稽古

稽古とは、「古(いにしえ)をかんがえること」から転じて、学問・学習・練習の意味となり、特に、武芸・芸能に使われたそうです。私(住職)は、30歳の頃、お寺の行事などで薄茶をいただく機会に作法に興味を持ち、公民館の講座から稽古を始めました。茶道では、日々是稽古に明け暮れることが大切でありますが、僧侶としては、思うように時間がとれません。
それでも、師匠や仲間に恵まれ35年以上ほそぼそと稽古を続けています。
稽古を続けていると、後輩に対しては教える立場でもあり、師匠(先輩)に対しては教えを受ける立場でもあります。学び続けることが「稽古」であるのかもわかりません。同じ点前を何度稽古しても、気づく事がいくつもあったり、わかってたつもりがそうでなく、いつのまにか自己流になっているのを気づいたり、本当に奥深いものです。
続けることができることに感謝をしなければいけませんが、生きている限り、学び続ける気持ちは持ち続けたいものです。

『三重組13日講』~戦国時代から続く伝統の「講」~

『三重組13日講』~戦国時代から続く伝統の「講」~
浄土真宗本願寺派 東海教区三重組の親戚寺院からお贈りいただきました。

真宗の「講」は、「人を集めて経典等を講釈すること。またその仏事」「信者が集まって法義を話し合い祖師を讃歎する会合やそれを行う組織」講の源流は、親鸞の時代に「22日の御念仏」として法然の月忌に「法会」が営まれたことに始まる。【浄土真宗辞典】

日本仏教が今日まで伝わっていることは、その時代、その時代で伝える努力をされた方々があってはじめて成り立っているものだと感じました。そして、伝える努力を怠ったときにはあっけなく崩れ去っていくもののようにも感じます。

親鸞聖人の著作物などを、現代訳で拝読している私(住職)には、今で言う古文書を読むことは大変難しく、妙華寺に残されている古文書も判読する力がないのが情けないです。

妙華寺の組(そ)では、「講」が存在しないので、話に聞くだけで、実際の活動には思いがいたらなかった「講」の活動が、その地域の土徳になるのではないかと感じられます。
『三重組13日講』は、講に残されている古文書を読むことができる方のお陰で、出来上がった冊子で、貴重な学びになりそうです。

「『なもあみだぶつ』を聞く」ということ

「『なもあみだぶつ』を聞く」ということ 栗原 廣海 著
高田本山の令和5年の開山親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年他の奉讃法会のテーマである「弥陀のよび声『なもあみだぶつ』を聞いていこう」と題して、高田本山だよりに3年間連載されていました12回のコラムをまとめた冊子です。著者は、高田派鑑学の栗原廣海師です。親鸞聖人の「み教え」を高田派の教学として丁寧に紹介されています。

ご承知の通り高田派は、親鸞聖人の直弟が伝えてきた宗派で、親鸞聖人が弟子に与えた直筆本や消息(手紙)の多くの法宝物を大切に歴代上人が伝えています。長い歴史の中で、宗祖(親鸞聖人)の「み教え」が、そのまま伝わることが難しいこともありますが、宗祖の「み教え」に帰って伝えていくことが大切なことと思います。
この冊子では、高田派に伝わる「み教え」を今を生きる私たちによりわかりやすく、より深く紹介していただいていると感じます。
あらためて、親鸞聖人の「み教え」を学ぶテキストだと思います。

※中川個人の感想です

真慧展

真慧展
昨年5月に新しくなった宝物館「燈炬殿」で真慧展が開催されています。
真慧上人の著書『顕正流義鈔』の現代語訳版の出版記念も兼ねています。
高田派では真慧上人を中興上人と尊んでいます。親鸞聖人御誕生850年の奉讃法会で併せて真慧上人500回遠忌も厳修していました。昨年三重県の総合博物館で開催された「親鸞 専修寺の至宝」展でも真慧上人に関する法宝物の展覧がありましたが、今展覧会で初めて披露される宝物もあり、更に学ぶことができました。5月6日まで開催されていますので、ご興味のある方は是非宝物館へ足をお運びください。

真慧上人に関しては、妙華寺の平成26年の研修旅行で滋賀県坂本の西教寺にある真慧上人のお墓に行きました。

【高田派第10世】真慧(しんね)上人 永正9年(1512)10月22日示寂

下野国(現栃木県)の高田門徒の中心である専修寺には、親鸞聖人在世中から三河国に高田門弟の道場(寺院)があったが、更に西の近畿地区に教線を伸ばしたのは真慧上人であった。真慧上人は、北陸および近江国(滋賀県)・伊勢国(三重県)を教化し京都へも進出を図ろうとしている。また、公家社会への接近も顕著である。

