新年の準備

毎年最後のお勤めは大晦日の午後5時に歳末会としてお勤めしています。1年間の仏恩を報謝します。
今年も大晦日になりましたが、一週間ほど前から新年の準備をします。
お堂の西余間に妙華寺の初代住職の像を中心に歴代住職の位牌を敬置します。また7代住職から11代住職の絵像の掛軸がありますのでお掛けします。
ご本尊前にお同行様からのお供えを披露します。
新しい年の年回繰出表を用意します。
続いて、修正会(しゅしょうえ)の準備ですが、普段あまりお勤めをしない「現世利益和讃」を15首拝読しますのでその用意をいたしました。お屠蘇の用意も年1度のことです。今回は空調設備を新設しましたのでこれまでより温かいと思いますが午前5時30分からの修正会のお勤めは、寒い中お越し頂くことになりますので温かくしてお越し下さい。

※高田本山のお七夜のお非時券を修正会の終了後配布いたします。
枚数に限りがありますので必要な方はお申し出ください。

平成29年 年回表

平成29年 年回表
01周忌 平成28年往生人
03回忌 平成27年往生人
07回忌 平成23年往生人
13回忌 平成17年往生人
17回忌 平成13年往生人
23回忌 平成07年往生人
27回忌 平成03年往生人
33回忌 昭和60年往生人
50回忌 昭和43年往生人
100回忌 大正07年往生人
150回忌 明治元年往生人
200回忌 文政元年往生人
250回忌 明和05年往生人
300回忌 享保03年往生人
※詳細は、本堂の年回繰出表をご覧下さい
 年回(年忌)法要
年回(年忌)法要をどうして勤めるの? 私(住職)も若かった頃はそのようなことを疑問に思っていました。ずいぶん前の『高田学報』に高田派の鑑学の先生の書かれた中で、「大切な方の忌日を勤めるのは、私自身(己の心)の中にある仏道に修しているという思いを改めて省みる日である」とおっしゃられた言葉が私(住職)の中で肯くことができました。以前より時間が早く経つのか、するべき事が多すぎるのか少し前の大切な出来事も記憶の端っこに押しやられて忘れがちになるようなこともあります。歳を重ねていく中で、ご往生されました大切な方のことを思う日々が少なくなるのも現実です。それでも改めて大切な方と向き合う時間を年回(年忌)法要を通して持つことの意味を以前より感じています。
命日
大切な方がご往生された日を「命日」と言います。また「忌日」とも言います。ご往生された月の命日を祥月命日と言い、他の月々の命日を月命日、月忌とも言うそうです。
私たちは生まれた日を誕生日と言いお祝いをしますが、ずいぶん前に「誕生」とは「うそがうまれる」という意味もあることを聞きました。私たちがこの世に生まれ、生きていく上で嘘もつかなければ生きていくことができない存在であることを私に教えていただいています。では、「命日」は「いのちの日」と言うことはどのような意味があるのか考えています。中国では亡くなられた時にその人の評価が定まると考えられていると聞きました。日本でもそのように考える場合もありますし、死後に災いが起こらないように祀(まつ)ることもありました。
年回(年忌)
  年回(年忌)と言うと故人の祥月命日を縁として行う法要で、ご往生されて1年後を1周忌、その次の年を3回忌(ご往生された年から数えて)その後7回忌、13回忌、17回忌、23回忌、27回忌、33回忌、50回忌とお勤めをします。以降は50年毎に行われます。真宗では、ご往生された方を縁として仏法に出遭い、阿弥陀如来の恩徳に報謝する場でもあります。
そして考えて見ると、大切な方の33回忌に遇えることは、大切な方がご往生さられてから32年後のことであります。それも数えてみると8度目の年忌であります。その間のご遺族の皆様のご苦労に大変頭が下がりますが、今の時代は親御様の遠い年忌に遇うことができにくい時代です。その仏縁に遇う慶びは大きいものと思います。
忌日
以前、「忌日」について、忌まわしいと言う字が含まれていますがと尋ねられました。
私の大切な方が亡くなられた時、亡くなられたことをすぐには受け入れがたい心があります。亡くなられてからも生きているように感じる心もあります。しかし、私から離れた方の死について、不浄なものと考えてしまう気持ちも出てくる場合があります。高田派の鑑学の先生が、「大切な方の忌日を勤めるのは、私自身(己の心)の中にある仏道に修しているという思いを改めて省みる日である」と述べられたことを思い出します。
 真宗では親鸞聖人のご命日を縁としてお勤めする報恩講があります。高田本山では毎年1月9日から16日までお勤めいたします。各寺院も毎年一番大切な行事としてお勤めしています。(妙華寺では今年から12月の第1日曜日です)
私の大切な方のご命日も、私が仏法に出遭い、阿弥陀如来の恩徳に報謝する大切なご縁であったことに間違いないことです。
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2017(平成29年)のアーカイブ

