8月のおてらおやつクラブ

8月のおてらおやつクラブは、24日25日に一人親家族様と支援団体様にお送りいたしました。
今回はお盆の後、台風20号の後でゆっくり時間がとれず、お渡しできる日と宅配日が違う日になりました。
支援団体様は、例年夏休みの最後にバス旅行を計画されていて、その時配布していただくようです。一人親家族様には、久居の梨をお送りできました。

また、おてらおやつクラブ事務局が作成された「てばなす」と言うフリーペーパーが創刊されました。秋彼岸法会のご案内時に配布したいと思います。

また、年2度回収の古本勧進での古本も募集しています。
今回は8月末までに集まった古本を寄付させていただきます。
不要になりました古本がありましたらいつでもお寺にお持ち込みください。
対象の本は、裏表紙にバーコードのあります文庫本・新書本・単行本です。
申し訳ございませんが、週刊誌・雑誌・百科事典・全集は対象外です。
本以外、書き損じのハガキ・不要なCDも受け付けています

9月の日曜学校は2日です

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9月の日曜学校は2日です。朝7時30分から8時頃までです。
ご家庭での平素の朝時のお勤め(歎仏偈・正信偈・5首和讃)を一緒にお勤めいたします。輪(りん)の鳴らし方や、念珠の持ち方もご一緒にしますので自然と覚えます。
また、ご参加いただきますと念珠の一珠をお渡しして、24珠で単念珠が、108珠で二連念珠ができるようにご用意しています。(親珠には「妙華寺」の寺院名が刻印されています)
早くも学校では二学期が始まる月です。月日が早く過ぎると感じるのは年のせいでしょうか。人生の歩みをより豊にできる時間を尋ねてみませんか。

初盆総回向お勤めしました

【24日の台風一過の朝 本堂から山門】

本堂の上がり口は雨が降り込んでいます。山門の片方が風で煽られたようです。

8月の初盆の総回向が終わりました。台風20号が上陸する頃で前日から総回向の開催の問合せをいただいていました。「お同行の皆様がご参詣いただくのが難しい場合でも本堂でのお勤めでのすので住職がお勤めさせていただきますのでご無理はされないでください」とご連絡させていただいていました。
23日は台風の影響で時々強い雨が降り風も強くなっていました。19時前は風はありましたが雨が降っていなかったこともあり、多くのお同行のご家族様にお越しいただきありがとうございました。

 


お同行様の葬儀が台風にあたってしまったことは何度か経験がありますが、お寺の行事で台風の事を思い出すのは、昭和34年の伊勢湾台風のことです。私(住職)は3才の頃ですので前々住職や前住職からの話です。妙華寺の秋彼岸会の最終日が伊勢湾台風が通過する前日でした。上陸前から風雨が強くその日は参詣者も少なかったようですが、「本堂が使用できるのであれば住職がお同行の皆様の代表としてお勤めをする」と法会が終わってから帳場をお手伝いされていますお同行の皆さんと当時の住職(前々住職)が懇談している席で仰せられたようです。

今では、ご参詣いただく皆様の安全を第一と考えると、行事の中止とか延期とかを求められるのかも分かりません。しかしお寺(本堂)を預かる身としてお寺に住む住職としては毎日のお勤めと同様にあたりまえと感じることです。

妙華寺では、初盆のお勤めを7日に火入れと称してご自宅でお勤めをしてお盆中(13日から15日)にお寺にご法名をお持ちいただき、23日までお寺でお勤めをしています。23日の最後のお勤めを総回向と称して午後7時からお勤めしています。
お勤めの後に、「高田派のお給仕」のビデオを見て頂いています。ご自宅にありますお仏壇の作法を改めてご確認していただいています。

また、毎月(正月を除く)第1日曜日午前7時30分からの日曜学校では、平素のお勤めを参加者の皆様と一緒にしています。知らないうちに作法についても学べますし疑問などにもお答えしています。ご都合がつきましたらご参加ください。

