四季の花 最近ゆっくり花を愛でる時間もなく9月の終わりになりました。
すっかり秋の秋明菊やムラサキシキブ、ハギが境内を彩っています。例年秋彼岸の前には咲き出す彼岸花が今年は彼岸を過ぎても茎が伸びていませんでしたが少しづつ花を咲かそうとしています。
月: 2019年9月
9月のおてらおやつクラブ
9月のおてらおやつクラブ
9月は、13日と17日に一人親家族様と二つの支援団体様へ「お供え」を「おすそ分け」させていただきました。
おてらおやつクラブの冊子「てばなす」2号は、秋彼岸会の案内時に配布いたしました。
また、年2度回収の古本勧進での古本も募集しています。
今回は来年1月末までに集まった古本を寄付させていただきます。
不要になりました古本がありましたらいつでもお寺にお持ち込みください。
対象の本は、裏表紙にバーコードのあります文庫本・新書本・単行本です。
申し訳ございませんが、週刊誌・雑誌・百科事典・全集は対象外です。
本以外、書き損じのハガキ・不要なCDも受け付けています。
秋彼岸会 お勤めしました
秋彼岸会 お勤めしました
前日までの予報では台風17号の影響を受けると聞き、多くのお同行様が昨日までに秋彼岸のお参りにお越しいただいていました。朝方まで雨が降っていましたが、次第に雲の間から晴れ間も見え、風も収まっていき午後からのお勤めは少し蒸し暑い中でしたが、秋の彼岸会をお勤めすることができました。ご遠方からもお越しいただく方もいらつしやりうれしく思います。
今回、お勤めの前に、「いのちの積み木」を内陣に設えお話させていただきました。一番上の積み木を私(自分)の命とうなづくことができると私の命につながる多くの命についてそれぞれが感じ入ることがあるようです。
ご法話は、真楽寺の鷲山了悟師で、今回は高田派の「礼讃文」から「人として生まれてきたことのありがたさ」を体験を通してお話され、改めて「人として生まれてくること」が命がけであることを感じています。
ご法話の後、終活セミナーの一環としてリハビリトレーナーさんをお招きして「健康体操」を開催させていただきました。私(住職)は、自分ではまだまだ若いと思っているのですが体操の中で足が上がらないことに気づきましたので、日常生活の中で「健康体操」をもう少し取り入れていきたいと思いました。
リハビリトレーナーさんの「健康体操」は、来月の秋千部会のご法話の後にも予定しています。よろしかったら、ご参加ください。
お寺の掲示板
お寺の掲示板
「今」を生きることに集中する
『大往生できる人 できない人』潔く、とらわれず、おまかせして生きる 田畑正久著 から
著書の中で、ほとんどの人が「仕合わせになるためのプラス条件」を増やし、「仕合わせの足かせになるマイナス条件」を減らしていくことで仕合わせになれると考えています。
しかし、「年を取ることは今まで見えなかった世界」が見えてくる、智慧をいただく、人間として成熟する歩みがある。と述べています。
私(住職)が25歳の時に、祖父が80歳で往生しました。私(住職)が52歳の時に、父が80歳で往生しました。祖父と父との続柄が違うこともありますが大切な人の死について思うことは変化しています。そしてこれからも変化していくと思っています。
中川結幾(法名は、鳳瑞)のご法話等の案内
中川結幾(法名は、鳳瑞)のご法話の案内
秋の時期、妙華寺の衆徒の中川結幾(法名は、鳳瑞)がご縁をいただきご法話をさせていただく場をご案内させていただきます。
ご都合がつきましたらご聴聞ください。
①09月21日(土)10時から16時
超覚寺(広島市)本堂
超覚寺開基400周年記念法要
「まいてら」寺院の広島市の大谷派超覚寺様の開基400周年記念法要で浄土真宗10派の法話大会に出講する一人としてご縁をいただきました。
浄土真宗各派法話大会は、9月21日(土)10時から16時までです。(勤行の後、一人20分ほどのご法話となります)