2017(平成29年)のアーカイブ

① 本堂の空調設備の新設と境内墓地通路整備
本堂の空調設備は、1月29日のお世話方会の時に、室内設備と室外機の設置が完了しました。2月20日に中部電力の電線に接続し、保安協会の方にも確認していただき使用できるようになりました。7月8月のお盆の時期に初めて使用しました。例年より涼しくお勤めをすることができました。また11月中旬から灯油ストーブと併用して使用しています。
境内墓地の通路整備は、今年1月25日から墓地の奥にあたる北西側から通路ごとに順次舗装板(排水使用)を整備していました。工区を4つに分けて、11月11日に最後の4区画の通路全て整備できました。12月に入り新しく墓地通路の位置を示す札を作成しました。

およそ1年間境内墓地の通路整備の工事の期間中は、大変ご迷惑をおかけしました。これまで砂利道でご不便をお掛けしていましたが、これからは、押し車や杖をお使いいただいていますお同行様にも少し歩きやすくなると思います。
お同行の皆様にはご協力いただきありがとうございました。

② 自死のついての学びの場【僧侶・寺族対象の行事】の開催
僧侶としてまた、お寺の寺族としてお同行の皆様とお会いする時に、自死でお亡くなりなった場面に出合うことがあります。そのような場合、私(住職)はどのように寄り添うべきか悩んだり、戸惑ったりしたことがあります。
自死についての学びの場も、私(住職)のアンテナの感度が悪いのか中々見つけることもできずにいました。今回、京都自死・自殺相談センター様に出前研修という事業があることを知り、妙華寺にて研修をお願いしました。

自死のついての学びの場【僧侶・寺族対象の行事】の報告
2月10日、雪が心配でしたが、高田派・曹洞宗・天台真盛宗のお寺の僧侶・寺族の方13名と行政機関の方5名の方々にお集まりいただきSottoの出前研修を開催させていただきました。
講師は、京都自死・自殺相談センター様から金子様・小坂様にお越しいただき、「自死の苦悩を抱えた方に何ができるのか」をテーマとして、Sottoの活動から「死にたい気持ち」を相談することはとっても勇気のいることで、その時に相談者の心をシャットアウトしてしまうと関係性が閉じてしまうこと。相談者の「死にたい気持ち」の原因を取り除くことができても、その方に安心できる関係性を持っている方がいなかったら本当の問題解決にはならないこと。相談者の「死にたい気持ち」に私が本当に向き合っているのか、相談者の苦悩を(相談者と同じ苦悩経験していなくても)想像することの大切さや相談者と私の関係性の大切さを話され、改めて気づくことができました。
ワークショップでは、二人一組で愚痴を聴くことを体験し、モデルケースで相談者と面談者の会話を観察者の立場で聴くことを学びました。質問もあり終了時間が延びて受講されました皆様にご迷惑をおかけしました。
行政機関から参加されました、三重県こころの健康センター様から、三重県にも自殺予防・自死遺族電話相談を毎週月曜日、自死遺族の集い(わかち合いの会)の場も奇数月に一度あることも案内されました。
改めて、自死の苦悩を抱えた方に何ができるか考えることになりました。
※中川個人の感想です。