本日23日の総回向 

本日23日19時から予定しています初盆総回向ですが、台風20号の影響が心配されます。

ご参詣をご予定されていますお同行の皆様からは、前日までにも問合せがございました。

本堂でのお勤めは、住職がお勤めいたしますが、ご参詣にはご無理をしないでください。

墓じまい

墓しまい
お盆の期間にHPで「墓じまい」についての記事が掲載されていました。

最近「墓じまい」と言う言葉を耳にしますが、これまでも「お墓」の後継者がいらっしゃらない場合や今後難しくなる場合に、

「お墓」をどうしたらよいかご相談がございます。

妙華寺では、「お墓」の継承が難しくなりますと「お墓」の撤去をお願いしています。
石材店に見積もりを取っていただきご了解をしていただき「お墓」を撤去していただきます。
 撤去の後、これまでのお骨がございましたら境内地の「倶会一処」に埋葬いたします。
妙華寺では、下記の記事に掲載されています「離檀料」などをお納めいただく必要はございません。

ご注意していただく点としては、
①これまでのお骨を別の「お墓」に埋葬する場合は、先に、妙華寺の住所地の津市(行政機関)に「改葬許可申請届」をお出しいただき、「改葬許可書」をとっていただくことになります。
②「お墓」自体の移設の場合は、移設先の墓地管理者に可能かどうかご確認してください。

 

【墓じまいの記事】2018/08/11 16:00

墓じまい”は簡単じゃない? 根回しや高額出費も…専門家が解説

管理する人がいないなどの理由から、お墓をなくす“墓じまい”を選択する人がいる。お墓を更地にするだけなら、別に大変ではないのでは……というのは甘い考えで、実は数多くのプロセスが必要となる。その一部をご紹介する。
「父方の祖父母が眠るお墓が神戸市の山の中にあるのですが、最後にお参りできたのは2年前。高齢化で墓参する人が減ったせいか、昔からあった近所の花屋も閉店してしまい、せっかく来たのに花すらお供えできなかったのが申し訳なくて……」と語るのは、関西出身ながら東京で30年近く生活する会社員のAさん(52)。Aさんのような東京在住の地方出身者にとって、「高齢になった両親が亡くなったら、故郷のお墓を誰が管理するのか?」は“今そこにある難題”である。
少子高齢化、都市部への人口流入、先祖供養に対する意識の変化などを背景に、今ある墓を別の場所に移す「改葬」または散骨などによる「墓じまい」を迫られる人が増えている。いずれも、生身の人間の移動に比べ、「遺骨」を墓から取り出して別の場所で供養するまでの作業には驚くほどの手間やお金がかかる。改葬はまだしも、墓じまいは墓を更地に戻すだけでしょう、と思ったらこれが大間違い。
「墓じまいというと、田舎にある誰もお参りできないお墓をなくす手続きをしておしまい、と思われている方が多いようです。でも遺骨をそのまま放置しておくわけにはいきませんから、古い墓を撤去したら、その中にあった遺骨を必ずどこか別の場所に移さないといけません(散骨や永代供養も『移す』という考え方)。つまり新しい場所への遺骨の移動が完了して初めて、『墓じまい』といえるのです」
と強調するのは、葬儀・お墓・終活ソーシャルワーカーの吉川美津子さん。ちなみに墓の中の遺骨を勝手に処分するのは犯罪だ。刑法190条の遺骨遺棄罪に問われると、懲役3年以下の刑に処される可能性すらある。
「墓地埋葬法ができた1948(昭和23)年以前に建てられたお墓は、村単位で管理していたり、田んぼや畑の中にあったりして、土地の権利関係も非常に複雑です。今から70年以上前というと、地方によっては土葬も多かった時代。現在は火葬して焼いた骨、つまり焼骨しか受け付けてくれません。もし墓じまいしようと思っているお墓から、土葬されたと思われる先祖の遺骨が出てきた場合は、そのご遺体の分も、自治体から火葬許可証をもらって、火葬場で骨をもう一度焼く手間も必要になります」
墓じまいには、とにかくたくさんの証明書や許可証が必要になる。その書類は大きく分けて三つ。新たな遺骨の受け入れ先からもらう「受け入れ証明書」、遺骨が確かにその場所に埋まっていたことを現在の墓の管理者が証明する「埋蔵証明」。この二つの書類に、現在、墓がある土地の自治体が発行する「改葬許可申請書」(埋蔵証明との一体型もあり)を添えて提出することで、初めて「改葬許可証」を発行してもらえる仕組みだ。
証明書を機械的に集めればいいわけでもない。墓じまいの各ステップには、気苦労の多い根回しや手続き、高額の出費が待っている。最初の難関は、家族や親戚の了承を得ること。墓を守る地方在住の両親が健在の場合、「先祖代々のお墓を移動するなんて、もってのほか」と否定的な意見もある。
「長年、檀家として支えてきた菩提寺からお墓を撤去するには、檀家を抜ける際に支払う離檀料やお墓から魂を抜くための抜魂法要のお布施を渡す必要があります。その相場は通常のお布施が5万円なら、その2~3倍の10万~15万円が目安です。寺院に何の相談もせず事務的に手続きを進めたことで関係がこじれ、100万円以上の離檀料を要求された人も。提示された離檀料を拒否すると、墓じまいに必要な埋蔵証明への署名を渋るケースもあるようです。なるべく円満に、事を荒立てず、墓じまいせざるをえないこちらの事情を理解してもらうことが大切になります」(吉川さん)
(経済ジャーナリスト・安住拓哉/編集部・中島晶子)
※AERA 2018年8月13-20日合併号