ご興味のある方はご聴聞ください。
②10月23日(水)13時30分から15時30分
高田本山宗務院2階第1会議室
毎年2回公開講座を開催しています、仏教教育研究センター公開講座の1つで『「お寺」を開く時代へ』と題してお話するご縁をいただきました。
日時は10月23日(水)13:30-15:30で会場は高田本山専修寺宗務院2階の第1会議室です。ご興味のある方はご参加ください。
※官製ハガキでの申込になります。下記の宛先にお申し込みください。(10月1日から官製ハガキの料金が62円から63円になります)
申込方法 官製ハガキにて申し込み 受付期間10月2日(水)~10月16日(水)
当日 受付もございます
宛先 〒514-0115
津市一身田豊野195
高田短期大学 仏教教育研究センター 公開講座 係
裏面 公開講座申込書
公開講座名
氏名(ふりがな)
年齢
住所 〒
電話番号
仏教教育研究センター公開講座
『「お寺」を開く時代へ』
10月23日(水)13:30-15:30
高田本山専修寺宗務院2階第1会議室
定員 100名
受講料 無料
講師 中川 結幾 (妙華寺衆徒)
【講師中川結幾から】
近年、様々な分野においてお寺の役割が再発見されつつあります。一方で、お坊さんが世間からの期待に十分応えることができているかというと、まだ検討されるべき余地が残されているように感じます。本講座では、私自身が経験してきた児童館での子どもを中心とした「地域づくり」や「子育て支援」、自死相談活動での「心の居場所づくり」などを通して、開くとはどういうことなのかについて皆様と一緒に考えてみたいと思います。
ひとくち法話
共にこれ凡夫のみ 憲法十七条(ともにこれぼんぷのみ けんぽうじゅうななじょう)
みんなが平和に生活することはいつの世でも、また誰でも願っていることです。
聖徳太子(しょうとくたいし)は幾多の国をまとめるための仕事をされましたが、その中でも私たちの生き方の支えになることを示さねば、国はおさまらないと考えられ、人間の和を重んじた心のバックボーンを『憲法十七条』としてお示しになりました。
その第10条には人間として一番の争いの元になる「怒り」や「腹立ち」などを戒められ
「十に曰(いわ)く、心の怒りを絶ち、面(おもて)の怒りを棄て、人の違(たが)うことを怒らざれ。人みな心あり。心おのおの執るところあり。彼是(ぜ)とするときは我は非(ひ)とす。我是とするときは、彼は非とす。我必ずしも聖(ひじり)にあらず。彼必ずしも愚(おろか)にあらず。共にこれ凡夫ならくのみ。」
ここには同じ大地に立つ凡夫であるという仏教の教えから考えられる平等思想が貫かれております。
そして人間がどこまでいっても凡夫であること、命終わるまで絶対に消えることはない。これに気づかない限り、国をまとめるような大事業はやれないとお考えになったのではないでしょうか。
親鸞聖人も「凡夫というは、欲も多く、怒り、腹立ち、そねみ、ねたむ心多く暇なくして、臨終(りんじゅう)の一念に至るまでとどまらず、消えず、絶えず」と教えられています。『一念多念文意』
お寺の掲示板
お寺の掲示板
「死後の世界」が、あるかないかは、自分で決めていい
『人は人を救えないが、「癒やす」ことはできる』 谷川洋三著から
著書では続けて、あるかないかわからないのが「死後の世界」です。だからこそ、自分がどう思うかという基準で、自由に決めてしまっていいともいえます。
死の不安や恐怖を取り払いたいのであれば、どんなものでもいいので自分の中で決めることが必要です。有でも無でもどちらでも構わないので、自分の都合のいい死後の状態を設定して、そして信じること。その信じる度合いが100%に近づけば近づくほど、死を前にしたときの心の安定が得られるはずです。
自分で選べることが大切で、他者からの強要での選択では後悔がやってくると思います。
