お寺の掲示板

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私は死ぬために生きているのですか?

『大往生できる人 できない人』潔く、とらわれず、おまかせして生きる 田畑正久著 から
がんの再発などでホスピス(終末期医療を行う施設)に移り、同じ病気の人の死を知る時、医師に訴えた言葉の一つです。家族や友人愛する人がこのような状態の時、私たちはどう寄り添えばよいのか。そして私自身が死の床にある時、その現実をどのように受け取ればよいのか。死く人たちの「生きることの意味」「生きることの物語」の問いかけに僧侶も十分答えることができているでしょうか。

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何のために 何を求めて
傷つきつかれ 年老いて死ぬのか

「何のために」 作詞 北山 修

世の中には、自分で気がつかない葛藤に縛られて、強迫的な窮屈な生き方をしている人は少なくないようです。そのために自分が本来もっているはずの可能性を発揮できないでいます。そこから自分でもっと自由に、自分らしく生きてゆけるようになる地点まで連れてゆくのが精神分析です。たとえ厳しくても、自分のおかれている現実を、そのまま現実として直視することができるようになると、その人なりに何か、自分にできる現実に即した適応的な豊かな生き方を模索することになるものでしょう。といっても、結局、人は死の前には無力です。これは動かしがたい現実です。しかし生きているかぎり、今ここに生きているからこそできることや、味わえる楽しみや喜びを味わうしかありません。そこで何を、どうするといいのか、そこに「君たちはいかに生きるか」という今日的な課題も出てきます。精神分析は自分なりの幸福論を探して、自分なりの生き方を求めてゆくための心の自由を援助するものです。
『良い加減に生きる』歌いながら考える深層心理 きたやまおさむ・前田重治(共著)

自分の中で「何のために」と問うことは大切な決断をするときに起きてくる。
自分の進路で悩んでいる時、何かを天秤にかける時、大義名分がほしくなる。
「生きる」ことだけでなく「生死」は「何のため」と問うていくと どうだろう。

10月のおてらおやつクラブ

10月のおてらおやつクラブ
10月から一人親家族様へのおすそ分けは、おてらおやつクラブ事務局からの発送に運営方針が変更になりました。今月からは3つの支援団体様へ7日・8日に「お供え」を「おすそ分け」させていただきました。
また、12月の報恩講のお非時(ひじ)の時に、支援団体様のご奉仕で「子ども食堂」を併設させていただく予定です。

また、年2度回収の古本勧進での古本も募集しています。
今回は来年1月末までに集まった古本を寄付させていただきます。
不要になりました古本がありましたらいつでもお寺にお持ち込みください。
対象の本は、裏表紙にバーコードのあります文庫本・新書本・単行本です。
申し訳ございませんが、週刊誌・雑誌・百科事典・全集は対象外です。
本以外、書き損じのハガキ・不要なCDも受け付けています。

應典院「おてら終活祭」のお手伝い

應典院「おてら終活祭」のお手伝いをして
大阪で先駆的な寺院活動をされている應典院様の「おてら終活祭」のお手伝いをさせていただきました。遺影の撮影会やお坊さんへの「よろず相談」、お坊さんと一緒に食べる精進料理。そして午後から「戒名」についてお坊さんのぶっちゃけトークと「戒名」ワークショップ。多くの参加者で会場の本堂は満堂でした。僧侶の参加者は超宗派の17名でお寺から飛び出して活躍される僧侶も多く参加されていましたので私(住職)にとても刺激をいただいた時間でした。


①午前中のよろず相談では、2名の生活者からご相談を受けました。医療関係者の方は、お寺の僧侶と医療関係者で何か取り組むことができないかと模索されていました。應典院さんとも行事を考えていらっしゃるようですが多くの寺院とも取り組みたいことを考えていらっしゃるようです。もう一人は菩提寺があるのですがその方の姉が嫁がれたのがお寺(菩提寺と別の宗派)で、これからのお寺との付き合いで自分のご先祖さんをどちらに託すのがよいかと悩まれていました。今ある人間関係での悩みでありますが自分のご先祖様のことも含んでの選択でゆっくり考えながらのことになると思います。
②僧侶と食べる「精進料理」では3名の大阪のご婦人と一緒でした。それぞれ一人で参加されているのですが、一人が持参していた地元スーパーの袋からスーパーへの感想をそれぞれがされいつのまにか友達のような雰囲気になるのに驚きました。また僧侶はいつも「精進料理」ばかり食べているのかとか、どこの精進料理が美味しいとか尋ねられるのですが、私(住職)はいつも精進料理を食べている訳でもなく、精進料理と言うと京都かなと思い語ろうとすると、私より詳細な情報をお聞かせいたただくことになりました。今回の行事に参加されたことは、新聞での案内とお聞きしました。お一人は昨年も参加して應典院さんからの案内だったようです。


