5月の聞法

 

5月の聞法


5月は、5日に奈良県の浄照寺様の報恩講のご満座に伺うことができました。お同行様と住職・寺族が共に報恩講をお勤めされて(つくりあげて)いるのが伝わってきます。
お勤めで「奉講(ぶじょう)」の「散華楽」の読みは西本願寺では、「さんげらく」なのがわかりました。(高田では「さんからく」)そして楽人が奏でる音はとても素晴らしいことも。ご法話は、葛野洋明師(今年妙華寺の報恩講の布教使)で、「ご信心」について阿弥陀様の「金剛心」としていただくことをご絵伝のエピソードからお聞かせいただいたり、ご自身の子供の頃の経験から真宗の大切であり且つ難しい「唯除」についてお聞かせいただきました。時間が過ぎるのがあっと言うまで名残惜しく家路につきました。

13日は高田本山で年に一度の布教伝道大会でした。最近は葛野先生から布教の基礎をお聞きしています。今回は親鸞聖人の領解されます「現生正定聚」を聖人のご著書からそのままいただくことの難しさをお聞きしました。聖人の領解を、私の勝手な解釈で曇らせてしまうことは残念なことであります。素直にいただくことの難しさを感じました。またご法話を喜ぶこともそれぞれの表現がありますので「こうでないと」なんて先入観は捨てないといけませんね。

※中川個人の感想です。

お寺の掲示板

お寺の掲示板

「あの時風が流れても 変わらないと言った2人の 心と心が今はもう通わない」

「あの素晴らしい愛をもう一度」作詞北山 修

私の青春時代のヒット曲。音痴なのに良く口ずさんでいた。私の心はいつも変化するし、他者の心も変化する。変化しているが、その時その時は永遠と思ってしまう自分がいる。

5月のおてらおやつクラブ

5月のおてらおやつクラブ
5月は、昨年もご寄付いただきました「神戸スイーツ学会」からのバウムクーヘンが届きました。
・本企画は、普段洋菓子を食べる機会のない子どもたちに、美味しい洋菓子を食べてほしいというものです。お渡しするのは「子ども」限定とありました。
こうした企画が企業からおてらおやつクラブに持ち込まれるのは非常に有り難く、
いつにも増して子どもたちに笑顔を届けることができると思います。
このようなおてらおやつクラブの活動に賛同いただける企業様が増えることも大切なことと思っています。
妙華寺にもバウムクーヘンが届きましたのでお寺のお供えと共に、一人親家族様と支援団体様におすそ分けしました。

また、年2度回収の古本勧進での古本も募集しています。
今回は8月末までに集まった古本を寄付させていただきます。
不要になりました古本がありましたらいつでもお寺にお持ち込みください。
対象の本は、裏表紙にバーコードのあります文庫本・新書本・単行本です。
申し訳ございませんが、週刊誌・雑誌・百科事典・全集は対象外です。
本以外、書き損じのハガキ・不要なCDも受け付けています。

お寺の掲示板

お寺の掲示板

今や「死」は身近なものではなくなっている

『人は人を救えないが、「癒やす」ことはできる』 谷川洋三著から
著者は、「現代人は、死に接する機会、看取りの機会が相対的に減っています。そのため、いざというときに、とまどいや不安が大きくなってしまうのでしょう」と続けます。

私(住職)も、身近な「死」を考えたくないと思いますが、それでも「死」は誰にでやってくるものです。

婦人会総会と「お寺の講演会」

毎年5月18日はお寺の親友婦人会の追弔会と総会をしています。
今年は、朝方雨が降り、強風で、準備の時は慌てました。午後からは雨は止んでいましたが、風が強い日でした。昨年の総会から1年間にご往生されました婦人会会員様は8名いらっしゃいました。これまでの婦人会活動にご理解ご協力いただいたことを思いながらご焼香をさせていただきました。