秋彼岸会は9月23日午後1時30分からお勤めします
秋の彼岸会を秋分の日9月23日(祝・月)午後1時30分からお勤めをいたします。
真楽寺の鷲山了悟師のご法話がございます。
妙華寺では、ご法話をご聴聞していただくと法会参加票にスタンプを押印させていただいています。
ご聴聞をお喜びするご縁となりますように、10回ご参加いただきますと記念の品をお渡ししています。
また、法話終了後 リハビリトレーナーによります「健康体操」を本堂で予定しています。4時頃終了予定です。こちらもご参加ください。
秋分の日
毎年9月23日頃を秋分の日と言い「祖先を敬い、亡くなった人をしのぶ日」として1948年に法律で制定されました。
自然信仰から生まれた祖先供養の日
元々農村部では、春分の頃に豊作を祈り、秋分の頃に豊作を祝う自然信仰があり、山の神様である祖先の霊を春分以前に山から里に迎え、秋分以降に里から山へ送る儀式が行われていました。しかし、仏教の浸透とともに秋分は「秋の彼岸」として祖先を供養する意味を持ち始めました。
明治時代に秋分の中日を「秋季皇霊祭〔しゅうきこうれいさい〕」と定め、宮中において祖先をまつる日となった事がきっかけで、一般市民の間でもそのように定着していきました。
1948年には、お寺参りの日・先祖供養の日など、宗教的慣例としてのまつりの日だけではなく、広い意味で「祖先を敬い、亡くなった人を忍ぶ日」として国民の祝日に制定されました。
秋分の日と彼岸
秋分(春分)の3日前の日を「彼岸の入り」といい、3日後を「彼岸の明け」と言い、その7日間を彼岸と言います。秋分・春分はその中間に位置するため「彼岸の中日」と呼ばれています。
また「彼岸」とは元々仏教用語で「煩悩に満ちた世界から解脱した悟りの世界」を指します。これは、簡単に言えば「亡くなった先祖達の霊が住む世界」のことです。その祖先の霊を供養するために、私たちはお彼岸になると「お墓参り」へ行きます。
■参考文献・ウェブサイト
子どもに伝えたい年中行事・…萌文書林編集部 萌文書林 1998
年中行事・儀礼事典東京美術選書川口謙二 池田孝 池田政弘 東京美術 1997
祝祭日の研究―「祝い」を忘…角川oneテーマ21産経新聞取材班 角川書店 2001
8月の聞法
8月の聞法
1日は、徳本会の暁天講座に初めて伺いました。旧「津市」の浄土真宗の3派寺院で50年以上活動されています徳本会は、毎月「真宗講座」を開催し、8月1日から3日まで、朝5時から6時の暁天講座を開催されています。今年の会場は、海に近い津市中河原の潮音寺様です。住職の村上英俊師には以前から親しくさせていただいています。徳本会の総理であります高田本山のご法主殿のご臨席の元、「重誓偈」のお勤めの後、真楽寺住職の鷲山了悟師(妙華寺の毎年秋彼岸の布教使)のご法話を聴聞しました。ご自身の病気を通して阿弥陀様のはたらきに遇うことができたことを、丁寧にお話されました。「自分自身のたよりなさ」や「無常」についてもう一度かみしめることができました。※中川個人の感想です。
2日は、昨日と同じ徳本会の暁天講座で、本願寺派布教使の加藤幸子師の「御開山聖人ご出生のご恩」と題して「南無阿弥陀仏」の呼びかけは、自我を破る「はたらき」であることを親鸞聖人が私に知らしめていただいたことをうれしく尊くあることをお話されました。昨日の「自分のたよりない」ことが破られていくことをが仏縁に遇うことであることを改めて感じました。※中川個人の感想です。
2日の高田本山夏季仏教文化講座は、花園大学の佐々木閑師の「現代社会で生きるためのブッダの教え」として仏教学の歴史やシャカの悟ったことの目的は、今に伝わる上座部仏教と大乗仏教で変わらないことなど基礎的なことを丁寧にお教えいただきました。ヨーロッパでは、インドの言語とヨーロッパの言語を比較すると同じような形であることから古代アーリア人を共通の祖先として見ることができ、ヨーロッパ人は自分のルーツとしてインドの研究を、1600年代(江戸時代の)頃からしていますので仏教学の先行研究はヨーロッパが中心であることも私には新鮮でした。※中川個人の感想です。
