お非時の反省

報恩講のお非時の反省
お非時の予定数(配布)終了で、お非時を楽しみにされていました皆様のなかには、今年はお非時をいただけなかった方々がいらっしゃることの報告をうけました。
今年は、私(住職)が予想する以上の方々がお非時を楽しみにされていたようです。ご迷惑をおかけしました。お詫び申し上げます。
ここ3年間のお非時は、新型コロナウィルス感染症の拡大防止の為、お弁当として配布いたしました。一緒に集い食することも、一緒に準備することも不安があるからです。
お寺では、年々、非時を楽しみにされている方々が減少する中、残った食材の処分が課題です。
当日の受付のお手伝いの方々・お非時のご奉仕くださる方々にお持ちいただくこともありますが、それ以上に残ってしまうこともあり、賞味時間の関係で近隣の方々へお配りすることも憚れます。
手造りで配膳するお非時の頃は、なんとかなっていましたが、パック詰めにしてしまうと難しい課題です。

※併設しています子ども食堂では、希望数を事前に確認して用意をしています。

前坊守3回忌

前坊守3回忌
今年の報恩講の翌日、前坊守が往生して丸2年が経ちました。近い親戚と共にお勤めをしながら、前坊守との関係を見つめる時間でありました。お寺を守る住職や寺族は、お寺のことを第一として日常を送ることは当然でありますが、今の私(住職)には他にも目を向けてしまいがちであります。しっかり、お寺に向き合うこと、お同行様に向き合うことを前坊守の生き方をとおして感じさせられた3回忌でありました。また、限られた時間ですが、親戚の皆様とお会いしてお話ができる機会をいただいたことをうれしく思っています。

報恩講の準備

報恩講の準備④

真宗寺院として最も大切な行事の報恩講をどのように、お同行(生活者)に伝えるかそれぞれのお寺が工夫したお勤めを考えられています。

本堂を荘厳する幔幕があります。紫の幔幕を使用します。掛ける位置が高いので脚立を使い準備します。参道に旗を用意するのも報恩講ならです。

各お同行様へは一週間前にご案内をしています。山門に報恩講の行事案内の看板を掲げます。

内陣では、前卓(まえじょく)に打敷・角掛を用意します。こちらは、自宅のお仏壇でも使われていますので、ご存知の方も多いでしょう。

祖師殿のお戸帳も取り払い、親鸞聖人のお顔がみえるようにするのは、高田本山の15日の初夜勤めに習っています。

本尊宮殿や祖師殿に供菓を用意します。妙華寺では、寺紋の落雁とみかんをお供えします。

お餅の用意や当日は、ご版さんの用意もあります。
灯籠も灯籠飾りをします。
余間の絵伝は以前もご紹介しました。

働かざる者は食うべからず

「働かざる者は食うべからず」

こころない言葉がSNSから直接当事者に投げかけられひどく落ち込むことがあります。
これまででも、誹謗・中傷されることはありましたが、ネット時代では、即座にとんでもないボリュームの誹謗・中傷で、立ち直ることも難しい状態になってしまうこともあります。

「働かざる者は食うべからず」この言葉について考える機会がありました。障がいの子どもさんを持つお母さんからの問いかけでした。

「働かざる者は食うべからず」の言葉で傷つき、自分自身は価値が無く、死まで考えてしまう心になった時、宗教者はどのような言葉をかけるでしょうか。考えさせられます。

オンラインの議論で、僧侶の多くの方の視点から「働かざる者は食うべからず」についてお聞かせいただく中で、「善悪」や「損得」「上下関係」などに考えが及ぶ貴重な時間でした。

議論中、私(住職)の中で最初に頭に浮かんだのは、自分の中にある「差別心」でした。
次に、道徳と宗教(仏教)の関係でした。

「働かざる者は食うべからず」は、労働に関する慣用句だそうです。
働こうとしない怠惰な人間は食べることを許されない。食べるためにはまじめに働かなければならないということ。
新約聖書の「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」という一節が「働かざる者食うべからず」という表現で広く知られることとなった。ここで書かれている「働こうとしない者」とは、「働けるのに働こうとしない者」であり、病気や障害、あるいは非自発的失業により「働きたくても働けない人」のことではないとされている
「テサロニケの信徒への手紙二#働かざる者食うべからず」も参照」((https://ja.wikipedia.org/wiki/働かざる者食うべからず 参照 2022年11月16日))