※その後、三重県こころの健康センター様主催の研修の案内をいただくことになり、参加させていただく機会ができました。

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③ 高田本山の清掃奉仕
前回から3年ぶりの本山清掃を10月10日に、住職、坊守含めて15名で奉仕させていただきました。10月に入り過ごしやすい気候になりましたが、妙華寺の本山清掃の10日は夏日になり暑い日になりました。
朝、9時に高田本山の内仏殿と呼ばれていますお対面所で宗務院の職員の皆様と共にお勤めをして、今回は、高田本山の裏側(北側)に位置する緑の苔に覆われた安楽庵の庭(三重県の史跡雲幽園)の清掃奉仕でした。休憩を挟んで落ち葉の掃き掃除をしました。清掃奉仕の後、「賜晴館」(ししゅんかん)と呼ばれる明治天皇の行在所を拝見する時間をいただきました。現在「賜春館」は、高田派僧侶の得度式、住職拝命式の時、御法主殿から辞令をいただく場です。
その後、高田会館でお昼をいただき、お寺に帰りました。
今回の本山清掃のご奉仕に参加されました皆様、ありがとうございました。

※これまでは、お世話方様、婦人会幹部の皆様だけにお願いしていましたが、ご高齢の問題もあり今回は、有志の方にお声がけしました。今後もお寺の行事にご参加いただける中でご奉仕をお願いすることもあると思いますが、ご協力をよろしくお願い申し上げます。

④ 境内西側の福祉車両用駐車場の新設
境内西側にお住まいされていました方がお亡くなりになり、9月に家屋を撤去いたしました。これまでの駐車場のスペースの西側になりますが、福祉車両用の駐車場として整備しました。ご使用頂く場合お寺にお声かけください。また井戸は、非常時の水確保として既存の井戸を活用しましたが、水質検査をしていませんので「飲料用」ではありません。

 

※番外① 高田本山専修寺 御影堂と如来堂の国宝指定
三重県内の建造物では初めてとなる国宝指定です
10月20日、国の文化審議会は、日本の代表的な近世寺院建築とされる高田本山専修寺の御影堂(みえいどう)と如来堂(にょらいどう)を国宝にするよう答申されました。
11月28日に三重県内の建造物で初めて国宝に指定されました。
専修寺を本山としています私たち真宗高田派に属する僧侶並びにお同行様、三重県民、津市市民において、とてもうれしい知らせでした。
これまで高田本山専修寺は、身近で親しくお詣りしていましたが、御影堂が重要文化財の建造物で国内で五指に入る大きさということも、平成の大修理の時に初めて知ったことでした。
また、専修寺所蔵の親鸞聖人直筆の『三帖和讃』『西方指南抄』など3点は、昭和28年に国宝に指定されて大切に保管されています。
これから益々多くの方々が専修寺の国宝に指定されました御影堂や如来堂にお詣りされますが、親鸞聖人のみ教えにもっと触れていただきたいと思います。

来年(2018)のお七夜の1月9日(火)13時40分から14時20分に御影堂にて、国宝指定記念特別講演として「高田本山専修寺の伽藍の特色と価値」と題して、三重大学大学院工学研究科教授の菅原洋一先生のご講演があります。

 

第4回の「お寺で体験」は親鸞聖人絵伝の絵解きでした

第4回目の「お寺で体験」は、報恩講の時に余間に荘厳されます4幅の親鸞聖人絵伝の絵解きを、潮音寺のご住職村上英俊師にお願いしました。

私(住職)も絵解きについてこれまでお寺の行事であったことは聞いていましたが実際に拝聴するのは今回が初めてです。本堂の余間を会場にして絵解きに耳を傾けました。絵伝は、「伝絵(でんね)」と言われる絵と詞書(ことばがき)が交互に描かれる(絵)巻物から、より多くの方に見ていただけるように「絵」の部分を掛軸にして、「絵」の内容を説明するは絵解きと呼ばれる僧が詞書(ことばがき)を語って多くの方を教化することから生まれたと思います。絵伝を詳細に見ながら、親鸞聖人のご生涯に描かれている絵に注意して聴聞すると、これまで気にしてなかったことが描かれていたり、知っているようで知らないことを改めて教えていただきます。途中休憩を挟み90分の絵解きはあっという間の時間でした。