③午後からの「戒名」についての僧侶のぶっちゃけトークには参加者全員が真剣に耳を傾けていらっしゃったと感じました。「戒名」と言う言葉から何を思うかはそれぞれですが、「戒名」のいわれとか、こめられている思い、授ける方の思い、金銭にまつわる思いなど「院号」を含めてお聞かせいただいたと思います。

④続いて参加者との「戒名」ワークショップでは、私のグループは2名の生活者と私(僧侶)でした。Aさんは40代の起業された方。Bさんは仕事を退職され、配偶者を少し前に亡くされた70代男性。まずはグループ内で自己紹介をし、お二人は今回初めての参加でこちらに見えた理由をお尋ねしました。「戒名」という言葉がキーワードであったようですが、自分で「戒名」を考えることまでは思っていなかったそうです。少しお寺のことやお坊さんのことを知りたいと言うのが本音のようです。ワークシートに10分ほど時間をとり私(僧侶)も記入をして3人で共有しました。そのあとご自身で「戒名」の文字をいくつか考えていただくのにおよそ15分ほど時間をとりました。私(僧侶)もワークシートの内容の振り返りで文字を書きました。3人で共有する前に、私のお寺でどのように「戒名」をお付けしているかを拙寺のサンプルを示しながら説明しました。「戒名」の漢字の読みは、呉音か漢音かとか、「戒名」の漢字として使用を控える場合や欠画文字のことなどお話ししました。それから「戒名」候補の漢字の共有をして少しコメントしました。また限られた時間の中で、お二人とお話させていただいた関係性から感じた私(僧侶)の「戒名」候補の一字をお二人に示してその背景をお話しました。ワークの時間として1時間30分ほどでした。


※注意
ワークショップで自分で「戒名」候補としてあげた字が、菩提寺様の「戒名」の候補となるかは別の問題であります。ワークショップではこれまでの自分を振り返りこれからの生きる指針になる字の1つとして考えていただいたことが大切と思いました。
「生前戒名」を希望される方へはこのワークシートを使って一緒に考えることができると思いますので妙華寺でも取り入れたいと思います。
とても有意義な経験をできたことに感謝します。

※真宗では「戒名」とは言わず「法名」と言いますが、行事でのテーマの「戒名」を使用し記載しました。

※中川個人の感想です。

9月の聞法

9月の聞法
4日は、本願寺派の「浄土真宗聖典全書」全6巻の刊行記念の講演会とシンポジウムに参加しました。行事の後半時間には大きな雷鳴が響くこともあり久しぶりに雷鳴に驚いていました。また会場である京都で同郷の知人に会うこともうれしいものでした。
講演は、徳永一道師と佐々木勇氏で、徳永先生は、浄土真宗聖典の英訳への取り組みで苦労されていることは、西洋文化と東洋文化の違いからくるもので、「ありがとう」とサンキューや、「さよなら」とグッドバイの違いをお教えいただきました。「他力」思想は東洋文化から生まれてきたものということも私(住職)には詳しくは分かっていませんがうなづくことができそうでした。佐々木先生は「親鸞聖人の漢文訓読」と題され親鸞聖人の真蹟から分かることをお話されました。私(住職)は他の祖師の真蹟を見ることはほとんどありませんので親鸞聖人の真蹟と比較することもありませんでしたが、親鸞聖人自ら読みを加点することは他の祖師にはない特徴のようです。時代と共に訓読も変化している中で親鸞聖人は時代を先取りした形であったことも驚きの1つでした。経文解釈に独特のものがあるのも親鸞聖人の中で独自のルールがあったのか気になるところでした。
後半は、本願寺派の田中真師が「浄土真宗聖典全書」の刊行までのご苦労を紹介されました。大谷派の三木彰円師は『板東本 教行信証』から親鸞聖人が聞思された教言を、そのまま私たちが聞思していくことの大切さを話されました。高田派の栗原廣海師は、高田派聖典を刊行した時の紹介で、聖典刊行には、学術的な研究の紹介と広く多くの方へ親鸞聖人のみ教えの紹介する力点をどのように工夫するか今後も難しい問題であることや高田派の特色などを話されました。 ※中川個人の感想です。

