命日

毎年、ご両親の命日のお勤めをご依頼されますお同行様がいます。遠方でお寺に来られるのが難しいのでお手紙や電話でお願いされます。その時は、朝のお勤めにご法名をお出ししてお勤めさせていただきます。また、近隣の方が、命日の当日お墓参りにお見えになられる場合もあり、都合がつきますとお墓でお勤めをする場合もあります。
日常の生活の中で私の大切な方のご命日に、私が仏法に出遇い、阿弥陀如来の恩徳に報謝する大切なご縁であることに、いつも気づかさせていただくことが有難いことです。

 

命日
毎月、故人の亡くなられた日を「命日」と言います。また「忌日」とも言います。亡くなられた月の命日を祥月命日と言い、他の月々の命日を月命日、月忌とも言うそうです。
私たちは生まれた日を誕生日と言いお祝いをしますが、ずいぶん前に「誕生」とは「うそがうまれる」という意味もあることを聞きました。私たちがこの世に生まれ、生きていく上で嘘もつかなければ生きていくことができない存在であることを私に教えていただいています。では、「命日」は「いのちの日」と言うことはどのような意味があるのか考えています。中国では亡くなられた時にその人の評価が定まると考えられていると聞きました。日本でもそのように考える場合もありますし、死後に災いが起こらないように祀(まつ)ることもありました。

年忌と言うと故人の祥月命日を縁として行う法要で、亡くなられて1年後を1周忌、その次の年を3回忌(亡くなられた年から数えて)その後7回忌、13回忌、17回忌、23回忌、27回忌、33回忌、50回忌とお勤めをします。以降は50年毎に行われます。真宗では、故人を縁として仏法に出遇い、阿弥陀如来の恩徳に報謝する場でもあります。
そして考えて見ると、大切な方の33回忌に遇えることは、大切な方が亡くなられてから32年後のことであります。それも数えてみると8度目の年忌であります。その間のご遺族の皆様のご苦労に大変頭が下がりますが、今の時代は親御様の遠い年忌に遇うことができにくい時代です。その仏縁に遇う慶びは大きいものと思います。

以前、「忌日」について、忌まわしいと言う字が含まれていますがと尋ねられました。
私の大切な方が亡くなられた時、亡くなられたことをすぐには受け入れがたい心があります。亡くなられてからも生きているように感じる心もあります。しかし、私から離れた方の死について、不浄なものと考えてしまう気持ちも出てくる場合があります。高田派の鑑学の先生が、「大切な方の忌日を勤めるのは、私自身(己の心)の中にある仏道に修しているという思いを改めて省みる日である」と述べられたことを思い出します。

真宗では親鸞聖人のご命日を縁としてお勤めする報恩講があります。高田本山では毎年1月9日から16日までお勤めいたします。各寺院も毎年一番大切な行事としてお勤めしています。(妙華寺では今年から12月の第1日曜日です)
私の大切な方のご命日も、私が仏法に出遇い、阿弥陀如来の恩徳に報謝する大切なご縁であったことに間違いないことです。

お寺の掲示板

お寺の掲示板

「余命告知」は家族のため? 自分のため?

『人は人を救えないが、「癒やす」ことはできる』 谷川洋三著から
著者は、「患者本人にも家族にも、大きなインパクトを与える余命告知。
それが誰のために、何のためにあるのかを一度考えてみてほしいと思います」と続けます。

私の祖父や祖母がなくなった頃は、本人(患者)に病名告知をしないこともありました。 その方が多かったと思われます。現在は、医師に病名の告知義務があるようで必ず本人(患者)に知らされます。それと共に「余命告知」もあるのだと思いますが、本人(患者)の意思に沿うための確認が大切なのでしょう。
本人(患者)の意思を家族が共有できるような関係を築きたいのですが、本人(患者)の元気な時の意思と病気の時の意思(考え)で変化があったり悩ましい思いがあります。

お寺の1日(6月)

6月に入りますと、境内の雑草(申し訳ないことですが勝手に名付けています)の成長が早くなり10月頃まで草取りが大変です。
そして、衣替えの時でもあります。最近は5月の中旬頃から暑さを感じる日もあります。そのような時、夏の衣でお勤めをしたいと思いながらも暦通り6月に入ってから夏ものでお勤めをしています。衣と座布団や私服など一度に替えるのに年齢と共に大変に感じるようになってきました。
毎年6月には、県の宗教法人の担当課へ法人の1年間の報告を郵送しています。

5月の聞法

 

5月の聞法


5月は、5日に奈良県の浄照寺様の報恩講のご満座に伺うことができました。お同行様と住職・寺族が共に報恩講をお勤めされて(つくりあげて)いるのが伝わってきます。
お勤めで「奉講(ぶじょう)」の「散華楽」の読みは西本願寺では、「さんげらく」なのがわかりました。(高田では「さんからく」)そして楽人が奏でる音はとても素晴らしいことも。ご法話は、葛野洋明師(今年妙華寺の報恩講の布教使)で、「ご信心」について阿弥陀様の「金剛心」としていただくことをご絵伝のエピソードからお聞かせいただいたり、ご自身の子供の頃の経験から真宗の大切であり且つ難しい「唯除」についてお聞かせいただきました。時間が過ぎるのがあっと言うまで名残惜しく家路につきました。

13日は高田本山で年に一度の布教伝道大会でした。最近は葛野先生から布教の基礎をお聞きしています。今回は親鸞聖人の領解されます「現生正定聚」を聖人のご著書からそのままいただくことの難しさをお聞きしました。聖人の領解を、私の勝手な解釈で曇らせてしまうことは残念なことであります。素直にいただくことの難しさを感じました。またご法話を喜ぶこともそれぞれの表現がありますので「こうでないと」なんて先入観は捨てないといけませんね。