和讃

和讃をご紹介いたします。和讃について多くの参考書がありますが、『注解 国宝 三帖和讃』常磐井鸞猶著と『浄土高僧和讃講話』川瀬和敬著より紹介します。

浄土高僧和讃 曇鸞和尚 第19首

無碍光の利益より 威徳廣大の信を得て
必ず煩悩の氷とけ 即ち菩提の水となる

阿弥陀佛のきわなき光の恵みの中から、すばらしい力と徳を持った広やかな信を得て、
浄土に生まれる身とさせていただくと、必ず煩悩の氷がとけ、それがそのままさとりの水と変わる。

(利益)より 諸註「により」の意とするが、「から」の意にとっても不都合はない。

以上 【注解 国宝 三帖和讃 常磐井鸞猶著より】

阿弥陀佛のさわりをさわりとしない光明智慧よりもたらされるご利益として、「威徳侶無く」「功勲広大」なる廻向の信心を賜ることができ、それによって必ず煩悩の氷もとけ、そのまま菩提の水と変わります。氷と水の譬えは非常によく分かります。転変でありつつ、もと一体であることにえなずくのですが、さて煩悩と菩提とのものがらが一つであること知るには、体験実証によるほかありません。無明が明に転ずる次第も同様です。
すでに第11首にも「他力広大威徳の心行」とありましたように、自他に向かって信が威徳広大であることを語りたく、「行文類」にも、仏の威徳広大を聞くが故に、不退転を得るなり。と見えます。信心はわが胸の中に小さく抱きこむもの、との勘違いもなきにしもあらずだが、実は信心は広大なのです。中空の星を眺めて感じる広大はあっても、わが身に即しての広大は、信心においてはじめて実証するのではないでしょうか。広大なる信のうえに威徳がかがやくのです。

