婆沙論』の「易行品」
天親の『無量寿経優婆提舎願生偈』(浄土論あるいは、往生論と略する)
曇鸞の『無量寿経優婆提舎願生偈註』(往生論註あるいは、浄土論註、単に論註と略する)
と『讃阿弥陀仏偈』
道綽の『安楽集』
善導の『観無量寿経疏』 と『法事讃』と『観念法門』と『往生礼讃』と『般舟讃』
源信の『往生要集』
源空の『選択本願念仏集』
『親鸞読み解き事典』から
ひとくち法話
源空上人(げんくうしょうにん)
源空上人は法然上人(ほうねんしょうにん)の名で親しまれています。
上人は平安時代の末、崇徳天皇(すとくてんのう)の長承2年(1133年)4月、美作(みまさか)の国(現在の岡山県久米南町)でお生まれになりました。親鸞聖人より40年前のことでした。
ご幼名は勢至丸(せいしまる)と申されましたが、勢至菩薩(せいしぼさつ)に似て、よほど智慧のすぐれたお方だったのでしょう。御父君は明石の代官の夜襲を受けて、亡くなられたのですが、その時、枕元に勢至丸を呼んで「父の恨みで代官を『敵討ち』してはならぬ。次はお前も敵対されて、これが代々続いて永遠に恨みとけないものであるぞ」とさとされました。
この遺言が法然上人を仏道に向かわされたと伝えられています。
上人の御事績は数多くありますが、中でも特筆すべきことは『選択本願念仏集(せんじゃくほんがんねんぶつしゅう)』を著されたことでしょう。ここで老若男女や身分の上下に関係なく、お念仏一つでまちがいなくお浄土まいりができると説かれたのでした。
比叡山を去り東山の吉水(よしみず)を拠点に説法される法然上人の許には、庶民も含めて群衆が門前市をなすようでした。ここへ親鸞聖人も観音菩薩の夢告をうけて馳せ参じられました。親鸞聖人は『教行証文類(きょうぎょうしょうもんるい)』の中の「正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)」に
本師源空明仏教(ほんじげんくうみょうぶっきょう) 憐愍善悪凡夫人(れんみんぜんなくぼんぶにん)
真宗教証興片州(しんしゅうきょうしょうこうへんしゅう) 選択本願弘悪世(せんじゃくほんがんぐあくせ)
と讃歎されたのでした。わが師法然上人がこの世に現れなかったら、浄土の真宗の教えを、庶民に届けることもできなかったと、上人の徳を称讃されたのでした。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より
11月のおてらおやつクラブ
活動開始からおよそ3年、おかげさまで全国各地に広がっている当活動ですが、貧困問題については、日本のどこにでもあるということがまだまだ認知されていない、あるいは「見て見ぬふりをされている」という現状があります。
問題が知られなければ対策をすすめることも容易ではなく、支援団体や当事者の多くの方が問題周知について悩みを抱えていらっしゃいます。
そこで、おてらおやつクラブに参加していただいてる皆さまに、その事実周知の一翼を担っていただきたく、その方法の一つとして募金箱の設置を提案させていただいております。ぜひ設置にご協力いただけませんでしょうか。
一つひとつのお寺が貧困問題を考える場となり、「おてらおやつクラブ」がその解決のための実践活動であることを多くの方に認知してもらい、募金という形で応援頂けたならばこれ以上の喜びはありません。
でお知らせいたしますので、ぜひご覧くださいね。
https://www.facebook.com/oteraoyatsu
次回の発送は来年1月の末です。
ご家庭で不要になりました本がありましたらお寺にお持ちください。
11月も10月に続いてお同行様から不要な本をご持参いただきありがとうございます。
対象の本は、裏表紙にバーコードのあります文庫本・新書本・単行本です。
申し訳ございませんが、週刊誌・雑誌・百科事典・全集は対象外です。
本以外、書き損じのハガキ・不要なCDも受け付けています。
お寺ってなんだ1? ~求められる寺院のすがた~