お寺の一日(10月)

10月は、夏衣から冬衣への衣更えでもあります。私(住職)は暑がりのせいか、10月でも暑い日に冬衣を着ると再び汗いっぱいになることもあります。
12月発行の寺報の原稿を10月初旬に印刷屋へ原稿を入れ2度ほどの校正で11月上旬に刷り上がり12月の報恩講の案内に同封しています。
また、秋千部会の案内の宛名を手書きでしています。案内文は印刷ですがせめて宛名は下手な字ですが心を入れて書いています。

9月のおてらおやつクラブ

 

9月のおてらおやつクラブ
9月は、13日と17日に一人親家族様と二つの支援団体様へ「お供え」を「おすそ分け」させていただきました。
おてらおやつクラブの冊子「てばなす」2号は、秋彼岸会の案内時に配布いたしました。

また、年2度回収の古本勧進での古本も募集しています。
今回は来年1月末までに集まった古本を寄付させていただきます。
不要になりました古本がありましたらいつでもお寺にお持ち込みください。
対象の本は、裏表紙にバーコードのあります文庫本・新書本・単行本です。
申し訳ございませんが、週刊誌・雑誌・百科事典・全集は対象外です。
本以外、書き損じのハガキ・不要なCDも受け付けています。

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「今」を生きることに集中する

『大往生できる人 できない人』潔く、とらわれず、おまかせして生きる 田畑正久著 から
著書の中で、ほとんどの人が「仕合わせになるためのプラス条件」を増やし、「仕合わせの足かせになるマイナス条件」を減らしていくことで仕合わせになれると考えています。
しかし、「年を取ることは今まで見えなかった世界」が見えてくる、智慧をいただく、人間として成熟する歩みがある。と述べています。

私(住職)が25歳の時に、祖父が80歳で往生しました。私(住職)が52歳の時に、父が80歳で往生しました。祖父と父との続柄が違うこともありますが大切な人の死について思うことは変化しています。そしてこれからも変化していくと思っています。

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「死後の世界」が、あるかないかは、自分で決めていい

『人は人を救えないが、「癒やす」ことはできる』 谷川洋三著から
著書では続けて、あるかないかわからないのが「死後の世界」です。だからこそ、自分がどう思うかという基準で、自由に決めてしまっていいともいえます。

死の不安や恐怖を取り払いたいのであれば、どんなものでもいいので自分の中で決めることが必要です。有でも無でもどちらでも構わないので、自分の都合のいい死後の状態を設定して、そして信じること。その信じる度合いが100%に近づけば近づくほど、死を前にしたときの心の安定が得られるはずです。
自分で選べることが大切で、他者からの強要での選択では後悔がやってくると思います。

