高田山専修寺(たかださんせんじゅじ)
修身、修養、修学など「修」は「しゅう」と読むのが一般的なので、「せんしゅうじ」と読む人が多くいます。
しかし、私たちの本山は「専修念仏(せんじゅねんぶつ)(お念仏ひとすじのみ教え)」から付けれてた寺号ですので「じゅ」と読みます。
「たかださん せんじゅじ」と正しく読むようにしましょう。
往還二廻向(おうげんにえこう)
「廻向(えこう)」という言葉は、「廻転趣向(えてんしゅこう)」という意味で、人間の心をひるがえして、仏に帰依(きえ)することをいいます。それがすべて菩薩の自力の働きですが、阿弥陀仏の働きのお手まわしであります。この廻向に2種あって、ひとつは往相(おうそう)の廻向、ふたつは還相(げんそう)の廻向といいます。
往相の廻向とは、阿弥陀仏(あみだぶつ)のお力で浄土に生まれていくことです。阿弥陀仏の手もとにおいてできあがった救いの手だてなので「廻向成就(えこうじょうじゅ)」といいます。
それが「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)」の名号となって、私たちの心に「真実(まこと)の信心」となり、口にご恩報謝(おんほうしゃ)の「お念仏」となってあらわれて下さいます。いいかえればこの心〔信心(しんじん)〕行〔念仏(ねんぶつ)〕は、ほとけさまの慈悲心(じひしん)が、私たちに届けられたという証拠なのです。
次に還相の廻向とは、浄土(じょうど)に往生してのちに再び娑婆世界(しゃばせかい)に還(かえ)ってきて、阿弥陀仏の活動に参加させていただくことをいうのです。還相の菩薩(ぼさつ)として活動をさせていただくということは、阿弥陀仏の慈悲心の極(きわ)まりといえましょう。
「往(ゆ)く」も「還る」も、ただ「南無阿弥陀仏」です。
親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、七高僧(しちこうそう)などすべての善知識(ぜんぢしき)を、浄土からお迎えにこられた方々〔還相廻向の菩薩(げんそうえこうのぼさつ)〕として仰がれたのでした。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より
先日名古屋の新栄町にある久遠寺様に伺いました。法話会を毎月のように開催されています。ご住職様が、ご自坊でお同行の皆様にお話しされるお寺はたくさんありますが、久遠寺様は、長年ご講師をお招きして、ご住職様・副住職様もお同行の皆様と共に聞法されています。今のご講師様もかれこれ13年ほどになるようです。私(住職)は、それぞれのお寺のご住職様が、お同行の皆様へお話しをされることも素晴らしいことと思いますが、お同行様と共にご住職様がご講師のお話を、聞法されるのはとても尊いお姿と感じます。
妙華寺でのご法話は年5回の行事の時にあります。その時、住職として行事のお勤めが終わってから始まるご法話をゆっくり聞法できていませんので、これからはできるようにしたいものです。
私(住職)が伺った時のご法話が、今回のひとくち法話のお話しでした。
初盆総廻向
7月の初盆のお勤めが終わりました。妙華寺では初盆の最後のお勤めを初盆を迎えられましたご家族の皆様と一緒にしています。お勤めの中、ご焼香をしていただいている時、私(住職)は、枕勤めに伺った時のことや、お通夜、ご葬儀のことを思い出すことがあります。改めてご往生されました方々との会話や穏やかなお顔が頭の中によぎります。そして「お会いできてありがとうございます」とお礼申し上げます。時間が大変早く過ぎゆく時代に、ご往生されました大切な方とお会いできる時間を共有できることに感謝しています。
今回のグリーフケア公開講座の最後の講座です。島薗進氏の「悲しみから生まれる力 東日本大震災後を生きる」のお話しです。島薗氏は、スピリチュアルケア、グリーフケアに長年携われていらっしゃいます。東日本大震災が起こった時には、現地での宗教者の活動がバラバラな活動でなく情報を共有することでより宗教者の活動が拡がるよう宗教者災害支援連絡会を立ち上げられました。この取り組みは、阪神大震災やJR福知山線の事故、中越地震などこれまでの宗教者の支援が、より良い支援にできないかという思いと、これまでの東北での自殺予防の取り組みをされていた方々や、在宅介護での看取りをされていた医師の思いを含めた新しい試みでした。東日本大震災の現地での宗教者の活動は、これまであまり取り上げられなかったマスコミにも取り上げられるようになります。ここには、東北地方の豊かな宗教的な地域性と、これからの日本で何が起こるか分からない時代の不安も関係があると感じます。特定の宗教を信じていない現代の私たちは、宗教に何を求めているのか難しい問いですが、日本人の感じる、死者と生者の関係性に注目できるのではと話されました。今ではあまり肯定的に論じられない日本のこれまでの家制度には、縦の関係を大切にした中に、死者と生者が共にいる関係や、自分の後の世代を慈しむ思いなどを窺い知ることができるようです。深沢七郎氏の『楢山節考』を読むと涙を流してしまいますがそこには、生き残るものへの慈しみがあり、読者は悲しみの追体験をして分かち合うことで、悲しみから生まれる力をいただいているのだと話されました。これからの時代に、スピリチュアルケアやグリーフケアがこの日本にしっかり根をはることができるかは、東北大震災後の宗教者の新しい活動としての臨床宗教師構想にあると注目されています。
※中川個人の感想です。
5月から始まった8回のグリーフケア公開講座のすべてに参加できませんでしたが、それぞれのご講師が取り組まれているグリーフケアについてのお話しをお聞きでき、学ぶものが多くありました。
最後に、9月から12月まで8回のグリーフ ケア公開講座『悲しみを生き抜く力』のチラシをいただき、次回も各方面でご活躍されていますご講師の悲しみを見つめながら生きることの意味を共に考えるお話を楽しみにお聞きしたいと思います。
今日、三重県は梅雨明けをしたそうです。今年はお盆前からセミが鳴き始めていました。例年ですと蓮が咲き出すのですが、今年は6月に二華咲き、その後蕾を見ることができません。また、サルスベリの木が境内に何本もあるのですが、その1つに花が咲き、他の木は咲く気配がありません。毎年同じようで同じでないことを教えていただきます。
7月のお盆のお勤めが終わりました。毎年梅雨の終わりですので雨の日と暑い日があります。今年は蝉の声を聞くこともありました。毎回お同行様のお仏壇の前でお勤めをしていながら気づくことがあります。お仏壇の作りであったりお同行様のご本尊の由来であったり、脇壇の九字・十字名号の時代であったり今までどこを向いてお勤めしていたのか反省するばかりです。妙華寺のある二ノ町は、江戸時代職人の町でした。腕利きの職人の造られた高田の仏壇が今も大切に相続されているのを拝見することもあります。
また今回は初めてお手伝いしていただいた方に次に伺うお同行様のお家まで案内していただいたことを聞き、その地区の良きコミュニティが続いていることにも気づかさせて頂きましたありがとうございました。
最近はご家族も所用が多く、1日中、ご家庭にいることもかなわないことで、お寺に前もってご連絡をいただく場合もございます。そのような時は、お墓でお盆のお勤めをさせていただいています。
「同行(どうぎょう)」
ふつう同行(どうこう)と読みます。同行する、同行者などと道連れの意味で使います。
真宗では、○○寺の同行(どうぎょう)といいます。同じ教えをきき、同じ念仏を申す仲間のことです。