造花

造花
お仏壇やお墓の花を「造花でもよろしいですか」とおたずねが増えています。

造花について、調べると外国でも日本でも随分以前から考えられていたようです。
切り花は、育てるのに手間がかかるのと、愛でる時間が限られていること(はかなさ)から、手間がかからず、見た目も長い間良好であることが、技術的に可能になり今は手軽に楽しめることから増えてきているのだと思います。

また、切り花として栽培することも難しい植物は、造花は貴重な存在になっているのでしょう。

自宅や公共施設・ショッピングセンターなど多くの場所で観賞用として私たちの目を楽しませています。

私たち人間の願いから生まれてきたものです。

お仏壇やお墓の花もその延長上で考えれば、造花でも良いのではと個人的には思います。
ただ、お仏壇にお花を供える意味を考えるとどうでしょうか。
私たちの目を楽しませる為にお供えをしているのでしょうか。

お仏壇の荘厳の1つである花は、三具足の1つです。三具足は、燭台・香炉・花瓶で、燭台のローソクは、仏の智慧(光)・香炉は仏の教え・花瓶の花は仏の慈悲を象徴しています。私たちは、感覚として、仏様にローソクや香・花を手向けていますが、

本当は、仏様から私たちへ手向けられたものが三具足であります。
本来の意味を理解しながら、考えてみようと思います。
三具足の1つローソクも今は、電気式や電池式も多くなっていますね。
※中川個人の感想です。

高田本山からの連絡

大裏方様のご逝去
高田本山から連絡がありました。
7月7日に大裏方様がご逝去されました。
仮通夜は、7月10日午後6時からお対面所 密葬式は7月11日午前11時から如来堂にて執り行われます。

本葬儀につきましては、後日案内があります。

長年、高田本山専修寺のお裏方様として、高田派の婦人会、坊守会、小袖会などで活動されていらっしゃいました。また、学問への関心も高く、高田学報にも論文を発表されていました。専修寺に伝わる宗旦古流の歴史(伝来)や茶道具の保存にもお力添えをいただいてことが思い出されます。
※中川個人の感想です

学びなおし

学びなおし
一般的に、仏教について学ぶのは、高校の日本史だと思います。私(住職)も日本史で仏教が日本の中でどのように受容されてきたか学んだ記憶があり、それが私の仏教理解の根底にあるものだと思います。考えて見ると40年前の学びから、仏教理解が更新しているでしょうか。

当時「鎌倉新仏教」として、取り上げていた概念も今は違うようです。

『日本史を宗教から読み直す』山川出版社が手元に届きました。

学校の教科書は、学習指導要領の枠組みで、仏教は、日本史の中で説明されているようです。もう一度、教科書の「日本史」を宗教から読み直すことで、学生当時の仏教理解が更新されるような気持ちです。夏が近づいてきた今、学生時代の夏休みの課題のようにこの1冊を拝読できればと思っています。

※中川個人の感想です。

 

孤独

孤独
多くの友人がいて楽しく生活をしていても、「孤独」を感じる時はあります。
「孤独」は、対人関係ではなく、私の中にあるものだと思っています。

『佛説無量寿経』に「独生独死独去独来」(人は独りで生まれ独りで死に、独りで去り独りで来る)の言葉があります。人生における根源的な孤独を表して、生まれてくる時も死ぬ時も、誰にも代わってもらえないことです。また、他者に依存しないで、自分自身の足で人生を歩むことの大切さを示しています。
だからと言って、独りだけで生きていくことなんてできません。

「孤独死」の話題をよく耳にするこが増えてきました。
亡くなって何日もたってから亡くなっていたことがわかるとして、独居の課題としても取り上げられます。周囲との関係性を深めて「見守り」体制を十分機能させることの大切さも叫ばれます。
お寺にも、地域の方々やお同行の「見守り」ができる活動もあるようにも感じています。実現できる取り組みを考えていきたいと考えています。

※中川個人の感想です

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今の自分を省みる中で、未来で私がどのような存在であったかを考えることで、今の自分の存在を確かめることにもおもしろいと思います。

