10月のお茶

10月のお茶
5月の初風炉から続いた風炉のなごりの月です。中置の点前は、10月だけのようです。
秋の「みのり」のイメージが強いですが、風炉のなごりのイメージで印象的なのは、やつれ風炉に藁灰が有名です。稲藁を蒸し焼きにして黒くし、風炉灰の上に、1本1本丁寧に置くことに亭主の正客への「おもてなし」の心を思うと感動します。私はまだそのような席を経験していませんが、経験された皆さんがとても素晴らしいとお話を聞くことはあります。
また、風炉の流し点も炉が開かれる前に稽古をするのもよいと思います。

お寺の10月

お寺の10月
衣更えの時期ですが、まだまだ暑い日もあり、個人的には11月に衣更えを変更してもよいかなと思うこの頃です。10月の秋の千部永代経法会の準備もあります。また、早い方は、来年の法要の日時をご連絡くださる場合もあり、来年のカレンダーも気になります。真宗教団連合の法語カレンダーや法語解説本の準備と年1度の寺報の原稿の準備。12月第1日曜日の報恩講のことも気になり出し、一気に年末のことまで考えてしまう10月です。

【案内】親あるあいだの語らいカフェ

【案内】「親あるあいだの語らいカフェ」を開催します
10月05日(土)13時30分から16時 妙華寺本堂

お寺と教会の親なきあと相談室津市妙華寺支部では、令和5年5月13日にキックオフ講演会を開催しました。
その後、昨年(令和5年)10月7日・令和6年2月3日、6月1日「親あるあいだの語らいカフェ」を開催し「親なきあと」の課題について、「つながりの場」と「傾聴の場」をご用意しました。
4ケ月に一度ではありますが、継続的に「親あるあいだの語らいカフェ」の開催を予定しています。
当事者やご家族の皆様の悩みの「親なきあと」問題の支援が必要な場合は、専門的な知識をお持ちの支援団体に「つながる」ように。
当事者やご家族の皆様の悩みに寄り添うようにお話を「傾聴」します。
妙華寺の「親あるあいだの語らいカフェ」は、(一社)みえ円満相続支援センター様にもご賛同いただいています。

また、「傾聴僧の会」の宗教者のお力添えいただきます。

必要な方に届きますように

真・行・草

真行草
「真・行・草」の言葉は、皆さんご存知ですか。私(住職)は、書道を学ぶ時に知りました。楷書(真)・行書(行)・草書(草)として、完成した書体から少し柔らかな書体と省略された書体として理解しながら、日本の武芸や建築、庭園、俳諧、絵画など日本文化の中でも取り入れられた表現で、真があり、行・草へ拡がっていくと思われますが、草に美意識を感じるのが日本的でもありそうです。
お茶にも茶室や床荘、道具・点前などさまざまな「真・行・草」の格があります。お茶の稽古の最初にお辞儀の「真・行・草」を学びました。このお辞儀の「真・行・草」は社会人としてのマナーでも取り上げられますね。欠けた茶碗を修繕して、公式の場で使うことも、「草」の意識が感じられます。日本文化の豊かさを感じる1つです。

秋分の日

秋分の日
明日9月22日は秋分の日と言い「祖先を敬い、亡くなった人をしのぶ日」として1948年に祝日法で制定されました。
また秋分の日は、祝日法の上で「秋分日」とされています。毎年2月1日に、国立天文台が作成する「暦象年表」という小冊子に基づき閣議で来年の(秋分の日の)日にちが決定されます。
祖先を供養する日
秋分の日は春分の日と同様に、昼と夜の長さが等しくなる日です。しかし、春分の日よりも昼の平均気温は10度程高く、まだ夏の気配が残ります。
秋分の日を中心とした一週間を「秋彼岸〔あきひがん〕」と言います。各家々では、家族そろってお墓参りに行ったり、祖先を供養する「法会〔ほうえ〕」が行われたりします。
1948年には、お寺参りの日・先祖供養の日など、宗教的慣例としてのまつりの日だけではなく、広い意味で「祖先を敬い、亡くなった人を忍ぶ日」として国民の祝日に制定されました。

妙華寺では9月22日(祝・日)午後1時30分からお勤めをいたします。
そして真楽寺の鷲山了悟師のご法話がございます。
 妙華寺では、ご法話をご聴聞していただくと法会参加票にスタンプを押印させていただいています。ご聴聞をお喜びするご縁となりますように、10回ご参加いただきますと記念の品をお渡ししています

まかせる

まかせる
真宗の僧侶は、「まかせる」の言葉は親しみがあります。阿弥陀様の「まかせよ」の願いにうなづいていくことが私の仏道であるからです。

私のこと誰か(他者)に「まかせる」ことができますか
随分前に、お同行の方と話の中で「葬儀をたのみます」と言う意味で「お寺さん。私の最後をおまかせします(お願いします)」と言う会話がありました。葬儀は死後のことですので、今の時代では「死後事務委任(契約)」にあたるのでしょうか。これは事務的なことで大切なことではありますが、「こころ」の領域では、私の死後の安心が最大のテーマになるのではないでしょうか。お釈迦様は死後のことについて語られてはいませんが、「こころ」がおだやかなることを「涅槃」と表し、その人にとって一番の方法を示されたのが今の仏教につながっています。