第6回目の2月25日の「お寺で体験」では、仏涅槃図の絵解きを潮音寺のご住職村上英俊師にお願いしています。

次回、第5回の1月28日の「お寺で体験」は、お茶(茶室の楽しみ)をテーマに、炉の茶室で、高田派の歴代の書や茶道具を通してお話する予定です。正座が苦手な方には椅子もご用意をする予定です。

どなたでもご参加いただけますが、準備の都合上、事前申込をお願いします。

 

Sottoのシンポジウム

「”みんなちがって、みんないい。”って思ってくれない社会ってイヤだ! ”らしさ”による死にたいほどのつらさについてみんなでいろいろ考えるシンポジウム」タイトルが55字のシンポジウムに参加しました。確か、 昨年のシシンポジウムの講題は「死にたいにまつわる言いたいようで言えないそんな気持ちのもっていきどころについてみんなでいろいろ考えるシンポジウム」タイトルが56字あるシンポジウムでした。「死にたい」気持ちについて丁寧に向き合うとどうしてもタイトルが長くなってしまうのでしょう。

今回は、作家の雨宮処凜氏、批評家の杉田俊介氏、主催者のSottoの代表の竹本了悟師が「~らしさ」について発言されました。毎日新聞編集委員の玉木達也氏がシンポジウムを進行されました。
詳細は、Sottoのフェイスブックでシンポジウムの中で更新されていましたのでそちらをご参考されることにして、
今回は、「らしさ」から自分を振り返って他者がどのように見えるか考えさせられました。女性・男性の視点からの発言から始まり、男性から見る女性らしさと女性から見る女性らしさ、女性から見る男性らしさと、男性から見る男性らしさは当然ではありますが違いますし個人により違います。しかしそれを何かのはずみで忘れている自分もいます。他者と一般論として話すとき私の思う「らしさ」と他者が思う「らしさ」には重なる部分と重ならない部分があるのに一緒にしている場合に違和感を感じたりするのか分かりません。そこには言葉の1つ1つが大切な事を感じました。「弱音」と「本音」と「本心」重なる部分もありそうで重ならない部分を他者にどこまで見ることができるのか。

「らしさ」は、居心地が良いと感じる時と、居心地が悪いと感じる自分もいます。他者を見ることも自分の中にある「らしさ」を重ねて見ます。また「自分らしさ」って分かっているようで分かってない「らしさ」もあります。「自分らしさ」に捜しながら、「これが私なのだ」と思い込みたいこともあります。

生きづらさ死にたい気持ちに向き合うことは誰にでもあることですが、その時に一人で抱え込まず他者とそのことを共有できる場所や関係性を確保できれば生きづらさや死にたい気持ちを持ちながらでもその日を過ごしていけるように感じました。

Sottoのシンポジウムは二度目ですが参加している私達からの質問にも時間をかけて話をしていただけるのはうれしい気持ちになります。ツイッターのつぶやきや質問も登壇者の後ろのスクリーンに映し出されているのは今の若者には当たり前でも地方在住の私にとっては驚きです。

※中川個人の感想です。

修正会(しゅしょうえ) 午前5時30分からお勤めします

修正会(しゅしょうえ)
お正月に修する法会で修正会と言います。
年のはじめに心を新たにして佛前に座し合掌礼拝し、お念仏を申し上げます。
法苑院妙華寺では、元旦午前5時30分からお勤めをしています。

本堂でのお勤めが終わり、お墓詣りになる頃、夜が明けだします。
寒さ厳しく早朝からのお寺へのお詣りは大変ですが、年に1度の元旦の行事を体験しませんか。

高田本山のお七夜の時の「お非時」券も配布いたします。(枚数に限りがあります)

