1月25日から始まりました。
本堂の空調設備は、1月29日のお世話方会の時には、室内設備と室外機の設置が完了していました。2月20日に中部電力の電線に接続し、保安協会の方にも確認していただき使用できるようになりました。
また、皆様のお墓の前の通路に花入れなどがございましたら申し訳ございませんが片付けさせていただくことになります。
法脈(ほうみゃく)
わが高田派を「法脈」の教団といっています。法脈とは、真宗の教え(法)を「一器の水を一器に移す」ように、正しく継承していくことを第一義とする教団という意味です。
親鸞聖人は栃木県高田に念仏道場(一光三尊仏のお寺)を建立され、ここを拠点にして布教に専念されました。京都に帰られてからは直弟子の真仏上人(しんぶつしょうにん)(第2世)、顕智上人(けんちしょうにん 第3世)が高田教団を相承されました。そして、本山を一身田に移された真慧上人(しんねしょうにん)(第10世)は御書の中で、「肝要は、阿弥陀如来の願力不思議を聞きえて、名号(みょうごう)を唱うべきなり。これ相承直説(しょうじょうじきせつ)なり」と他力信心のこの一点を押さえてご教示なさいました。
この真慧上人については、「証拠の如来」のお話(第42話参照)があります。訳あって正しい真宗の教えを比叡山で講義されたとき、上人を『親鸞聖人の再来ではないか』と全山の僧侶が讃歎されたといいます。
また、堯朝上人(ぎょうちょうしょうにん)(第15世)が幕府の命令に抗して宝法物を死守された事件も、法脈の伝統を天下に示された尊い歴史でもあります。
このような歴代上人の法脈教団としてのお導きは、現在のご法主(第24世)にも受け継がれ、「ひろめよう 念仏のこえ」「深めよう 恭敬(くぎょう)のこころ」と戴くばかりです。
弥陀の本願信ずベし 本願信ずる人はみな
摂取不捨(せっしゅふしゃ)の利益(りやく)にて 無上覚(むじょうかく)をばさとるなり 『正像末和讃 夢告讃』より
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より
※現在は、第25世ご法主です。
和讃をご紹介いたします。和讃について多くの参考書がありますが、『注解 国宝 三帖和讃』常磐井鸞猶著と『浄土和讃講話』川瀬和敬著より紹介します。
浄土和讃 諸経意弥陀仏和讃07首
如来すなわち涅槃なり 涅槃を仏性となづけたり
凡地にしてはさとられず 安養にいたりて証すべし
如来は涅槃に等しく、涅槃は佛性と名づけられている。これらは我等凡夫の世界にあっては悟れない。弥陀の浄土に生まれて証すべきものである。
※「如来」は涅槃をさとった者であり、涅槃は如来によって悟られたものであり、佛性はそのさとりの因であるから、体はみな同一である。
※「涅槃」は、梵語のnirvanaの音写で、元来は吹き消すこと、吹き消した状態を言い、煩悩の火を滅してさとりの智慧を完成した境地を指す。佛教の最終目的である。
※「凡地」は、凡夫地の意で、この世界のこと。
以上 【注解 国宝 三帖和讃 常磐井鸞猶著より】
第5首のところで引用した『涅槃経』文が、この第1行第2行にそのままうたわれます。第3行第4行は、前の第6首と同じように、この経意も信心によって必ず実現されるとの知見を述べられたものです。凡地について「凡夫の居所」と左訓されるように、凡夫にあってはどうかということが中心になります。
「顕智書写本」にあっては長い左訓が出ます。「如来と申すはすなわち涅槃と申すみことなり。涅槃と申すはすなわちまことの法身と申す仏性なり。知るべし、この凡夫はこの世界にしてさとらず候えば、他力をたのみまいらせて安楽浄土にしてさとるべしなり」と。如来と涅槃と仏性とのつながりを明らかにしようとする深意がよく見えます。これを高嶺の花と眺めるのでなく、凡夫のさとりの内容たらしめたい、しかも決定的に「この凡夫はこの世界にしてさとらず候」と、凡夫の徹見といたわりの上に立ち、「三界の道に勝過した彼の世界」にこそ実現の場のあることを、確信をもって示したのです。命終わるならば多分そのような世界が開けると思います、というような夢のこの世界に続くまたの夢を悟っているのではありません。これがはぐらかしに聞こえる間は、「安養にいたりて」の表現にこちらの宗教体験がまだ及ばないということです。
如来と申しているのは、ほかでもなく形のあらわしようもない涅槃を指します。涅槃は煩悩の火が清風に吹き消された静かな状態です。その涅槃はそのまま仏性ともいわれます。「法身と申す仏性」の法身とは、「諸経意」の第一首の法身の左訓「虚空に満ちたまえり」とのように、全法界を身とするというのです。一切衆生悉有仏性とはこれであり、「渓声便ち是広長舌、山色清浄身に非ざること無し」とまで燃えていけるのですが、凡夫の境界ではこれを深く内に包んで、安養浄土にいたることによって、必至滅度、きっとさとることができるというのです。つつしみ深く奥床しく、凡夫の座を逸脱しません。安養にいたりて証することを思考の圏外に棚あげして、通りぬけたようにとりなすのは、涅槃とか仏性とかいう本当に息づいているものを、宙に浮かすことになります。「安養にいたりて」は、無生の生であることを思惟せねばなりません。
『涅槃経』に「真実と言うは即ち是れ如来。如来は即ち是れ真実。真実は是れ仏性。仏性は即ち是れ真実」とあるところなどを、聖人はよく凝視して、真実がはたらいてどういう形をあらわすのかを、その糸を懸命にたぐられたと思います。
以上【浄土和讃講話 川瀬和敬著より】