『正統伝後集』(五天良空著)によると真慧上人は26歳に下野国高田を出て加賀・越前を経て近江国坂本十津浜妙林院(みょうりんいん)に逗留したという。他の史料からも確認されるので信頼できると思われる。坂本は琵琶湖の要所で比叡山延暦寺の荘園の年貢はここから陸揚げされたので比叡山の外港として、比叡山の里坊の門前町となっている。この地に真慧上人は逗留されたのは、比叡山との接触をはかる為と考えられる。また当時本願寺の蓮如上人も琵琶湖沿岸に教線を延ばしていたため接触をはかったと思われる。

伊勢国には寛政元年(1460)頃に入られ教化されたようだ。近江から伊勢への移動には、蓮如上人との軋轢が生じたのも一因であろう。寛政六年(1465)の比叡山僧徒の大谷本願寺破却事件で、真慧上人は専修寺と本願寺の混同は困るとして比叡山に登山し熱弁をふるい比叡山僧も認めたと伝えられている。その褒賞が専修寺の如来堂の阿弥陀如来像(証拠の如来)とある。

「顕正流義鈔」・「永正規則」・「中陰次第」を撰述、「野袈裟」の創始するなど、高田門徒の諸制度を整備確立し、高田派の中興として崇められている。
「顕正流義鈔」は、真慧39歳の時に書かれた。内容は、顕正と破邪の二部から成り立ち、顕正の部分では、伝統に基づく称名念仏の真実性が述べられ、破邪の部分では、高田門徒に向けられた邪義①念仏して助かろうと思うのは自力である②念仏して助かろうと思うのは第19願の心で諸行往生である③絵像・木像は方便で有り利益はないと言う三箇条の非難と相丞論に対して反論している。本書が執筆された文明4年は、本願寺8代蓮如が越前吉崎で独自の教化活動を展開し勢力を拡大している時期で、また真宗各派の対立が顕著になる時期でもあった。このような背景の中、高田の伝統流儀を高揚したのが本書である。
「永正規則」は永正元年(1504)真慧71歳の時に発出した御書で、真慧の教化態度が端的に示されている。右筆門弟に筆記させ、末尾に真慧が花押を書き加える。北陸での教線拡張にあたり本願寺との緊張関係が高まる時期に門弟にあてた四箇条からなる条文で門弟の心構えを誡め、本寺崇敬の心を忘れず、阿弥陀如来の本願を信じ、念仏を称えよと説き、そのプロセスを「一本寺、二善知識、三信心、四念仏、是肝要也」と結んでいる。

真宗入門講座

真宗入門講座
高田本山は、穏やかで桜がきれいな日でした。
昨年から始まった高田本山に伝わる「親鸞伝絵」の各段の紹介が続いています。
今回は、「師資遷謫(ししせんちゃく)」の段です。
法然門下に法難がふりかかりました。私(住職)が高校時代の教科書で鎌倉時代に新仏教の1つとして専修念仏集団が取り上げられますが、これまでの顕密仏教が中心の時代であったと今では認識されています。顕密仏教側から法然の教えへの異議が朝廷に提出され、死罪の者も出ましたが、法然聖人をはじめ、親鸞聖人も流罪になりました。その時の話です。
親鸞聖人が流罪になった理由は定かではありませんが、越後の国府にいかれたことは事実です。また、この法難について『教行証文類』の後序で、親鸞聖人の思いが述べられています。非僧非俗で「愚禿(ぐとく)」と名乗られたのもこの頃から時です。

今年の真宗入門講座4回が終了しました。次回は来年の1月からとなりますので、心待ちにしています。

お寺とは④

お寺とは④ 伝えることの難しさ
3月23日の中日新聞カルチャー紙面で、鷲田清一氏の「時のおもり」を拝読しました。時あたかも、年度末の送別の行事のことから、鷲田氏が経験した大学での告辞の思い出から、多くの卒業生に、言葉を届ける難しさを語られている。「(前略)・・・言葉が届かないもっと根本的な理由はほかにある。聴く人は、そもそも同じ思いでそこに臨んでいるわけではない。そういう人たちに一律に同じ言葉を届けるというのはどだい無理な話だし、また正しいことではない・・・(後略)」その後、「ふーん」という感覚を残せるかどうかにある。と話が進む。
このコラムを読んで、私(住職)は、お寺で仏教や親鸞聖人の教えを伝える難しさとも同じようだと感じてしまいました。私(住職)は鷲田氏のような研究家でもないし、専門的な教育を受けたわけでもないので私自身がもっと学ばなければいけない立場ですが、生活者が求めている仏教や親鸞聖人の教えもさまざまな考え方であるし、仏教の教えとは離れていることをお寺や僧侶(宗教者)に求められる場合もあります。

