8月のお盆勤め

今年の8月のお盆は台風10号のゆっくりした動きで14日15日は風雨の影響でいつもより大変でした。毎年のことですが、8月のお盆は小さな子どもさんがお仏壇の前に一緒に坐ってお勤めするご家庭が多くこの姿が相続されることがお寺として大切だと改めて感じています。また7月のお盆と同様に「いのちの積み木」を内陣の高座に積み、私の「いのち」が先祖の「いのち」の繋がりを可視化しての思いをお伝えしました。

またお寺のお墓へも、ご遠方からお盆参りにお見えになられるご家族が多くいらつしゃるのは8月のお盆ならではの光景と感じます。事前にご連絡いただいたりして、住職がお会いできましたらお墓でお勤めをさせていただくのですが、出かけている場合が多く、その時は、後ほど住職がお墓や本堂でお勤めをさせていただいています。また、遠方からお盆参りにお見えになるのが困難な場合もご連絡いただきましたらお墓でお勤めをさせていただきます。関東のお同行・名古屋市・四日市・鈴鹿市・松坂市・津市・京都府・大阪府・兵庫県のお同行の方々から連絡をいただき今年は、7日・10日・11日・16日の朝墓でお盆のお勤めをさせていただきました。


※今年は、お盆に入る時にお墓参りの方から隣寺との境の垣根に蜂の巣があることを教えていただきその日の夕方駆除しました。駆除しましたが2週間ほどは蜂が巣を捜しにくるそうですのでもうしばらくご注意ください。
 

真宗でお盆の法会を歓喜会(かんぎえ)というのは、自分を振り返って慚愧の中に佛恩報謝をさせていただき、その喜びを信心歓喜しお念仏申すことだとお聞かせいただきます。
親鸞聖人は「歓喜」というは、「歓」は身のよろこびで、「喜」は心のよろこびと解説されています。身も心もよろこぶという大変なよろこびを「歓喜」と教えられました。
ではこのような喜びはどんなときにあらわれるのでしょう。親鸞聖人は、「私たちが、佛さまの本願(私たち凡夫を必ずお浄土に救いますという願い)を信じて、お念仏を申す心になったとき、このような大きな喜びが自然にでてきます」と申されました。
すなわち、佛さまからいえば、本願が確かであったという証明であり、私たちからいえば、すべておまかせできたという安堵であり、佛と私が共に喜ぶさまが、歓喜といえます。
また、「歓喜」というのは、私の自力の限りを尽くしても不可能であった人生課題が、佛さまの願いによって氷解した時の喜びですから、日常生活上の喜怒哀楽とは次元の違う大きな喜びであります。

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お寺の掲示板

お寺の掲示板
「死ぬのが怖い」のは、死んだらどうなるか わからないから

『人は人を救えないが、「癒やす」ことはできる』 谷川洋三著から
著者は、「死ぬのが怖いのは、これまでに死を経験したことがないからといえます。
人はいずれ死にますが、死後どうなるかのかは、誰にもわからないのです」と続けます。

また、著書では、「死が怖いのは、「わからない」から。未知のことに対して恐怖心を抱くのは、ある意味当たり前のことだといえます。このように考えると、死の恐怖をなくすには、死んだらどうなるかをあらかじめ考えておけばいいということになります。実際にどうなるはわからないので、創作してもいいということです。
もしも答えが出ているのなら、その考えをぜひ大切にしてほしいと思います。きっと、死に対する恐怖心を取り除く役割をしてくれるはずです」とあります。

私(住職)には、小さい時から身近であった「お浄土の話」がしっくりします。

8月15日 津・平和の鐘

終戦記念日に戦没者の追悼と世界平和への鐘をつきませんか。
昨年、「津がつながる津ぅりずむ」が主催し、津市内にある鐘を撞き「戦没者の追悼と世界平和を祈念する」ことをはじめました。
今年、妙華寺も賛同し15日(木)正午から13時までの間、一分間の黙祷の後、鐘をつきます。どなたでも参加できます。
※【ご注意ください】事故防止の為、管理者(住職)がいない場合は鐘を撞かないでください。また、今後の台風10号の動きによっては中止する場合があります。

七月の聞法

7月の聞法
30日に高田本山の布教伝道研修講座で、大谷大学の一楽真先生の講義を拝聴させていただきました。講題は「入出二門偈に聞く」でこの偈頌は、親鸞聖人の著された3つの偈頌の中で晩年に書かれたもののようです。「文類偈」と「正信偈」は、平素からお勤めしていますので親しくしていますが、「入出二門偈」は妙華寺ではお勤めする機会がありませんので書誌学的なことも含めて勉強になりました。「文類偈」と「正信偈」は7高僧の讃嘆ですが、「入出二門偈」は、五念門を通して、世親(天親)、曇鸞、道綽、善導の讃嘆であるようで、聖人の偈頌を著された年代からどのような意図があったのか、また浄土が「究意如虚空 広大無辺際」であることも、因果が同時であることも、大乗仏教であることも楽しくお聞かせいただきました。
※中川個人の感想です。