以上【浄土高僧和讃講話 川瀬和敬著より】

8月のお盆お勤めしました

今年も8月のお盆のお勤めが終わりました。夕立や雨の日もありましたが、例年より暑い日が続いていました。津市ではインターハイ開催の為、例年の一週間遅れの12日に久居の花火大会(サマーフェスティバル)がありお盆期間と重なりなんとなく気ぜわしく感じました。8月のお盆では、親御様が施設などに入り留守になっているご実家に、遠方の息子さんがお盆のお勤めの時間(日)にお待ちくださったり、小さな子供さんがおじいさん・おばあさんと一緒にお勤めをしていただくお姿を拝見しながら住職が幼かった頃のことを思い出させていただきました。今年はお盆の最後のほうに伺いましたお宅で「住職さんずいぶん焼けましたね」と仰せられたのが、今年の夏をよく表しているように思いました。

またお寺のお墓へも、ご遠方からお盆参りにお見えになられるご家族が多くいらつしゃるのは8月のお盆ならではの光景と感じます。事前にご連絡いただいたりして、住職がお会いできましたらお墓でお勤めをさせていただくのですが、出かけている場合が多く、その時は、後ほど住職がお墓や本堂でお勤めをさせていただいています。また、遠方からお盆参りにお見えになるのが困難な場合もご連絡いただきましたらお墓でお勤めをさせていただきます。

真宗でお盆の法会を歓喜会(かんぎえ)というのは、自分を振り返って慚愧の中に佛恩報謝をさせていただき、その喜びを信心歓喜しお念仏申すことだとお聞かせいただきます。
親鸞聖人は「歓喜」というは、「歓」は身のよろこびで、「喜」は心のよろこびと解説されています。身も心もよろこぶという大変なよろこびを「歓喜」と教えられました。
ではこのような喜びはどんなときにあらわれるのでしょう。親鸞聖人は、「私たちが、佛さまの本願(私たち凡夫を必ずお浄土に救いますという願い)を信じて、お念仏を申す心になったとき、このような大きな喜びが自然にでてきます」と申されました。
すなわち、佛さまからいえば、本願が確かであったという証明であり、私たちからいえば、すべておまかせできたという安堵であり、佛と私が共に喜ぶさまが、歓喜といえます。
また、「歓喜」というのは、私の自力の限りを尽くしても不可能であった人生課題が、佛さまの願いによって氷解した時の喜びですから、日常生活上の喜怒哀楽とは次元の違う大きな喜びであります。

ひとくち法話

―お釈迦様のご生涯―
09精舎の建立(しょうじゃのこんりゅう)
最初の説法地鹿野苑(ろくやおん)を発たれたお釈迦(しゃか)さまは、各地で説法をつづけられ、多くの人々がみ教えに帰依(きえ)してお弟子となりました。そうしてあの成道(じょうどう)(さとり)の地ウルベーラを目指され、やがて千人の弟子たちを率いて王舎城(おうしゃじょう)に入られました。ここは頻婆娑羅(びんばしゃら)王の領地で6年ぶりの再会に王はもとより王妃韋提希(いだいけ)も大変喜ばれました。それは成道の暁には必ずお会いしますとの約束をはたされたからです。
感激された王は、城の近くの竹林の地を選び、釈尊やお弟子たちのためにお寺(精舎)を寄進されました。これが有名な竹林精舎(ちくりんしょうじゃ)です。
以後ここを拠点としてみ教えは益々広がってゆきました。
そして、舎利弗(しゃりほつ)や親友の目犍連(もっけんれん)をはじめ多くの弟子たちもお釈迦さまのもとに入門しました。
更に忘れてはならないのが祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)です。お釈迦さまの故郷カピラ城に近いコーサラ国の首都舎衛城(しゃえじょう)に給孤独(きっこどく)という長者がいましたが、彼は熱心な信者で釈尊にお寺を献上したいと考えました。そうして舎衛城近くの森が最適と思い、地主のジェータ王子に交渉しましたところ、黄金を敷き詰めたら売ってやろうとの難題をもちかけました。しかし、長者は早速に牛車で黄金を運び敷き詰めたのです。地主もその行為が尊いも のと気付き自分も協力したいと申し出たのです。
こうして見事な精舎は、ジェータ王子の樹園〔祇樹(ぎじゅ)〕・給孤独の園という2人の名を冠して祇樹給孤独園(ぎじゅきっこどくおん)、略して祇園精舎として釈尊最愛のお寺となりました。長者こそ初期仏教教団を物心両面で支えた代表的在家信者といえるでしょう。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