※他の説では、ソビエト共和国の共産主義思想の不労所得者に対する言葉ともあります。

私たちは、当然、「働こうとしない者」とは、「働けるのに働こうとしない者」であり、病気や障害、あるいは非自発的失業により「働きたくても働けない人」のことではない。
ことは理解しています。しかし、その部分を切り取ってしまい短絡的に使ってしまうことも現実にはあります。思いやる心がそこまで気づけない状態であったのかもわかりません。
そして、その言葉が一人歩きしていく中で、傷つく方がいることを忘れてしまっている自身の至らないことを知らしめていただいているように感じます。

この言葉が、自身の「差別心」として考えたのは、どうしてか。
頭で理解していることでも、現実に向き合った時、本当に体感していたか問われると考えてしまいます。
大学に入った頃、「同和問題」を知りました。その問題を何も知らずにいたこれまでとは違う視点を持つことができました。その時、悲しいけれど、自分の中の「差別心」は「同和問題」以外にもあることが明らかになってきました。知らなければ済むことでなく、知って体感していく中で、私自身の考え方が変わっていくことができることを経験できたことは、とても有難い時間です。

また、「働かざる者は食うべからず」は、労働に関する慣用句ですが道徳的な響きも感じられます。

道徳と宗教はどう違うか 人間は、“道徳さえきちっと守って生きてゆけば、信仰や宗教など必要ではない”と言う人が、かなりたくさんいる。これは間違っている。道徳とは人格を高めようとするところに生まれたものであり、宗教はほんとうの生きる道を教えるものである。ちょっと難しい表現になるが、道徳は、”人生の目的を果すための手段”であり、宗教はそれ自身 “人生の目的”なのである。
((http://www.jtvan.co.jp/howa/Hasegawa/houwa031.html 参照 2022年11月16日))

私が生きていく中で、道徳は必要ですが、道徳を通してだけでは意味が見いだせないものが存在して、私自身を迷わしてしまう考えに、「そうではないよ」と指摘する視点が、宗教(仏教)なんだろうと思っています。私の「ものさし」でなく、仏の「ものさし」を持つことによって、私の「ものさし」が間違っていることが明らかになっていくことは、人生を豊かに過ごすことにつながっているように感じています。

「働かざる者は食うべからず」は、僧侶にとっても考えさせられる言葉です。お釈迦さんのグループは、各地を修行して回っています。そのグループは経済的活動はしませんので、生活上のことは全て生活者(市民)の布施行に委ねられています。生活者から「働かざる者は食うべからず」と見られれば、その時終わっていたはずです。
日本仏教は、世襲が多いので生活者と同じ視点で考えてしまいます。世襲でない場合やお寺を出る場合(還俗)もおそらく生活者視点で考えているのではと想像します。

オンラインの議論の時から考えていることを、私が宗教者(僧侶)として言葉にすると、「全ての命は等しい。自分が生まれてきた時のことを思い起こしてもそうですが、家族や他者に育てられて今を生きています。病で伏している時や年老いて、働きたくても働けないことは、誰にでも常にあることで、その言葉を他者に向けて発する時は、いろんな状況へ想像力を働かせて発言しないと適切で無い思います」と言っても、その言葉で傷ついている人の心に届くでしょうか。

※中川個人の感想です。

 

報恩講の準備③

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報恩講の準備③
真宗寺院として最も大切な行事の報恩講をどのように、お同行(生活者)に伝えるかそれぞれのお寺が工夫した行事を考えられています。
妙華寺の報恩講のお非時(ひじ)は、長年、親友婦人会の皆様が、野菜などを持ち寄り前日から準備して、当日ご聴聞いただく皆様にご奉仕していただいていました。
時代が変わり、婦人会に次の世代の方の加入が少なくなり、およそ8年ほど前からお非時のご奉仕も難しくなりました。その後、おてらおやつクラブで支援させていただいています団体様のお力を借りて、一日限りの子ども食堂も併設して、今に至っています。2年前の新型コロナウィルス感染症の時から、残念ではありますが、お店で購入したお弁当をお渡しする形になり、今年もそのような形でさせていただくことになりました。
お寺で食事を提供するのは、報恩講だけです。
お非時の準備で思い出すことは、たくさんの食材を洗い、形にして、煮込んだりするので昔ながらのかまどのある土間が賑やかになる時間でした。また当日は、多くの方々がお非時を召し上がりになり、その切り盛りをすべて婦人会の皆さんがご奉仕してくださった姿です。終わった次の日に、後片付けにも駆けつけていただきました。本当に頭が下がります。

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先日、ある会議で、食品衛生法が改正されたことを知り、イベントなどで飲食を提供する時に保健所に所定の書類を届け出ることが必要になったと聞きました。
お非時も以前のように、お寺で作るように戻った時、これまでも以上に衛生管理には気をつけていきますが、書類の提出を含めて、更に気をつけていかなければいけないようです。1度保健所に出向いて話をお聞かせいただく時間を取りたいと考えています。