7月は忙しいことを理由に聞法しない私(住職)の姿勢に、聞法のよびかけがありました。
7月のお盆が少し落ち着いた日に、妹の主人から電話がありました。
配偶者である私の妹が亡くなった知らせです。
妹は、6月に入り少し身体に違和感を感じ、いくつか検査を受け分かった時は、既に手当ができない状態のようでした。本人の希望で年老いた実母に心配をかけたくないことから私に連絡をしなかったようです。
妹の実家である私(住職)のお寺には、例年のようにお正月と5月の大型連休に家族と一緒に顔を見せに来てくれていました。これまでも母が入院していた病院や、老健の施設にも顔を出し、普段と違う素振りは感じることはありませんでした。

先日、妹の嫁いだ先の菩提寺様のご配慮で、兄の私が通夜のお勤めをさせていただきました。妹の通夜のお勤めを、兄の私がするとは努々(ゆめゆめ)考えてたこともありませんでした。
いつもお寺のお同行様の通夜で思うことは、亡くなられた方の人生がどのような場合でもその方のご一生に「ありがとうございました」と申し上げることです。住職が言うことに、ご遺族やご親戚の方からは、「故人のことを何も知らないのに」と感じられるかもわかりませんが、その方が今日まで生きていらっしゃったことに意義があるから「ありがとうございました」と申し上げています。
そして妹の通夜で、妹に「ありがとうございます」と申し上げる機会をいただいたと共に、妹を浄土へ送りだしていただいた、ご遺族家族に感謝申し上げました。

妹の人生は、家族の温かいお育ての中で豊かな人生を過ごすことでありました。

今生の別れはとても悲しいですが、これから、今を生きる私たちに、どんな時でもお浄土からはたらきかけてくださると思います。
これまで、私は多くの大切な方をお浄土へ見送ってきました。
私(住職)にとって、妹の死は、「今生を真摯に生きていますか」と言う厳しくも優しいよびかけと今感じています。
そして私にもっともっと「聞法」をしなさいとの催促です。
私もお浄土に行かせていただきたいと思っていますので、これからも「阿弥陀様の私への願い」を聞法していくつもりです。

お寺の掲示板

お寺の掲示板
不思議な橋がこの町にある 渡った人は帰らない

「赤い橋」 作詞 北山 修

この歌は、学生時代に深夜放送のラジオで浅川マキさんが歌っていたのを覚えている。とてもハスキーな声でラジオで聴いていると少し怖さのようなものを感じたが、はやっていたからか何度も聴いていた。
作詞家の北山さんは、浅川さんは、死を歌うのが似合うのだと直感したそうです。主題は、渡ってしまったら、もう二度と戻れない橋があるという、死の橋で、歌詞に出てくる「赤」は伏見稲荷の無数の鳥居からと知りました。「死」の恐怖は、①「死ぬことに伴う別れの痛み」と②「死体が朽ち果てていくことの醜さ(見にくさ)」の2種類があると語られています。
また、前田重治さんは、北山修さんとの会話で、「橋」は別れであり、また二つの世界をつなぐ架け橋となることや、「橋」から「端」「箸」「橋渡し」の象徴について語られたことがあったそうです。
著書の『良い加減に生きる』歌いながら考える深層心理で語っている。

お寺の1日(8月)

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お寺の1日

8月も7月と同じくお盆月です。最近は、暑さが9月にも続いていますが、この2ヶ月間は、自転車を使って各お同行様に伺いますので、何日かは身体の熱が夜まで取れません。暑さと向き合いながら身体の疲れを残さないように考えていますが年々疲れが取れないと思うのは年のせいでしょうか。

初盆行事の最後のお勤めを23日の19時からお勤めしています。7月の時は薄明かりではじまりますが、一ヶ月後の8月では日没が進んでいるのを感じます。

7月のおてらおやつクラブ

7月のお寺おやつクラブ
7月は、8日に二つの支援団体様へ「お供え」を「おすそ分け」させていただきました。
11日に一人親家族様にお送りできした。

おてらおやつクラブの冊子「てばなす」2号を事務局からお送りいただいています。お盆
参りにお配りできれば良いのですが準備ができずに、秋彼岸会の案内時に配布予定です。