8月の聞法

8月の聞法
1日は、徳本会の暁天講座に初めて伺いました。旧「津市」の浄土真宗の3派寺院で50年以上活動されています徳本会は、毎月「真宗講座」を開催し、8月1日から3日まで、朝5時から6時の暁天講座を開催されています。今年の会場は、海に近い津市中河原の潮音寺様です。住職の村上英俊師には以前から親しくさせていただいています。徳本会の総理であります高田本山のご法主殿のご臨席の元、「重誓偈」のお勤めの後、真楽寺住職の鷲山了悟師(妙華寺の毎年秋彼岸の布教使)のご法話を聴聞しました。ご自身の病気を通して阿弥陀様のはたらきに遇うことができたことを、丁寧にお話されました。「自分自身のたよりなさ」や「無常」についてもう一度かみしめることができました。※中川個人の感想です。
2日は、昨日と同じ徳本会の暁天講座で、本願寺派布教使の加藤幸子師の「御開山聖人ご出生のご恩」と題して「南無阿弥陀仏」の呼びかけは、自我を破る「はたらき」であることを親鸞聖人が私に知らしめていただいたことをうれしく尊くあることをお話されました。昨日の「自分のたよりない」ことが破られていくことをが仏縁に遇うことであることを改めて感じました。※中川個人の感想です。
2日の高田本山夏季仏教文化講座は、花園大学の佐々木閑師の「現代社会で生きるためのブッダの教え」として仏教学の歴史やシャカの悟ったことの目的は、今に伝わる上座部仏教と大乗仏教で変わらないことなど基礎的なことを丁寧にお教えいただきました。ヨーロッパでは、インドの言語とヨーロッパの言語を比較すると同じような形であることから古代アーリア人を共通の祖先として見ることができ、ヨーロッパ人は自分のルーツとしてインドの研究を、1600年代(江戸時代の)頃からしていますので仏教学の先行研究はヨーロッパが中心であることも私には新鮮でした。※中川個人の感想です。


3日の徳本会暁天講座は、妙華寺の衆徒が「阿弥陀様のお心」と題してお話をさせていただきました。聖人の和讃から、私たちの日々の有り様は煩悩だらけである。手放すことをしたくない大切なものも最後は手放していかなければならないことは頭で分かっていても、今直ぐに起こることとは思っていない私をずっと見て下さる「はたらき」が阿弥陀様のお心とこれまでの経験を通してお話されました。凡夫とは私のことであると聖人の和讃からいただくことができました。 ※中川個人の感想です。
最後に3日間ご臨席のご法主殿からお言葉をいただき今年の暁天講座は修了しました。
この暁天講座の3日間は、徳本会会員の知人と共に聞法できた有難い時間でもありました。日が明ける頃に暁天講座がはじまり終わる頃は朝の光を感じながら1日がはじまる素敵な時間をいただきました。


8日は、奈良県の田原本町にある西本願寺派の浄照寺様のお盆行事に伺いました。浄照寺様は由緒ある格式のあるお寺ですが、私は勝手に親しみを感じています。
それはお寺の行事で多くのお同行様がそれぞれの役割を楽しく果たされているからです。またご住職様をはじめ寺族の方々の行事に向き合う姿に心打たれます。
今日は、お盆の行事でご法話は、本願寺派布教使の花岡靜人師でした。花岡先生は高田本山の布教伝道研修講座のご講師でもありますが、ご法話を聴聞させていただくのは初めてでした。親鸞聖人の『尊号真像銘文』から親鸞聖人自身の文である「正信偈」の一文からの讃嘆でした。親鸞聖人の阿弥陀如来の「はたらき」を讃嘆するお姿が素晴らしいのは、阿弥陀如来の「はたらき」がそのままでちゃんと私に届いているからのことですが、つい自分を付け足してしまいたくなってしまうのが凡夫の私であります。後二座ありますので最初のさわりだけでありましたが私にもわかるようにお話くださいました。外は暑い一日でしたが本堂内は空調設備のおかげで快適に聴聞させていただきました。※中川個人の感想です。


28日は、教学院主催の「仏法と現代を考える集い」で「医療と仏法」~医療現場の問いを抱えて仏教に学ぶ~と題して、真宗大谷派の僧侶であり、脳神経内科の医師でもある岸上仁師が講師でした。岸上師の医療現場は、病気が治らない(難病で治療方法がまだわからない)現場で、告知に当たって「治らないのであれば殺してください」など患者の声にどのように向き合っていくかとても難しい問題を、仏教を学びながら今もご自身に問いかけているようです。「ケアされる側」の問題は「ケアする側」の問題でもあり立場を超えた問題で「言葉にならない心の叫び」をどのように聞いていくか医療現場から多くのことを学び、仏教に学んでいらっしゃいます。同じ言葉であってもその言葉の奥にある心の叫びは、本人も気づいていない場合もあるかも知れないし、私も気づく事ができていないこともあり、「寄り添う」ことに大きな壁があるとの言葉に改めて私(住職)も肯きながらこれからの「寄り添う」あり方を考えさせられます。沢山の事をお話されましたが、私(住職)の理解が浅くもったいないことでした。 ※中川個人の感想です。