しかたがない
私(住職)は、相手の話を聞きながら、よく「しかたがない」の言葉を使ってしまう。言われた相手は、「現状を受用しなければ」と受け取られ、自分に寄り添ってもらえない言葉として、どうすることもできない気持ちになったり、諦める言葉と感じられ、「しかたがない」と言った人を嫌悪してしまう。対人支援の場では禁句の1つなんだろう。
檀家さんとの付き合いで、その時の主になる人に「へつらうな」と言われた。どこにでもある話だが、家族間のいさかいごとに一方に肩入れしないことと同じように感じる。
当人にとっては、自分の味方なってもらえないので「いやなやつ」になってしまう。
以前、実の母が早く亡くなり、父が再婚した義母に育てられた方がいた。その義母が亡くなった時、お骨をどうしてもその家の墓に埋葬することができずにいる。義母から生前虐待を受けいたそうだ。その心境に寄り添うことはできても、ではどうしたらよいのか。 お寺には、共同墓もあるのでそちらも紹介するのだが、それもしない。対人支援の専門家に聞くと、亡くなった義母を憎しみことが生きる支えとしていたのが、義母が亡くなったことで自身の生きる支えがなくなり、戸惑われているのではと指摘された。
何年か前の夕暮れに、突然、大学生が、親とけんかをして、「死にたい」気持ちになって、最後に暖かいお茶がほしいとやってこられた。理由を聞きながら、けんかの相手の親御さんのことが気になった。その話を対人支援の専門家に話したら、目の前にいる大学生のことより、何故、その親御さんのことに気が向いたのか問われた。私(住職)も子どもの親であることや、子どもであった自分が親とけんかしたときの状況を省みてなど理由をあげることはできるがはたしてそれが本当の答えだったんだろうか。
どこに、目の前の相手に寄り添えない気持ちがあるのだろうか。
寄り添うことができたとしても、他者であることの意識が強いのかもわからない。
また、失礼なことであるが、相手(人間)の言葉が真実ではないと感じてしまっているのか。
それは、私(住職)自身(人間)の言葉に真実を見いだせないからなんだと思う。
私の言葉に真実がないことに気づきながら、他者の言葉もそうであると思ってしまう自分がいる。
「しかたがない」の言葉は、現状を受用することや、諦めの言葉でもあるが、私(住職)自分自身に絶望を感じている言葉なのだ。
では、真実の言葉はどこにあるのか。求めてしまう私がいる。