総会の後、お同行様以外にもお寺に足を運んでいただける行事としてここ3年続いて「お寺の講演会」を開催させていただいています。
ご講師の「なごみ庵」の浦上哲也師には、5年前の婦人会総会日に「死の体験旅行」と言うワークショップでお越しいただいていましたのでご存知の方も何人かいました。
今回は、『「適当」に生きるススメ』と題してお話をいただきました。
浦上さんの声はとても落ち着いていて一言一言が心に届いてきます。私(住職)なんかは、話す内容が多いとつい早口になってお聞きになっている方には聞きづらいと反省するばかりです。 限られた時間の中で、親鸞聖人のお言葉から、私たちの生き方を振り返る中で「適当」と言う言葉を改めて感じていました。
 講演の後は、ご講師と衆徒の対談の時間をとり、聴講された方から質問もいただき話が尽きませんでした。


翌日にはお寺のHPから、講演と対談で、「僧侶がいて、その後ろに阿弥陀様がおられる」という内容に、心が救われる思いがしましたと感想をいただき、ご講師のお話がお届けできたことをとてもうれしく感じています。

来年は、医師で龍谷大学大学院教授を今年3月退官されました田端正久氏にお越しいただく予定です。ご講演だけでなくこれまでと少し違った構成を考えています。ご期待下さい。

5月の花

四季の花 4月と5月の違いは樹木の青々した色合いのように感じます。
「薫風」という言葉がありますが爽やかな風に初夏を感じることができるのが嬉しいです。今年もシャクヤクが大輪を咲かしました。ナンジャモンジャの花にも気がつきました。
裏庭に、レモンの木がありますがこれまであまり見たことがなかった花を見ることができました。柿の木には小さい花(?)実(?)もありました。

【レモンの木】

【柿の木】

ひとくち法話

和国の教主 聖徳王(わこくのきょうしゅ しょうとくおう)
仏教の開祖は、紀元前5世紀頃にインドで出生されたお釈迦(しゃか)さまです。この仏教が日本に伝来したのは、百済(くだら)(朝鮮半島にあった国)の聖明王(せいめいおう)が、仏像と経論を日本の朝廷に贈ったという欽明(きんめい)天皇の538年でした。
聖徳太子は、この経論を読んで、仏教こそ国境や民族の違いを越えた人類共通の世界宗教であると、自ら法華経(ほっけきょう)、勝鬘経(しょうまんぎょう)、維摩経(ゆいまきょう)という三経を注釈されました。しかも太子は推古(すいこ)天皇のご前で、自らそれを講讃(こうさん)されるという力のいれようでした。
親鸞聖人は、太子がこのように生涯かけて仏法興隆(ぶっぽうこうりゅう)に尽力され、わが国を仏教国として推し進められた功を
和国の教主聖徳王 広大恩徳謝しがたし (わこくのきょうしゅしょうとくおう こうだいおんどくしゃしがたし)
一心に帰命したてまつり 奉讃不退ならしめよ (いっしんにきみょうしたてまつり ほうさんふたいならしめよ)
『皇太子聖徳奉讃』と讃歎(さんだん)されました。このおこころをわかりやすくいえば「聖徳太子は日本のお釈迦さまです。仏の教えを我が国の宗教として定着させるために、自ら経典を註釈し法隆寺や四天王寺を建立し政治の中に仏の教えを正しくとりいれて下さった努力や功績は広大で、報謝のすべさえないほどです。
この上は、私たち国民は挙げて仏法をたずね、一心に阿弥陀仏の本願を聞信(もんしん)して、お念仏をよろこぶ身にならせていただきましょう。太子のご恩を忘れてはなりません」という意味であります。

5月の法語カレンダー

5月の法語カレンダー
十方の如来は 衆生を一子のごとくに 憐念す」     『浄土和讃』より
『浄土和讃』
親鸞聖人が、著した『浄土和讃』・『浄土高僧和讃』・『正像末法和讃』を三帖和讃と総称する。浄土真宗の法義が余すところなく讃嘆されていることから「和語の教行証文類」ともいわれる。親鸞聖人と真仏上人の筆による高田派専修寺蔵国宝本が現存するほか、古写本に高田派専修寺蔵正応3年顕智書写本(『高僧和讃』は現存せず)がある。
もつとも流布したものは文明5年 蓮如が「正信偈」とともに出版した「三帖和讃」(文明本)がある。これらの諸本の間には、和讃の本文や配列順序、左訓の有無など異動も多い。