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報恩講の準備②

報恩講の準備②
絵伝
真宗寺院として最も大切な行事の報恩講をどのように、お同行(生活者)に伝えるかそれぞれのお寺が工夫したお勤めを考えられています。

妙華寺では、高田本山のお七夜と同様に、本堂向かって左側の余間に、高田派の親鸞聖人絵伝を4幅掛けで、親鸞聖人のご生涯がわかりやすく伝えるようにしています。

本来は、「絵解き」と称する方が掛軸の描かれた絵を通して、親鸞聖人の生涯や教えを人びとに伝えていました。

親鸞聖人絵伝 4幅 妙華寺蔵
「親鸞伝絵」から図画の部分を抜き出し掛軸にしたものが「絵伝」で、場面は下から上へ順序よく配置され、各場面は「やすり霞」といわれる雲形で仕切っています。一般に4幅で一組です。
妙華寺の「絵伝」は、高田派第18世圓遵上人(1786年~1811年)の署名と花押が第4幅上段にあり、第4幅下段に絵師(御絵所)は藤原佐助とありますので、高田派の親鸞聖人絵伝と見られます。

親鸞聖人の絵伝は、他にも、4幅の絵伝の内容を1幅の掛軸にしたものや、これまでの遠忌法会に特別に描かれたものなどあります。

親鸞聖人(1173-1263)真宗の開祖
藤原一族の日野有範の長男。「伝絵」によれば9歳の時に慈鎮和尚について出家、範宴(はんえん)と名乗る。約20年間比叡山で修学、常行三昧堂にて堂僧をつとめていたとみられる。29歳の時に比叡山を下りて、六角堂に参籠し、聖徳太子の夢告により法然を訪ね阿弥陀仏の本願に帰し、門弟になる。1205年『選択集』を附属され書写し、法然聖人の真影を図画。夢告により綽空から善信にあらためる。法然聖人のもとで学ぶ間に惠信尼と結婚したとみられる。承元の法難(1207)によって法然聖人らと処罰され流罪になり越後の国府に赴く。自らを非僧非俗とし愚禿(ぐとく)と称した。赦免されると妻子と関東へ移住し、茨城県の笠間市稲田を中心に伝道生活を送る。『教行証文類』を著し推敲を重ねる。62歳頃京都へ帰り、御消息によって関東の門弟を教化、交流する。『三帖和讃』をはじめ多くの著述を残した。
関東で法義理解の混乱が生じ、息男慈信房善鸞を遣わしたがかえって異義が生じ、建長8年(1256)に善鸞を義絶した。弘長2年11月28日(新暦で1月16日)弟尋有の坊舎で90年の生涯を終えた。

報恩講の準備

報恩講の準備
真宗寺院として最も大切な行事の報恩講をどのように、お同行(生活者)に伝えるかそれぞれのお寺が工夫したお勤めを考えられています。
妙華寺では、本山の報恩講の初夜に準じたお勤めをしています。

春秋の彼岸会と春秋の千部会は、日中(にっちゅう)のお勤めですが、高田本山の報恩講(お七夜)では、夕方のお勤めの逮夜(たいや)の後、夜に入る時の初夜(しょや)のお勤めがあり、妙華寺では、これが一番、報恩講の意義をお伝えできると考えているからです。

初夜のお勤めは、平素「式文」と呼び習わしている『報恩講私記(報恩講式)』の拝読があります。

『報恩講私記(報恩講式)』は、永仁2年(1294)親鸞聖人の33回忌の時に、覚如が著したものです。親鸞聖人に対する深い謝意が表明されています。

内容は、総礼・三礼・如来唄(にょらいばい)・表白(ひょうびゃく)・回向で、表白は、①真宗興行の徳を讃ず。②本願相応の徳を嘆(たん)ず。③滅後利益の徳を述す。の三段に分かれていて、「一段」を「初段」とも称しています。

一(初)段では、親鸞聖人は、天台の慈鎮(じちん)に就き、「顕密の諸教を学び、修行に専念したが、さとりを得難きことを知って、法然に謁し、出離の要道は浄土の一宗のほかならないことに気づき、聖道の難行を捨てて、浄土 易行の大道に帰し、自信教人信の生涯を送った。真宗は親鸞聖人によって開かれたのであるから、念仏してその恩に報いるべきであると述べている。

二段では、念仏修行の人は多いが、専修専念の人は稀であり、金剛の信心の人は少ない。しかるに親鸞聖人はみずから他力回向の信を得て、易行の要路を人びとに明かした。まことに本願相応の化導、これにすぎるものはないと述べている。