ご高齢の方が、以前は家族で、氏神さんの野辺野神社に初詣でをして、菩提寺の修正会にお詣りをして、お墓にお詣りし、家に帰り家族で新年の挨拶をされたとお聞かせくださいました。

お勤めは、『鎮国文』・『重誓偈』・『正信偈』・『現世利益和讃』・『念佛』・『廻向文』で
『繙御書』を拝読いたします。

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和讃

和讃をご紹介いたします。和讃について多くの参考書がありますが、『正像末法和讃講話』川瀬和敬著より紹介します。

無慚無愧のこの身にて まことのこころはなけれども
弥陀の回向の御名なれば 功徳は十方にみちたもう

『正像末法和讃』「愚禿悲歎述懐」第4首
「無慚無愧」、これは聖人の大事なお言葉です。慚愧(ざんぎ)と懺悔(さんげ)、初めにこの2つのちがいをみておきたいと思います。懺悔は人に向かうのではなくて仏に向かう。仏前にわが犯した罪を懺悔してたてまつるのです。慚愧の方は内心に向かう。慚愧について詳しいのは『涅槃経』です。一番簡単なのは、人間と畜生を区別する言葉です。「慚愧なきを畜生と名づく」というのです。阿闍世王が親殺しの大罪を犯して後に、慚愧の心がでてくる。こういうところが非常に大事なところです。あの老婆が阿闍世のこころの動きをよくとらえて、あなたは今まで自分の罪を認めまいとしてきた。ところがあなたは今や、慚愧の心がおこってきた、それが大きな転換点になります、貴重なことです。こういって阿闍世を大きく抱き込んでいく。そういうところにでてきます。
それから「懺悔」につきまして、これは「高僧和讃」の善導のところにでております。「三品の懺悔するひとと、ひとしと宗師はのたまへり」。「三品」というのは上・中・下の三品という、人間の種類です。ぞれ三様の懺悔の内容を異にするが、ご信心をいただいた人は、懺悔のことをわざわざいわなくても具わっているのだと、こういう言い方です。それで善導のところで善導の「懺悔」という言葉をお使いになりましたが、それ以外に聖人は「懺悔」という言葉をとりたてて申されません。この「懺悔」というのは、我の混らないもの、「後悔」というのは、これは我執の仕事です。「懺悔」とは「我の砕けたすがた」です。それで聖人は懺悔ということはわれらにできない、と見抜いていられたようです。だから懺悔するとも懺悔せよとも言われない。だから「懺悔せよといわれても懺悔できない私だ」という言外のおこころをくめば、深い懺悔をそこに感じます。

聖人は普通の宗教家のいわれる「懺悔」ということを、殆ど口にしておいでにならないということです。そうでありながら「慚愧」については、自分を「無慚無愧」の身だと語っておられる。慚じねばならぬことを愧じずにおるような身だというのです。善人の姿をながめて私は悪人だと慚じ、賢い人の姿をながめて、何と私は愚かであろうと自らを愧じると、こういう言葉です。いろいろな意味がありますけれども、「慚」というのは、自分と教えに対して恥ずかしいと愧じることです。
『涅槃経』には「慚愧あるが故に、父母・兄弟・姉妹であることを説く」。もし慚愧ということがなかったら、父母というようなことも言い得ないということです。人間の一番大事な関係をして関係たらしめるものは慚愧であると、こういう言葉です。

しかもこの言葉を受けて無慚無愧のこの身のうえに「弥陀の回向の御名なれば」弥陀のご回向、南無阿弥陀仏を回向して下さったればこそ、「功徳は十方にみちたまふ」、この蛇蝎奸詐、無慚無愧の私を貫いて、骨髄に徹(とお)って、その光が十方に満ち溢れて下さる。この弥陀の回向の御名というものの光をこうむらないものは一人もないのであるからして、悲喜こもごもに至るのであります。