「高田勤行本」では、「超日月光このみには 念仏三昧おしえしむ 十方の如来衆生を
一子のごとくに憐念す」とお勤めします。

阿弥陀さまが私たち一人ひとりを、わが一人子のように見てくださったと、聞きよろこんできました。親の一人子に対する愛情をもってたとえられています。しかし、このおたとえは、単なる親の愛情ではなく、自分と他者を分け隔てしないさとりの境地が、その大元であります。
いま、ここで、誰にもわかってもらえない痛みを覚え、苦しみに苛まれ、孤独を感ずるほかない私に、「その痛み、苦しみ、孤独、全部この阿弥陀如来が引き受けた。必ず救う」と届いてくださっている。
これが浄土真宗・阿弥陀さまのお救いです。

「お寺の講演会」5月18日(土)15時から

いよいよ一週間後、5月18日(土)にお寺の講演会を開催させていただきます。

どなた様もお越しいただけます。ご興味がございましたら是非ともご参加いただきますようご案内申し上げます。

お寺の講演会

15時より、本堂にて、お寺の講演(16時終了予定)

講師 浦上 哲也師

講題 「適当」に生きるススメ

16時から30分間

講師の浦上哲也師と妙華寺衆徒の対談を予定
講演の内容からこれからのお寺のあり方についても考えていきたいと思います。
皆様の質問にもお答えさせていただきます。

ご講師の紹介

浦上哲也師は、横浜に「なごみ庵」と言う浄土真宗の新しいお寺のご住職です。

3年前には『死の体験旅行』のワークショップで妙華寺にお越しいただいてます。

今回は、ご講演をお願いしました。

一般家屋を改装した「ちいさなお寺 なごみ庵」を運営。夫婦とも一般家庭出身で親しみやすく、名前通り「なごむ場所」として多くの人々が集っている。

舞台役者である妻とともに、寺院向け芝居『金子みすゞ いのちへのまなざし』や『恵信尼ものがたり』の公演で全国を巡る。
また、医療者向けの体験学習「死の体験旅行」を一般向けに開催。死を見つめることによって、「生と死」を考え、自分にとって何が本当に大切なものかを再確認できるものとして、注目を集めています。

お寺の掲示板

お寺の掲示板

「死ぬとは、死に拘るのをやめることだ」

『なにものにもこだわらない』 森博嗣著

「こだわる」ことは本来良い意味でないが、近頃は特別の思い入れがあることにも使う。

著書の帯に、「拘ることの最大の欠点は、思考が不自由になることであり、思考が不自由になると、思いつく機会が減るし、また問題解決できにくくなる。こうなった人は、いつも周囲の誰かを頼ろうとするし、最近であれば、ネットで検索しようとする。自分の頭の中で問題を展開さえしない」と、今の時代の「拘る」ことについて発言している。

著書には、
・「生」に拘ることも「死」に拘ることも生きているからで、生きているものだけが、死を予感し、死を恐れ、あるときは死を選ぶ。死者は、なにも予感せず、なにも恐れず、そして選ぶこともしない。
・死に拘れるのは、生きているうちである。だから、死とは、死に拘ることをやめたときに訪れる。それは、死を受け入れる、という意味でもある。
・生と死は、表裏一体でどちらかで存在する概念でない。
など、「死」についての「こだわり」の視点から著者の考えを述べている。

私(住職)は、「こだわり」の視点から「死」を考えることは無かったので著書を興味深く拝読した。「死」に限ったことではないが、どれだけ自分の中の「こだわり」を捨てようとしても、自分の考えはどうしてもある「こだわり」からは逃れることができないのが凡夫だと思う。