3日の徳本会暁天講座は、妙華寺の衆徒が「阿弥陀様のお心」と題してお話をさせていただきました。聖人の和讃から、私たちの日々の有り様は煩悩だらけである。手放すことをしたくない大切なものも最後は手放していかなければならないことは頭で分かっていても、今直ぐに起こることとは思っていない私をずっと見て下さる「はたらき」が阿弥陀様のお心とこれまでの経験を通してお話されました。凡夫とは私のことであると聖人の和讃からいただくことができました。 ※中川個人の感想です。
最後に3日間ご臨席のご法主殿からお言葉をいただき今年の暁天講座は修了しました。
この暁天講座の3日間は、徳本会会員の知人と共に聞法できた有難い時間でもありました。日が明ける頃に暁天講座がはじまり終わる頃は朝の光を感じながら1日がはじまる素敵な時間をいただきました。
8日は、奈良県の田原本町にある西本願寺派の浄照寺様のお盆行事に伺いました。浄照寺様は由緒ある格式のあるお寺ですが、私は勝手に親しみを感じています。
それはお寺の行事で多くのお同行様がそれぞれの役割を楽しく果たされているからです。またご住職様をはじめ寺族の方々の行事に向き合う姿に心打たれます。
今日は、お盆の行事でご法話は、本願寺派布教使の花岡靜人師でした。花岡先生は高田本山の布教伝道研修講座のご講師でもありますが、ご法話を聴聞させていただくのは初めてでした。親鸞聖人の『尊号真像銘文』から親鸞聖人自身の文である「正信偈」の一文からの讃嘆でした。親鸞聖人の阿弥陀如来の「はたらき」を讃嘆するお姿が素晴らしいのは、阿弥陀如来の「はたらき」がそのままでちゃんと私に届いているからのことですが、つい自分を付け足してしまいたくなってしまうのが凡夫の私であります。後二座ありますので最初のさわりだけでありましたが私にもわかるようにお話くださいました。外は暑い一日でしたが本堂内は空調設備のおかげで快適に聴聞させていただきました。※中川個人の感想です。
28日は、教学院主催の「仏法と現代を考える集い」で「医療と仏法」~医療現場の問いを抱えて仏教に学ぶ~と題して、真宗大谷派の僧侶であり、脳神経内科の医師でもある岸上仁師が講師でした。岸上師の医療現場は、病気が治らない(難病で治療方法がまだわからない)現場で、告知に当たって「治らないのであれば殺してください」など患者の声にどのように向き合っていくかとても難しい問題を、仏教を学びながら今もご自身に問いかけているようです。「ケアされる側」の問題は「ケアする側」の問題でもあり立場を超えた問題で「言葉にならない心の叫び」をどのように聞いていくか医療現場から多くのことを学び、仏教に学んでいらっしゃいます。同じ言葉であってもその言葉の奥にある心の叫びは、本人も気づいていない場合もあるかも知れないし、私も気づく事ができていないこともあり、「寄り添う」ことに大きな壁があるとの言葉に改めて私(住職)も肯きながらこれからの「寄り添う」あり方を考えさせられます。沢山の事をお話されましたが、私(住職)の理解が浅くもったいないことでした。 ※中川個人の感想です。
お寺の掲示板
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遠く離れてはいても 心はひとつ
「長相思(チャンシャンスー)」作詞 きたやまおさむ
市川猿之助のスーパー歌舞伎『新・三国志 完結編』の中の挿入歌『長相思(チャンシャンスー)』の言葉。歴史が変転する流れのなかで望郷の歌として歌われたようです。
歌舞伎も三国志も知らない私にとってこの言葉は何が響くのか「望郷」としてなつかしさや過去の思い出としても響いてくるが「別れ」を告げられても共にいることとして響いている。