以上【正像末法和讃講話 川瀬和敬著より】

差別

「差別」
お同行様と、家族の介護の話から、私の中に潜む「心の中にある差別」について考える機会を与えていただきました。私が生活する地域のコミュニティの中で、とっても曖昧な普通であることから、はみ出した部分が、他者と違う「個性的」と呼ばれる場合と「差別」される場合の線引きはどこにあるのだろうか。一人一人の違いを認める多様な社会と差別する社会について短時間の中で深く話すことはできませんでした。生活の中で「差別」する側とされる側が混在し、自らも「差別」される側になり、する側になる現実に向き合いますと、きれい事ですまされることでなく自分の持っている「差別」の心をどのように捉えていくか考えざる得ません。
社会の中にある多くの「差別」について無くしていくことを目標に活動することは当然ですが、私の中にある「差別」の心は、無くすことができるのかと言うと、自分の中にある感情や感覚に関わる「差別」心はどうすることもできないものとして捉えてしまいます。
自分の中にある「差別」心を含む「悪性」にどうすることもできないと知らされるのは、阿弥陀様の目当てがこの私であったことを、親鸞聖人の「み教え」によって気づかされるからであります。この時は、愚禿悲歎述懐和讃がとても響きました。
私(住職)は、今の社会は以前より寛容ではなくなってきているように感じます。お寺のコミュニティはどのような方もそのままで安心して居られる場所として存在してきました。そしてこれからもそれが絵空事にならないよう努力していかなければならないと感じています。

『差別感情の哲学』中島 義道著 講談社
以前に読んだ本ですが、差別について考える時に改めて本を開きます。私が生まれてきて成長する社会の中で得てしまう「差別」心と私の中にある感情や感覚の「差別」心。
社会の中で差別が無くなることは大切であるが、差別を批判する時に自分自身の中にある差別する心に目を向けているかというと曖昧である。この本を読んで自分の中にある差別感情がどうすることも出来ないものとして捉えるように思った。また、本の中で使われた「差別のまなざし」と言う言葉が私の中でとても印象に残っている。

ひとくち法話

―お釈迦様のご生涯―

01 花まつり(はなまつり)
釈尊(しゃくそん)は今からおよそ2500年前、北インド(現在はネパール)にお生まれになりました。
釈尊の教えは、どれほど世の中が変わっても、人間というものの本質には変化がないということを示され、今もなお、人々の心に深い感動を与え、生きていくための指針となっています。
伝説では、釈尊がお生まれになる前のある夜、母の摩耶夫人(まやぶにん)は、不思議な夢をご覧になります。「真っ白い大きな象が天から降りてきて、夫人のお腹に入った。」と伝えられています。
夫人と父の浄飯王(じょうぼんのう)は、さっそく、この夢の意味を学者に尋ねました。学者は「これはおめでたい。やがてすばらしい男の赤ちゃんがお生まれになるにちがいありません。」と言いました。
それから1年ちかくたちました。夫人は、おともをつれてカピラ城の東方のルンビニー園に行かれました。夫人は池で沐浴し、枝もたわわに咲き匂う無憂樹(むゆうじゅ)という木の下に立たれた時、男の赤ちゃんが誕生されました。その時、天から「甘露(かんろ)(甘い水滴)」の雨が降り注ぎました。不思議なことに、赤ちゃんは7歩(迷いの世界を超えることを表す)歩き、右の手で天を左の手で地を指して、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)(1人ひとりの命の尊厳)」と言われました。この赤ちゃんが成長されてお釈迦様になられたのです。
これは4月8日のこととされていて、この日を記念して「花まつり」のお祝いをするようになりました。

※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

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『お寺で体験』の4回目は、12月24日(日)午前10時から11時30分の予定です。

4月から開催しています『お寺で体験』の4回目は、12月24日(日)午前10時から11時30分の予定です。
会費1,000円(当日徴収します) 準備の都合上、事前申込をお願いします。
今回の会場は、本堂の西余間です。
毎年報恩講の時に本堂西余間に掲げる4幅の親鸞聖人絵伝を拝見しながら「親鸞聖人絵伝の絵解き」を潮音寺住職 村上英俊師にお願いしています。「絵解き」を実際体験する機会は少なく私(住職)も楽しみにしています。

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