三段では、遺弟(ゆいてい)たるものは、親鸞聖人祖廟に跪き、その真影を仰ぎ、親鸞聖人が著した数々の聖教を拝読して、この教法を弘めていこうとする決意を新たにするが、それが滅後利益の徳であると讃歎している。

妙華寺では、毎年、初段・二段・三段と準じて拝読をしています。今年は、「三段」の拝読年です。

寺報の準備

寺報の準備
妙華寺では、年1度、お寺の行事報告や来年の予定をお同行様にお伝えする「寺報」を、お世話方様のいらっしゃる地区には、12月の報恩講の案内と一緒に配布しています。
少し離れたお同行様には郵送しています。
今年は、妙華寺の親鸞聖人ご誕生850年・立教開宗800年の奉讃法会の報告も秋彼岸の頃から随時お送りして、まだの皆様には寺報と一緒に郵送する予定です。

今回、寺報と同封しますチラシは、来年5月13日のお寺の講演会です。津市久居アルスプラザの「ときの風ホール」をお借りして、「親なきあと」のことを、一般財団法人 お寺と教会の親なきあと相談室の理事&アドバイザーの藤井奈緒さんに講演していただきます。
講題は、~障がいのある子とその きょうだい が笑顔で暮らしていけるよう~「今、私たちにできること。」 親なきあと への備えについて です。

講演の後は、講師の藤井奈緒さんと、既に「親なきあと」問題について津市内で活動されていらっしゃる「一般社団法人みえ障害者の親なきあと相談室」の理事長の鈴木伸行さんをお迎えして座談会を予定しています。

「親なきあと」問題
  みなさん「親なきあと」と言う言葉をお聞きされたことはありますか。
 住職は、令和2年に、「福祉仏教」の講座を受講して知りました。
 障がいや引きこもりの子どもさんを持つ親御さんが心配されている問題です。
 問題は多岐にわたり、専門的な知識が必要な分野もありますが、
 心配されていらっしゃる親御さんや当事者の側で
 耳を傾ける(傾聴する)ことで寄り添うこともできることを知り、
 (一財)「お寺と教会の親なき相談室」の活動に賛同し
 「津市妙華寺支部」として活動をしていきたいと思っています。
 また、地域で同じ思いを持つ方々と共に学び・活動ができればと思っています。

お同行の皆様にも是非、「親なきあと」問題についてお考えいただく機会にしていただきたいと思います。

また、報恩講の法話の後、「お坊さん教えて」としてご法話いただきました布教使様と一緒に、仏教の教え・真宗の教え・親鸞さんのことなど、何気なく頭の中に入っていることをもう一度しっかり自分の中で学ぶ機会を考えています。知らないことが恥ずかしいことでなく、いつからでも学ぶ気持ちを忘れていることが恥ずかしいことです。
 高田本山では、来年5月21日から28日まで親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年他の奉讃法会も予定されています。この機会に、しっかりと仏教の教え・真宗の教え・親鸞さんのことを学びませんか。どなたでも歓迎です。ご参加ください。