自分の生涯(生き様)が確定するのは、亡くなった時だと聞くこともあります。評価は他者が決めるのですが、どのように生きてきたかは私自身が決めることです。他者に評価されたいがために生きているのではなく、自身の生き方が、そのまま他者に評価されることに気づかされるとどうでしょう。
いろいろな事情で今の私が存在しているのですが、心の奥底にある私の「生きる意味」とは何か、考えさせられます。
日常生活の中に「生きる意味」を見出すこともあります。逆に「生きる意味」を見出せない場合もあるように感じます。自分を見つめなおす視点を少し変えてみることはどうでしょうか。日常生活では考えることもない「仏様に願われた命(私)」として、自分を俯瞰して見つめることも、新しい自分の一面に出遇えそうです。
※中川個人の感想です。

あなたは、どのように生きていますか。

実践と座学

実践と座学
一般的には、実技(実習)と講習と呼び、学ぶことが多いと思いますが、茶道では、実践と座学と聞くことがあります。
茶道の稽古は、一服のお茶をおいしく差し上げるための実践です。その学びは深く多様であります。一方、茶道の歴史や理論を学ぶことも必要です。共に、学ぶべきものはたくさん有り、生涯学ぶことが大切だと感じています。

仏教も同様だと思います。「み教え」を学ぶことも、「み教え」を伝える(実践する)ことも生涯つづけることが大切なのだと感じています。
私(住職)には、限られた時間しか与えられていません。
そして、実践することができなくなったり、座学としての学びが難しくなる時が必ずやってきます。その時、どのように対応するかが問われようとしています。
1つは、これまでの歩みから離れる(関わらない)選択と、もう一つは、これまでの歩みの中でできることで関わりつづける選択だと考えられます。関わり方には、さまざまな形がありますし、自身の活動できる範囲や健康面などで変化しながら、関わりたいけど関わる事ができなくなる日がやってきます。その日まで、私(住職)は、自分のできる範囲で関わっていくことができればと願っています。
※中川個人の感想です。

さい銭

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「さい銭」についてインターネットで調べると、下記の説明があります。

賽銭(さいせん)とは、祈願成就のお礼として神や仏に奉納する金銭のこと。
元は金銭ではなく幣帛・米などを供えた。「賽」は「神から福を受けたのに感謝して祭る」の意味。「祭る・祀る」の語義は「飲食物などを供えたりして儀式を行い、神を招き、慰めたり祈願したりする。

散銭ともいうが、金銭を供えるようになったのは後世であり、古くは米が神仏に供えられた。その形態は、神前や仏前に米を撒く「散米」「散供・御散供・打撒」や、洗った米を紙に包んで供える「おひねり」だった。金銭が供えられるようになったのは中世以降であり、庶民に貨幣経済と社寺への参詣が浸透し始めた時期である。そして、参詣が一般化したことで都市の風習として、賽銭をあげることが流行になった。しかし、現在のように賽銭箱が置かれるようになったのは近世以降である。また、地域によっては長らく米が供えられていた。

現代の日本においては初詣で特に多く納められ、寺社の維持・運営の重要な財源となっている。参拝客にとって経済的負担が少なく少額硬貨が入れられることも多いが、近年では、寺社にとっては金融機関への入金手数料が負担になる問題が起きており、却って赤字になる場合もある[6]。特に一円硬貨に関しては、金融機関に大量に入金しようとした場合、その大量の一円硬貨の総額が手数料に負けてしまう場合が多い。そのため2022年頃から、神社が主に商店等の事業者向けに金融機関を介さず無手数料で賽銭を利用した両替サービス(その利用者は紙幣等を出し、釣銭用等として棒金の形で硬貨を受け取る)を行うケースが各地で相次いでいる。((https://ja.wikipedia.org/wiki/賽銭 参照 2025年6月24日))