また、生活者に仏教や親鸞聖人の教えが必要なのかと言えば、はっきり必要と断言できるものでない気がします。必要とする人に伝えていくことが普通ではないか。届かないなら、届かないでも良いのかもしれない。私(住職)にも、仏教や親鸞聖人の教えが届いていたことに気づけるときが来たように、今必要でない人にも必要と思える時に届けられるようにも思うこの頃です。

4月のお茶

4月は、桜や花祭りのテーマや新年度ですので旅立ちや出会いのテーマの茶会をよく聞きます。
そして、暖かい日も続き、半年続いた、炉の最後の月です。五徳がない炉で、暖かさを感じさせない工夫として、透木釜が使われます。また、炉の名残りの月です。
炉の時期の花は、椿が主になります。11月から4月までの間に咲く椿を数種類用意するのは大変です。年によって花が咲く時期も微妙に違い、開炉の頃や名残の頃の椿には苦労します。

お寺では、花祭りの行事があります。誕生仏に甘茶を濯ぎお祝いをします。
待合に誕生仏を荘るのも喜ばれます。

※透木は、風炉でも使われます。

お寺の4月

お寺の4月
4月8日はお釈迦様の誕生日で「花祭り」「メリー釈迦」などと称して誕生仏に甘茶をおかけしてお祝いします。最近は、桜の開花が早まり、散り始めの時もありますが、今年はその頃が満開のような気もします。妙華寺では、隣寺と協賛して7日8日に本堂の前に誕生仏をお出ししています。スタンプラリーとして隣寺の花祭りも参加されました方に記念品を差し上げています。 ※今年は隣寺は6日7日に開催されるそうです。
月末の29日は春の千部会の行事があります。以前は、28日に戦没者の碑前でお勤めもしていましたが、戦後50年でお勤めを終えました。今は、毎月16日に他の碑前のお勤めと一緒に戦没者の碑前でもお勤めをさせていただいています。

宗教法人の新年度ですので、昨年度の会計決算などを総代会や世話方会で報告しますので、なんとなく忙しく日々が過ぎていきます。

「むなしさ」の味わい方

「むなしさ」の味わい方
還暦を過ぎてから、集中して本を読むことが難しくなりました。
1冊を何ヶ月もかけて読んでいますと、読んだはずの部分があやふやになったりして、最初のページに戻って読んだりしています。『「むなしさ」の味わい方』の本もそうでした。著者は、きたやま おさむ氏で、精神科医でありますが、作詞家としても有名です。私(住職)が小学校から中学に入学する頃だったと思いますが、フォーク・クルセダーズの一員で、作詞を担当して他のミュージシャンへも提供されていました。
本の題名にひかれたのは、私(住職)自身が「むなしい」想いを感じているからなんだと想います。私の心の内にある、「間(ま)」というか、無意識の世界にもつながる「むなしさ」に振り回されることもありますが、「むなしさ」は、決して無くなるものではないこと。それであるならば、味わっていこうとすることが大切ではと問いかけています。
本の帯に「失くしたものが見つからなかったとしても、築いたものが壊れたとしても、人から裏切られたとしても、そこに「むなしさ」を感じている、かけがえのない「私」が見つかることだけは、確かな事実なのです」とあります。
生活する中で幾度となく感じる「むなしさ」に、あらがったり、絶望を感じたりしながら生きている。その中で、「味わう」ことができる心(感性)を模索していることが生きていることなんでしょうか。まだまだ考えながら生きていくのだと思います。
※中川個人の感想です。

真宗入門講座

真宗入門講座
強風と豪雨の中での開催でした。
昨年から始まった高田本山に伝わる「親鸞伝絵」の各段の紹介が続いています。
今回は、「信心諍論」の段でした。前回と同じように、法然門下での議論が描かれています。この段は、他力の「信心」についての議論で、法然聖人の「信心」と弟子の親鸞の「信心」が同じであるか無いかと言う、真宗において一番大切な議論と思います。
私たちは、師匠と弟子とか、智慧があるものとそうでないものなど区別して判断をしてしまいがちですが、「他力の信心」は、阿弥陀さまから賜った「信心」ですので、誰とも区別なく同じであるのですが、明言できるでしょうか。真宗門徒の手前味噌になってしまいますが、親鸞聖人が本当に法然聖人の教えをいただいていたことの証になる段です。
「自力の信心」は「他力の信心」までも疑ってしまうとの講師の言葉が胸に残りました。
お同行の方も講座に参加されていました。
今回の講師は、妙華寺の副住職でしたが、諸事情で中村研究員になりました。
※中川個人の感想です。