今回のシンポジウムのパネリストは、「人口減少社会に生きる寺院仏教に覚悟はあるか」と題して櫻井義秀先生と、「寺院の機能とお寺の存在の相即を」と題して山口洋典先生と、「お寺への回帰」と題して藤丸智雄師がそれぞれの立場で提言されました。コメンテーターとして貴島信行師が3名のパネリストの提言をまとめていただき、後半に葛野洋明師がコーディネーターとして4名の方々に提言を更に深く起こしてながらお聞きくださいました。聴衆者からの質問にもたくさんお答えいだき満足することでした。また後半のはじめに龍谷大学大学院実践真宗学研究科の3名の「地域とともに歩むお寺」・「首都圏のお寺」・「ハワイのお寺」のレポートの発表もありとても充実した時間でした。詳細は書ききれませんので省略しますが、今お寺を預かっている私(住職)にも改めてお寺のこれからについて考えさせていただく時間になりました。これまでのお寺とお同行様との関係を続けることの難しさを住職としてこの10年間肌で感じることもあります。私(住職)がお寺のものさしと社会のものさしの違う点をお同行様に充分お伝えする力不足に原因があるのですが、お寺とお同行様の関係を何か対極として考えたりしてしまうこともあるようです。しかし、お寺もお同行様も向かおうとするところは、共に歩む方向は同じであります。提言にもありましたが、「わたしと」一緒にお寺を1つのコミュニティの場として成り立つことができればと感じました。また、これまでお寺が取り組んできたことを新たな視点で見つめ直すことも必要と感じました。寺院の運営についてこれまで以上に様々な困難も生じると思われますが、妙華寺のお寺の使命として「私たちのお寺はあなたをひとりぼっちにしません」を大切にしてお同行の皆様に向き合って、共に歩んで行きたいと思っています。
報恩講お非時(ひじ)のお手伝いのご案内
今年より報恩講は、12月の第1日曜日(今年は4日)にお勤めをいたします。
この報恩講のお非時(ひじ)のお手伝いは、これまで婦人会会員の皆様にお願いをしておりました。近年は婦人会会員の皆様もご高齢の方が多くなりご奉仕をいただくにあたりご無理をお願いしております。婦人会の会員様の増加が望まれますが、現状では難しいことでもあります。
お手伝い(ご奉仕)していただく日時でございますが、
・前日3日(土)は、午後1時30分より準備(午後4時頃には終わります)
・当日4日(日)は午前8時30分より準備、午前11時から午後1時過ぎまでがお非時
(ひじ)のご奉仕の時間、その後片付け(午後3時までには終了)
『ぴっぱら』11-12月号から
2ヶ月に一度送られてきます『ぴっぱら』11-12月号の巻頭言にあたる「如是仏観」に奈良康明師の「葬儀の心」と題された文章が掲載されています。今の葬儀のあり方を遺族側の視点で考察されていて私(住職)は、そうだったのかと頷くばかりでした。「死者をどう悼む」かの継承がいろんな条件で難しくなっている時代ですが著者の最後の言葉「葬儀は形ではなく、心の出来事なのである」を伝える努力をしなければと感じました。
現代社会の中では親から子どもへも伝えることもままならない時代のようです。(私も先達から伝わったことを次の代に伝えることができるかと言うとあまり自信がありません)伝えることの必要なものの1つに「死者をどう悼む」かの問題は社会の中での宗教者の存在価値にも関わってきそうな感じです。
また、臨床仏教公開シンポジウムin京都の「いのちのケアを考える」のレポートも掲載されています。9月に京都で開催されることを案内していただいていましたが、所用でいけなかった私(住職)にとって有難かったです。テーマは「日本人の精神性に即したスピリチュアルケアとは?」キリスト教の宗教文化の中で培われてきたケアのあり方を日本の宗教文化の中で活用していく方途を探ることが目的のようでした。四人のパネリストの提言と議論があったようです。日本の生活環境の変化と社会の中で僧侶の存在感の希薄化が今後遺族の方々のケアに機能しなくなることに危惧され、総括として大学や研究所で、死をどのように受け入れるということに加え、仏教や葬儀の意味について建設的に考えようとすることが増えるのではとまとめられたようです。
「誰もが漠然とした不安を感じているさなか「いのち」について生涯を通じて問い続け、苦しみに寄り添う実践を行い続ける宗教者、仏教者が、今求められているのです」と最後にまとめられた言葉に向き合いながら実践活動ができればと思いました。