一光三尊仏(阿弥陀三尊)

今年は、毎月10日に法苑院妙華寺を紹介していきたいと思います。
一光三尊仏(阿弥陀三尊)立像
中尊 阿弥陀如来立像 木像 玉眼・寄木・金泥 像髙 39.7cm 江戸時代
脇侍 観音菩薩    木像 玉眼・寄木・金泥 像髙 28.9cm 江戸時代
脇侍 勢至菩薩    木像 玉眼・寄木・金泥 像髙 28.4cm 江戸時代

像と一具の厨子に安置される一光三尊仏で、通常は妙華寺の宝庫に保管されている。(現在 妙華寺会館に安置)中尊の頭部形状、脇侍の五角形の宝冠や裳(ころも)の形状等、高田山式の一光三尊仏の特徴を顕著にあらわしている。また、両手足の指の爪をあらわすなど、細部にまで行き届いた丁寧な表現をみせている。像や厨子等に年号や作者等を示す銘文はまったく見当たらないが、作風から判断して18世紀末から19世紀の初め頃に制作された像と考えられる。

【親鸞 高田本山専修寺の至宝の図録解説より】

 

※奈良国立博物館で8月26日まで『糸のみほとけ』展が開催されています。

展覧会のHPには、「日本では刺繡(ししゅう)や綴織(つづれおり)など「糸」で表された仏の像が数多く作られました。とりわけ、古代では大寺院の一堂の本尊とされる花形的存在でした。綴織當麻曼荼羅(つづれおりたいままんだら)(国宝、奈良・當麻寺蔵)や刺繡釈迦如来説法図(ししゅうしゃかにょらいせっぽうず)(国宝、奈良国立博物館蔵)は、その隆盛のさまを伝える至宝です。また、糸を縫い、織る行為は故人の追善につながり、聖徳太子が往生した世界を刺繡で表した天寿国繡帳(てんじゅこくしゅうちょう)(国宝、奈良・中宮寺蔵)が生み出されました。鎌倉時代以降、刺繡の仏は再び隆盛を迎えますが、その背景には綴織當麻曼荼羅を織ったとされる中将姫に対する信仰がありました。極楽往生を願う人々は中将姫(ちゅうじょうひめ)に自身を重ね刺繡によって阿弥陀三尊来迎図(あみださんぞんらいごうず)や種子阿弥陀三尊図(しゅじあみださんぞんず)を作成しました。
この展覧会は綴織當麻曼荼羅の修理完成を記念し、綴織と刺繡による仏の像を一堂に集める特別展です。天寿国繡帳、綴織當麻曼荼羅、刺繡釈迦如来説法図の国宝3点が一堂に会する空前の企画です。本展を通して絵画とも違う「糸」の仏の世界の魅力をご鑑賞いただければ幸いです」とあります。
木像とは違う、三尊仏も出展されています。ご興味のある方はお運びください。

8月の日曜学校

8月の日曜学校は、7代実道(じつどう)上人を紹介しました。6代が若くして亡くなられ津市分部の佛照寺より入寺されました。
7代実道が妙華寺に何時入寺したか不明であるが、実道の内室が文政12年に示寂され、半鐘の造立(再建立に銘)が文政12年8月であることから、6代真純が示寂した文政10年以降文政12年までと思われる。本堂の棟上げは安政4年(1857)であるので、初代自信がこの地で妙華寺を建立するまでと同じような、募財活動が粘り強く続けられたと思われる。本堂の完成(再建)は、文久3年12月であるので尽力された7代実道が示寂した後である。

続いて、『すばらしきみえ』6月号(百五銀行出版)に一身田のことが掲載されていましたので寺内町の一身田についてお話ししました。