親鸞聖人

親鸞聖人の御生涯【浄土真宗本願寺派のHPから掲載】

平安時代も終わりに近い承安(じょうあん)3年(1173)の春、親鸞聖人は京都の日野の里で誕生された。父は藤原氏の流れをくむ日野有範(ひのありのり)、母は吉光女と伝える。聖人は養和(ようわ)元年(1181)9歳の春、伯父の日野範綱(のりつな)にともなわれて、慈円和尚(じえんかしょう)のもとで出家・得度(とくど)をされ、範宴(はんねん)と名のられた。ついで比叡山にのぼられ、主に横川(よかわ)の首楞厳院(しゅりょうごんいん)で不断念仏を修する堂僧(どうそう)として、20年の間、ひたすら「生死いづべき道」を求めて厳しい学問と修行に励まれた。
しかし建仁(けんにん)元年(1201)聖人29歳のとき、叡山では悟りに至る道を見出すことができなかったことから、ついに山を下り、京都の六角堂(ろっかくどう)に100日間の参籠(さんろう)をされた。尊敬する聖徳太子に今後の歩むべき道を仰ぐためであった。95日目の暁、聖人は太子の本地である救世観音(くせかんのん)から夢告(むこく)を得られ、東山の吉水(よしみず)で本願念仏の教えを説かれていた法然聖人(ほうねんしょうにん)の草庵を訪ねられた。やはり100日の間、聖人のもとへ通いつづけ、ついに「法然聖人にだまされて地獄に堕ちても後悔しない」とまで思い定め、本願を信じ念仏する身となられた。
法然聖人の弟子となられてからさらに聞法(もんぼう)と研学に励まれた聖人は、法然聖人の主著である『選択集(せんじゃくしゅう)』と真影(しんねい)を写すことを許され、綽空(しゃっくう)の名を善信(ぜんしん)と改められた。そのころ法然聖人の開かれた浄土教に対して、旧仏教教団から激しい非難が出され、ついに承元(じょうげん)元年(1207)専修(せんじゅ)念仏が停止(ちょうじ)された。法然聖人や親鸞聖人などの師弟が罪科に処せられ、聖人は越後(えちご 新潟県)に流罪。これを機に愚禿親鸞(ぐとくしんらん)と名のられ非僧非俗(ひそうひぞく)の立場に立たれた。
このころ三善為教(みよしためのり)の娘・恵信尼(えしんに)さまと結婚、男女6人の子女をもうけられ、在俗のままで念仏の生活を営まれた。建保(けんぽう)2年(1214)42歳の時、妻子とともに越後から関東に赴かれ、常陸(ひたち 茨城県)の小島(おじま)や稲田(いなだ)の草庵を中心として、自ら信じる本願念仏の喜びを伝え、多くの念仏者を育てられた。元仁(げんにん)元年(1224)ごろ、浄土真宗の教えを体系的に述べられた畢生(ひっせい)の大著『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』を著された。
嘉禎(かてい)元年(1235)63歳のころ、関東20年の教化(きょうけ)を終えられて、妻子を伴って京都に帰られた。『教行信証』の完成のためともいわれ、主に五条西洞院(にしのとういん)に住まわれた。京都では晩年まで『教行信証』を添削されるとともに、「和讃」など数多くの書物を著され、関東から訪ねてくる門弟たちに本願のこころを伝えられたり、書簡で他力念仏の質問に答えられた。
弘長(こうちょう)2年11月28日(新暦1263年1月16日)、聖人は三条富小路(とみのこうじ)にある弟尋有の善法坊(ぜんぽうぼう)で往生の素懐(そかい)を遂げられた。90歳であった。

 

【高田での伝承】
・建歴(けんれき)二年聖人四十歳の頃、配流が解かれ、関東へ行かれる道すがら、信濃の善光寺へお参りし、善光寺聖の側面も持ちながら常陸の国に移られた。
・関東での布教の中、多くの念仏者が育てられ高田の本寺が建立された。そこに聖人感得の善光寺式一光三尊佛がご本尊として安置された。
・関東から都に帰られる中、文暦(ぶんれき)二年三河の妙源寺に逗留された。三河は、後に高田の顕智(けんち)上人などが精力的に布教された場所でもある。
・聖人のご往生の葬送、廟堂の建立には、高田の顕智などが中心に取り仕切った。

 

報恩講

今年の報恩講
妙華寺の地域周辺の真宗寺院は、各寺院の報恩講が勤まっています。コロナ前までは、妙華寺の所属する組(グループ)は6ケ寺が、毎年、同じ時期ですが報恩講のお勤めをするお寺に集まって、親鸞聖人のご遺徳を讃歎していました。讃歎する心は同じですが、それぞれの寺院の趣きがあり、楽しみでした。
3年前から新型コロナウィルス感染症のことで、各寺院の報恩講には出仕せず、それぞれの寺院だけでお勤めすることになり少し寂しく感じています。

今年の妙華寺の報恩講は、12月4日の13時30分からです。
ご法話は、豊橋市の正太寺の大河戸悟道師です。
また、今年は ご法話の後、布教使さんに、仏教・真宗の教えでわかりにくいこと、自分の中で疑問など気軽におたずねいただける場を考える「お坊さん教えて」の時間を用意します。ご法話の後も引き続き一座を倶にお造りいただければと願っています。

どうかお楽しみに

報恩講のことで、前々住職や前住職から聞いたことを改めて思い出すと、妙華寺では戦前まで報恩講を5日間お勤めしていたそうです。その間のお非時(お昼の食事)は、当時、小学校に通っていた前坊守や姉妹、他の小学生も給食がなかったのでとても楽しみだったと聞いています。戦後から3日間になり、昭和40年代に2日間になり、平成12年から1日になりました。

報恩講では、聴聞にこられる皆さんにお非時(お昼)を用意していますが、新型コロナウィルス感染症の感染拡大で、令和元年の報恩講から、集うことが難しく、お非時も、パック詰めの弁当を手渡す方法で皆が一緒に食事をすることも難しくなりました。
新型コロナウィルス感染症のことを考えると、残念ですが、今年も、お非時は、市販のお弁当を手渡す方法に決めました。