※中川個人の感想です。

お寺の掲示板

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「あの時風が流れても 変わらないと言った2人の 心と心が今はもう通わない」

「あの素晴らしい愛をもう一度」作詞北山 修

私の青春時代のヒット曲。音痴なのに良く口ずさんでいた。私の心はいつも変化するし、他者の心も変化する。変化しているが、その時その時は永遠と思ってしまう自分がいる。

5月のおてらおやつクラブ

5月のおてらおやつクラブ
5月は、昨年もご寄付いただきました「神戸スイーツ学会」からのバウムクーヘンが届きました。
・本企画は、普段洋菓子を食べる機会のない子どもたちに、美味しい洋菓子を食べてほしいというものです。お渡しするのは「子ども」限定とありました。
こうした企画が企業からおてらおやつクラブに持ち込まれるのは非常に有り難く、
いつにも増して子どもたちに笑顔を届けることができると思います。
このようなおてらおやつクラブの活動に賛同いただける企業様が増えることも大切なことと思っています。
妙華寺にもバウムクーヘンが届きましたのでお寺のお供えと共に、一人親家族様と支援団体様におすそ分けしました。

また、年2度回収の古本勧進での古本も募集しています。
今回は8月末までに集まった古本を寄付させていただきます。
不要になりました古本がありましたらいつでもお寺にお持ち込みください。
対象の本は、裏表紙にバーコードのあります文庫本・新書本・単行本です。
申し訳ございませんが、週刊誌・雑誌・百科事典・全集は対象外です。
本以外、書き損じのハガキ・不要なCDも受け付けています。

お寺の掲示板

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今や「死」は身近なものではなくなっている

『人は人を救えないが、「癒やす」ことはできる』 谷川洋三著から
著者は、「現代人は、死に接する機会、看取りの機会が相対的に減っています。そのため、いざというときに、とまどいや不安が大きくなってしまうのでしょう」と続けます。

私(住職)も、身近な「死」を考えたくないと思いますが、それでも「死」は誰にでやってくるものです。

5月の法語カレンダー

5月の法語カレンダー
十方の如来は 衆生を一子のごとくに 憐念す」     『浄土和讃』より
『浄土和讃』
親鸞聖人が、著した『浄土和讃』・『浄土高僧和讃』・『正像末法和讃』を三帖和讃と総称する。浄土真宗の法義が余すところなく讃嘆されていることから「和語の教行証文類」ともいわれる。親鸞聖人と真仏上人の筆による高田派専修寺蔵国宝本が現存するほか、古写本に高田派専修寺蔵正応3年顕智書写本(『高僧和讃』は現存せず)がある。
もつとも流布したものは文明5年 蓮如が「正信偈」とともに出版した「三帖和讃」(文明本)がある。これらの諸本の間には、和讃の本文や配列順序、左訓の有無など異動も多い。

「高田勤行本」では、「超日月光このみには 念仏三昧おしえしむ 十方の如来衆生を
一子のごとくに憐念す」とお勤めします。

阿弥陀さまが私たち一人ひとりを、わが一人子のように見てくださったと、聞きよろこんできました。親の一人子に対する愛情をもってたとえられています。しかし、このおたとえは、単なる親の愛情ではなく、自分と他者を分け隔てしないさとりの境地が、その大元であります。
いま、ここで、誰にもわかってもらえない痛みを覚え、苦しみに苛まれ、孤独を感ずるほかない私に、「その痛み、苦しみ、孤独、全部この阿弥陀如来が引き受けた。必ず救う」と届いてくださっている。
これが浄土真宗・阿弥陀さまのお救いです。

お寺の掲示板

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「死ぬとは、死に拘るのをやめることだ」

『なにものにもこだわらない』 森博嗣著

「こだわる」ことは本来良い意味でないが、近頃は特別の思い入れがあることにも使う。

著書の帯に、「拘ることの最大の欠点は、思考が不自由になることであり、思考が不自由になると、思いつく機会が減るし、また問題解決できにくくなる。こうなった人は、いつも周囲の誰かを頼ろうとするし、最近であれば、ネットで検索しようとする。自分の頭の中で問題を展開さえしない」と、今の時代の「拘る」ことについて発言している。

著書には、
・「生」に拘ることも「死」に拘ることも生きているからで、生きているものだけが、死を予感し、死を恐れ、あるときは死を選ぶ。死者は、なにも予感せず、なにも恐れず、そして選ぶこともしない。
・死に拘れるのは、生きているうちである。だから、死とは、死に拘ることをやめたときに訪れる。それは、死を受け入れる、という意味でもある。
・生と死は、表裏一体でどちらかで存在する概念でない。
など、「死」についての「こだわり」の視点から著者の考えを述べている。

私(住職)は、「こだわり」の視点から「死」を考えることは無かったので著書を興味深く拝読した。「死」に限ったことではないが、どれだけ自分の中の「こだわり」を捨てようとしても、自分の考えはどうしてもある「こだわり」からは逃れることができないのが凡夫だと思う。

お寺の一日(5月)

毎年5月は、18日に親友婦人会の総会があります。1年間に往生されました婦人会会員の追弔会をお勤めして、ここ数年は、『お寺の講演会』を開催しています。
今年の講師は、横浜の浦上哲也師で、『「適当」に生きるススメ』のテーマでお話の後、聴衆の皆様の質問にもお答えしながら、これからのお寺について考える時間もとりたいと思っています。


親友婦人会も会員の高齢化と新しい会員の加入減で組織としての活動もこれまでどおり行うことが困難になってきているのが現状です。