【報告】真宗入門講座

【報告】真宗入門講座
高田本山専修寺の「親鸞伝絵」から親鸞聖人の生涯の紹介です。
今回は、「山伏済度」の段でした。
親鸞聖人が関東に滞在されている時期のエピソードで、これまでその地域で人々に信仰が篤かった「修験道」から、親鸞聖人の「み教え」が広まってきたことに、敵愾心を持った山伏が、板敷山で、待ち伏せするのですが、親鸞聖人と相対することができない状態が続いていました。山伏は、親鸞聖人の住まいを訪れると、その尊顔を拝すると、今まで山伏の中にあった心に後悔の念が生じて、山伏の身なりを捨てて、親鸞聖人の「み教え」に帰依されることになる。部分の紹介でした。

私(住職)は、これまでの信じる「教え」を捨てて、新しい「教え」を信じることになる場面で、親鸞聖人が、法然聖人に出遇われた時のことを思い出しました。
仏教で「回心(えしん)」と言う言葉があります。
私が信じる「み教え」がどのような縁で、信じることになったのか。振りかえる時間をいただきました。
※中川個人の感想です

【回心】えしん ①悪心を改めて仏の教えに帰すること ②自力の心を捨てて本願他力に帰すること 【浄土真宗辞典】

次回は04月16日(水) 13時30分から15時30分 高田会館ホールで「箱根霊告」「熊野霊次」の段の紹介があります。

登録有形文化財の説明文

2004年11月に妙華寺の本堂が国の登録有形文化材に登録されました。
およそ20年の間に、これまでの説明文が汚れて見にくくなっていました。改めて新しくしていただきました。

トレーディングカード

登録有形文化材のトレーディングカード
2004年11月に妙華寺の本堂が国の登録有形文化材に登録されました。
2018年4月に一般社団法人三重県建築士会様が、多くの皆様に三重県の登録有形文化財の文化的価値、観光資源的価値をご認識いただき、登録有形文化財のさらなる活用と地域の活性化の一助としてトレーディングカードを作成されました。三重県内にある多くの登録有形文化財の一つであります「妙華寺本堂」のトレーディングカードも数に限りはありますが作成していただきました。
トレーディングカードができて、7年が経過します。県内外から、多くの方かだにトレーディングカードをお渡しさせていただいています。
ご関心のある方は、お寄りください。


火を熾す(使う)ことができたことは、人類が今の生活を手に入れてきた一つの要因であるでしょう。
私が小さかった昭和30年代前半は、日常生活で、ご飯はかまどで薪を使って焚いていました。煮物や焼物は、練炭コンロを使っていました。お風呂も薪を使って沸かしていました。
居間には、火鉢に鉄瓶がありお湯を絶えず沸かすのに炭が使われていました。暖を取るのも炭でした。その生活から、徐々に、ガスや電気を使う生活になり、今では、薪や炭などは、野外キャンプ場や、専門店でしか使われなくなっています。
その中、茶道では、いまだ炭を使っています。(電熱ヒーターを使用することもあります) 炭を熾して、茶釜でお湯を沸かして、お茶一服差し上げるのですが、差し上げる時が一番お茶に適した温度になるように炭をつぐのが炭手前になります。
火種になる炭から炭をついで、お湯が沸くまでの間、お茶をおいしく召し上がっていただくのに時間がかかりますので、炉の時は、初炭の手前から逆算して、お米を炊き出す時間を決めて、汁を温めたりしなが、一汁三菜の懐石をお出しします。
今の感覚では時間がかかるのを否定的に捉えがちですが、実際経験してみると客様もやるべき役割があって時間を忘れさせてしまいます。
徐々に炭が熾り、炭が灰に変わるまで、炭のつぎ方に決して同じではないこと、人生にも似ているように感じます。
※中川個人の感想です。

【報告】春彼岸会

【報告】春彼岸会
昨日まで、強風と冬並みの寒さでしたが、20日は、少し穏やかな日になりました。
遠方からお越しいただく方、歩くのがご不自由でタクシーで駆けつけていただく方、初めて法話をお聴きいただく方、毎回の法話を楽しみにお越しいただく方などご参加いただきありがとうございます。毎年のお寺の行事ではありますが、同じことはありません。まさに一期一会の時間です。

お勤めの後のご法話は、浄泉寺の戸田栄信師で「煩悩と共に生きる」と題しての法話でした。

仏教と他宗教の違いからはじまり、仏教も多くの教えがあり、親鸞聖人がいただいた真宗の「み教え」がまさしく私ごととして私に「必ず救う」と願われてる阿弥陀様のことを、ご自身の体験談を交えてやさしくご法話されました。
真宗の「み教え」を私ごとと捉える縁に遇えることが、とても有難いことですね。
※中川個人の感想です。
まだ、法話を聴く機会が無い方、もし時間に都合がつきましたら、ご聴聞いただければと思います。

無邪気と邪気

無邪気と邪気

19日は、69年前、私(住職)が生まれた日です。でも、生まれた日を果たして、私(住職)の頭の中に記憶があったのかと問われますとわからないが正しいと感じています。
出生届・戸籍の記載された日であっても、生まれてきた時、泣いているだけの小さな「いのち」で何一つ自分でできない状態でした。その「いのち」を大切に思い、育てていただいた方々がいて、今日があるのだと感じています。生まれてきてからも縁によっては、その時に「いのち」が終わっていたことも経験していますが、有難いことに生きています。