また、年2度回収の古本勧進での古本も募集しています。
今回は8月末までに集まった古本を寄付させていただきます。
不要になりました古本がありましたらいつでもお寺にお持ち込みください。
対象の本は、裏表紙にバーコードのあります文庫本・新書本・単行本です。
申し訳ございませんが、週刊誌・雑誌・百科事典・全集は対象外です。
本以外、書き損じのハガキ・不要なCDも受け付けています。

7月の法語カレンダー

7月の法語カレンダー
「浄土真宗のならいには 念仏往生ともうすなり」 『一念多念文意』から

法然聖人の信任が厚かった門弟の1人隆寛(りゅうかん)律師は、念仏を称える回数(一念か多念か)について問題になっていることに対し、経典の所説に基づき論じた『一念多念分別事』がある。
『一念多念文意』は、聖人は、『一念多念分別事』に引用する経典、祖師の釋文(しゃくもん)などに注釈を施し、浄土真宗は回数を問題にしない他力念仏を明らかにしている。自筆本は東本願寺に伝わる。

私の人生にも、思いがけずストップがかかることがありました。少し体調が悪くなって寝込んだとき、大けがをして入院したとき、家族の死別に涙したとき、大小さまざまですが、日常の毎日の生活をいままで通りに送ることができなくなったことがあります。 その時に、「なんで私が・・・」「どうしてここで・・・」と悔しい思いをして、そして「負けたぁ・・」と思うほかはないのでしょうか。
死は必然でありながら、自分の死としては未経験なことです。未経験なことがやってくると思うと、いろいろな不安がつきまといます。死を恐れおののいて生きていくしかない私に、阿弥陀さまは「必ずお浄土に生まれさせる」と誓いをたてられました。その誓いの通り救ってくださる「南無阿弥陀仏」のお救いを聞かせいただくところには、死んで負けて終わるとしか思えなかったいのちから、「死ぬ」のではないお浄土に往き「生まれ」ていくいのちとならせていただいたのです。

 

 

お寺の掲示板

お寺の掲示板
「損したくない、負けたくない」の殻を破る

『大往生できる人 できない人』潔く、とらわれず、おまかせして生きる 田畑正久著 から

著書の中で、「私たち人間は、卵のような存在である。卵の殻を『自己中心の思い』『理知分別』という。殻の中の存在である私は周りからいい人と思われたいとか、損になることはしたくない、負けたくない・・と殻の中の小さい世界で、善悪、損得、勝ち負けに振り回されながら生きている。そういうことを繰り返しているうちに老・病につかまり、ついには卵は腐って死を迎える」
「卵は腐って死ぬために生まれてきたんだろうか。いやそうではない。卵は本当は親鳥、つまり仏教の善き師・善き友に抱かれて熱を受けながら殻の中で成長していく。ものを見る目、考える頭、羽ばたく羽根、人生を歩く足ができて、時期が熟した時に、ついに『ひよこ』になる。『ひよこ』になることを禅では『悟り』、浄土教では『信心をいただく』という。ひよこになって初めて自分が殻の中にいたことに気づき、そして殻を超えた大きな世界があることを知る。このひよこは大きな世界の光に照らされながら成長・成熟していき、ついに親鳥になる。すなわち完成した人間になる、仏になる。こういうことを教えるのが仏教である」このような趣旨の話を細川巌先生はされたのです。と語られている。とても分かりやすく解説されている。

 

7月20日以降のお寺のHPのお問合せからのメールが現在確認できていません。
恐れ入りますが、緊急の場合はお電話にてお問合せください。

7月のお盆

妙華寺では地区を分けて7月と8月にお盆勤めをしています。7月のお盆は、毎年梅雨の最後の頃で雨を気にしながらのお盆ですが、今年は14日が雨が昼から降ってきました。他の日は曇りの天気で余り暑くもなく伺いやすいお盆でした。
7月のお盆勤めをお手伝いしていただいています3名の僧侶がいてくださることで例年お盆お勤めができること感謝しています。
地区を区切って日にちを指定してのお盆のお勤めですのでその日の予定でご都合がつかない場合は、前もってお知らせいただきますと、お墓でお盆勤めをさせていただいています。お盆の期間中は、ご遠方のお同行様へも出向くことが難しい為、ご連絡をいただきますと前後の日になりますが、本堂やお墓でお勤めをさせていただいています。
ご都合のつかなかった方の墓前で12日の午後、15日の夕方、16日の朝お勤めしました。
今年も、お仏壇の前でお勤めをさせていただき、今は姑に当たる方が若かった(嫁の)頃、お勤めの間、後ろから団扇で扇いでくださったお家で今は、お嫁さんがその役をされて横に娘さんが並んで座っていらつしゃる光景はそのお家の育まれた時間にも触れることになります。
毎年でありますが、お仏壇のご本尊もそれぞれで、何代にも渡りその家で大切にされてきたことに頭が下がります。