阿弥陀さんの「まかせよ」の願いは、生きている中で仏道を修することができない私(住職)にかわって、阿弥陀さんが全て修してくださっているので「まかせよ」と願われているのです。そのことを信じて人生を歩んでいくことが私(住職)の仏道になるのです。

 

皆さんは、空を見上げることはありますか。
私(住職)は、最近空を見上げることはあっても、空を見て楽しめていません。
私(住職)は、空の色を見るのが好きです。青空と言っても、毎日色が違います。雲は色も形も違います。降る雨も決して一緒ではありません。空を見上げて、あれこれ思うことで豊かな気持ちになれるのですが、今はその時間をつくれません。
感性が麻痺しているのか、余裕がないのかわかりませんが少し残念です。

中陰

中陰(ちゅういん)
中有(ちゅうゆう)のこと。四有の1つで、生命あるものが死んで次の生をうけるまでの中間の時期。また故人が亡くなって49日間のこと。
浄土真宗においては、阿弥陀仏の本願を信じ、念仏するものは、現生に正定聚の位に入り、命終すると直ちに往生成仏するので、中陰法要は、追善供養でなく、故人の死を縁として仏法に遇い、故人も遺った者も阿弥陀仏にひとしく摂取されている恩徳に報謝する。【浄土真宗辞典】

私の中陰
大切な方が亡くなられた時、その事実を受け入れることができない感情もあります。そのような状態で、これから私の人生を歩むことができるでしょうか。
自分自身が受け入れることができない悲しみや苦しみを、自分の時間で受け入れていくこと、心を整えることが、大切ではないでしょうか。
受け入れがたい悲しみや苦しみを受け入れたからといってその悲しみや苦しみは消えるものではありません。その悲しみや苦しみと共に人生を歩むことの中で宗教の「み教え」が私に響いてくるものだと思います。
浄土真宗の「み教え」は、大切な方が亡くなられても、「往生」(往って生まれる)することができ、諸仏の1人となり、遺った私を見守ってください存在になる。教えです。 また、私もその「み教え」にうなづくことができるなら、私も「往生」することができる存在となる教えです。
大切な方が先に往った世界に私もまた往くことができることで、心が安心することもあります。

「亡くなったらそれで終わり(しまい)」と考えることからは決して生まれない想いです。

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僧侶になるために

僧侶になるために
本山での会議で、生活者から「僧侶になるには何が必要」と質問がでました。
色んな側面の質問だと思います。
その1つとして、高田派僧侶の服装をあげます。
現代の生活では身近ではありませんが、和装の着物で必要なものを思い出してください。
白衣・襦袢・帯・白足袋を着ることになります。普段は白衣の上に、布袍(ふほう)と言われるものを着ます。輪袈裟をかけて、短念珠を持つ姿が普段の姿です。正式な場合、俗袴も着用します。外を歩く時は、草履が必要です。
得度の時には、白衣の上に黒衣を着て、墨袈裟をかけて、中啓(ちゅうけい)を右手に、装束念珠を左手に持ちます。
行事に出る時(出仕)する時は、白衣の上に色衣または黒衣をつけ五条袈裟をかけます。色衣の時、正式には、切袴も着用します。中啓(ちゅうけい)を右手に、装束念珠を左手に持ちます。
七条袈裟もありますが、高田派では、本山出仕では使うことがありません。これまでの慣例上、自坊などで使う場合はあります。

衣や袈裟は、夏用と冬(合)用が必要です。草履は雨用も用意が必要です。
他には、これら衣体(えたい)を持ち運ぶカバンがあれば大丈夫です。

資格の面から考えると、得度する時に、宗派で勤行するお経や作法を覚えることが必要です。平行して、教師資格は、宗派の「み教え」を修学して、人々に伝えることを学ぶことが大切と思います。他宗のような何日間にわたる身心を鍛えるような修行はありませんが、真宗では、「み教え」を尋ねていく「聴聞」「聞法」を生涯つづけていくものでしょう。

お寺とは⑥

お寺とは⑥
これまで、お寺から伝えることを中心に考えていましたが、生活者の「お寺とは」は何でしょうか。
以前のブログでも書きましたが、もっとも大きなことは、ご家族に不幸があった時の弔い(葬儀)の依頼でしょうか。そこから始まるお寺との付き合いをどう感じるか。今は、お寺に頼らなくても弔いは可能ですのでその場合は、お寺の「伝える」ことの選択肢はありません。葬式をしてお骨を埋葬するだけで「良しとする」考え方も多くなりました。
私たちの思考も変化しています。目先のやるべきことが多すぎて「私が何者か」なんて考えることには関心が及ばないのでしょう。

お寺との付き合いは、遺族の意向で決まりますので、遺族がどれだけ宗教に関心があるかで違ってきます。これまでのようなお寺の伝え方がよいのかを含めて再考しないといけません。
生活者に「お寺」の価値が見出されないのであれば、生活者に見出される「お寺」の価値を打ち出していくことも考えられます。でもそれがどのようなものか、多様性を重んじる今の時代で、それぞれのお寺や住職が工夫しているのですが、生活者の求める「お寺」」の価値観にはあてはまらないのでしょうね。
お寺と生活者の付き合い(関係性)は、これまでより薄く、淡泊になるのだと誰もが感じています。