最近、ある本を読んでいて、「無邪気」と「邪気」が気になりました。
「邪」が含まれる言葉は、マイナスイメージですが、私(住職)の中にあるものです。
人として、直せることができればいいのですが、皆さんはどう捉えますか。
努力して直すことができる。少しはできる。全て直すことができる。できることとできないことがある。努力してもできない。いろんな思いが交わります。
仏教語の「邪見」を主にして考えていくと、「広い意味で仏教に背くすべての思想のことで、とくに因果の通りを否定する考えを指すことが多い」真宗では、「自力をたのみ、本願を疑う見解を指すこともある」とあります。仏教の浄土の教えから捉えると、私をどのような存在であるかを考えるきっかけになりそうです。

明日20日は、妙華寺の春彼岸会です。13時30分からお勤めが始まり、14時頃から15時頃まで、浄泉寺の戸田栄順師の法話がございます。ご都合がつきましたら、ご参集ください。

 

むじゃき【無邪気】
〘名・ダナ〙性質・気持などが不純でなく、素直なこと。あどけなく、かわいいこと。「―に遊ぶ」「―な子供」
[派生]―さ ⇒純真
岩波 国語辞典 第八版 (C)2019 株式会社岩波書店

じゃき【邪気】
①すなおでない、ねじけた気持・性質。わるぎ。「―のない人」
②人の身に病気を起こすと信じられた悪い気。「―を払う」
岩波 国語辞典 第八版 (C)2019 株式会社岩波書店

じゃあく【邪悪】
〘名ナノ〙心がねじけていて、他に危害をおよぼし人倫に反すること。
[派生]―さ 岩波 国語辞典 第八版 (C)2019 株式会社岩波書店

じゃけん【邪見】
①〔仏〕因果の道理を無視する、間違った考え方。
②間違った見方。
▷かなり古風。
岩波 国語辞典 第八版 (C)2019 株式会社岩波書店

じゃしん【邪心】
悪い心。邪悪な心。「―がない」
⇒心
岩波 国語辞典 第八版 (C)2019 株式会社岩波書店

【案内】真宗入門講座 3月27日13時30分から高田会館ホール

【案内】真宗入門講座
真宗入門講座は、高田本山専修寺に伝わる「親鸞伝絵」から親鸞聖人の生涯の紹介です。
今年で3期目にあたります。

03月27日(水) 13時30分から15時30分 高田会館ホール 
        「山伏済度」の段
04月16日(水) 13時30分から15時30分 高田会館ホール
「箱根霊告」「熊野霊次」の段
05月20日(火) 13時30分から15時30分 高田会館ホール
「聖人入滅」「廟堂創立の段
どなたでも参加できます。関心のある方は、高田本山教学院におたずねください。

※3月27日は、妙華寺の副住職が紹介します。

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宗教者からのメッセージ10

宗教者からのメッセージ10
京都府に「いのちの日」が制定されて、浄土真宗本願寺派総合研究所から、毎年、宗教者から自死の苦悩を抱えられた方へのメッセージが届けていられます。
今年は、4名の宗教者からのメッセージが掲載されています。妙華寺の副住職も1人の宗教者として掲載されています。まだまだ修学中ですが、必要な方へ届きますよう願っています。春彼岸会にご参加されました皆様にお渡しする予定です。

遙拝(ようはい)

遙拝
妙華寺には境内墓地があります。お彼岸やお盆には、多くの方々がお墓詣りにこられ賑やかです。また、お寺の行事の前後でお墓に参られる方や、年回法要で本堂でお勤めをした後、お墓でお勤めすることがほとんどです。

ただ、雨であったり、風雨が強くお墓でお勤めができない場合もあります。
そのような場合、本堂内でお墓に向かって墓勤め(遙拝)をさせていただいています。

高田本山専修寺では、毎月、親鸞聖人の命日(16日)に御影堂でお勤めのあと、ご廟(墓)に行列を組んで行き、ご廟でお勤めされていますが、雨の日などでご廟に行くことが難しい場合、如来堂からご廟に向かってお勤めされることから、妙華寺でもお墓でお勤めが難しい場合、遙拝にてお勤めしています。

東日本大震災から14年

東日本大震災から14年
今年、私(住職)は、69歳になります。昔の数え方で言えば「古希」です。
私の生きてきた時間で調べれば多くの地震が起こっていますが、30年前の阪神淡路大震災と14年前の東日本大震災と昨年の能登半島地震の映像が印象に残っています。
地震以外でも大きな災害はあります。昭和34年の伊勢湾台風は私の住んでいる地域でも多くの被害が出ました。しかし、私は3歳でしたし、映像として残っているものは今に比べてとても少ないので、余り記憶として残っていません。

大きな災害についてもそうですが、時間が経過していくとそのことを共に考える時間が少なくなることに、申し訳なさを感じますが、生きていくことに精一杯の私にとっては、しかたがないと切り捨ててしまう感情もあります。
しかし、それでも伝えることはしなければいけないのだと感じています。昨年、「伝える」ことの難しくさに悩んだ時間がありました。自分自身の「伝える」スキルが未熟であったとしても、「伝える」努力を続けないといけないことの大切さを改めて感じています。

また、視点を変えて考えると、日本だけでなく世界で地震が起こっている(地球では地震が起こっている)ことは、大地が安定していると言う私の思い込みであったのではないか。本当は、自分の立っているこの大地は決して安定している場所でなかったのかと考えてみることもできます。この視点では、少しだけ宗教的な意味合いも感じられるような気もします。
※中川個人の感想です。