京都迎賓館

京都迎賓館
京都迎賓館は京都御所の敷地内にあり、今年開館20周年で、ガイドツアーを開催されていると聞き参加しました。
京都御所といえば、三大祭りの1つ「葵祭」の出発地で、随分前ですが、祭りの行列を見学したことがありました。
迎賓館は、海外の賓客をお迎えする施設ですので、私(住職)のような一般人には関係ない施設ですが、日本国のおもてなしの施設を拝見できる贅沢な時間でした。
日本建築の伝統と粋と美しさと現在の建築技術の融合をめざした「現在和風」の創造を目指した建造物のようです。11名の伝統技能者の技や14種類の伝統技能を活用した調度品が配置されているそうです。拝観時間は90分ほどですが、説明も含めてとても見応えのある素晴らしい時間でした。

『悲しみをこえる人生』

『悲しみをこえる人生』浅井成海師 法蔵館 伝道シリーズ7
少し前に出版されました伝道シリーズの1冊です。
愛しい人を送ることを通して、阿弥陀如来の「み教え」に出遇うことのありがたいことをやさしい言葉で伝えていただいています。
「最近、大事な方とのお別れを経験して、深い悲しみの中に沈みこんでおられる人もあると思います。救われているのだろうか、それとも迷いつづけ苦しみつづけているのではないかと、不安な毎日をすごしておられる方もおありのことでしょう。しかし、本当に別れの悲しみをのりこえていくためには、本願のみ教えに遇うほかに道はありません。親鸞聖人の導きにより、ただ阿弥陀如来のよび声を聞かせていただくよりほかにありません。遠まわりのようでもそれが近道になります。聞法いたしましょう。そうすることで、亡き人にお育てをうけ、導かれていることが知られます。お念仏のみ教えを聞かせていただきましょう。そしてすぐ結論を出すのではなく、聞きつづけましょう。必ず道は開かれます。いやすでに道は用意されているのです。そのことに気づかせていただきましょう」と最後の一文から、これからの人生を、しっかり歩む力をいただきました。
※中川個人の感想です。

共通認識

共通認識
お茶の稽古は、「お茶(濃茶)をおいしくいただく」ことを分割して習うことです。
お茶をいただく時にお菓子が出されますが、お茶が出てくるまでにお菓子をいただきます。それまで、お茶とお菓子は一緒にいただくものと思っていました。日常生活では、お菓子を食べながら、お茶を飲むことは当たり前でした。自分流でおいしくいただくことで良かったのですが、お菓子はお菓子としておいしくいただく。そして、お茶はお茶をおいしくいただくことを突き詰めると、作法にならったいただき方になるように感じています。食事も、懐石・会席は、一品毎に目の前にだされて、それを食し、次の一品に進んでいきます。もちろん、定食などは一度に注文した料理が出てきますし、バイキングなど自分の好きな物を好きなだけ取っていただく場合も自分らしいなと思うこともあります。
少し、話題がそれますが、「仏様の前を通るとき、横切るとき、頭を下げる」
「畳を歩く時、畳の縁は踏まない」「座布団の正面」などの作法はご存知ですか。
知らなくても、日常生活で支障はありません。支障はありませんが、これまでの社会では当たり前のように受け入れていたルール(しきたり)で、その時代では、1つの共通認識だったのだと思っています。

今の時代に共通認識できるルール(しきたり)はあるのでしょうか。
中日新聞の人生欄で、能の「羽衣」の記事を拝読しました。日本文化に造詣が深い方はご存知だと思いますが、私(住職)は、高校生の頃、歴史か古文の科目で能で演じる「羽衣」の演目は学んだと思いますが、内容はついては、学んだかどうか、まったく覚えていません。一昔前なら、日本人の教養として能や歌舞伎の演目や俳句や和歌などが共通認識のもと、絵画や日常生活品などに趣向が取り入れられ、会話が弾んだと思うのですが、今はどうでしょうか。

日本に仏教が受容されてから、生活の中で、仏教語も数多く使われていましたので、仏教も共通認識されていた1つと思いますが、今は仏教も教養(常識)としての共通認識は難しい時代になってきているのではと感じています。
※中川個人の感想です。