境内墓地の通路整備の報告(8月)

境内墓地の通路整備の報告(8月)

境内墓地の通路整備は、墓地の奥にあたる北西側から通路ごとに順次舗装板を整備しています。5月末から三区画の場所が始まりました。
先月から進まず現在半分ほどの工程が進んでいます。予定の9月末には三区画は終了できると思います。但し、今後も台風などの天候で、時間がかかる場合があります。
7月からお勤めの間、本堂の空調設備を使用しています。これまでより少し涼しいお勤めの時間となりました。

ご迷惑をおかけしていますが、境内墓地通路整備期間中の東側駐車場の一部を工事車両が使用します。
また、皆様のお墓の前の通路に花入れなどがございましたら申し訳ございませんが片付けさせていただくことになります。

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現代と仏法を考える集い『寺院崩壊?パートⅡ』

現代と仏法を考える集い
高田本山の教学院主催の「現代と仏法を考える集い」は、昨年に続き『寺院崩壊?パートⅡ』として今年は、「寺院崩壊」を「真宗と習俗」から見つめることでした。昭和63年の真宗連合学会の大会の時のシンポジウムの一部を映像で拝見してから意見を発表する時間でした。信楽峻麿師の司会で大村英照師、伊勢谷功師、池田勇諦師がパネラーでした。映像の中の皆さんはとても若いお姿でした。聴衆の多くは高田派の僧侶でしたが、お寺のお同行の方、高田本山に親しみを持たれている方、他派の僧侶もいらっしゃりいろんな意見をお聞きできました。私が感じたのは、「真宗と習俗」はこれまでもそうですが、これからも永遠のテーマなんだと思います。親鸞聖人の選択(せんじゃく)は命がけの選び(おまかせ)であり、私(住職)の感じている中途半端な選びではありません。これからも考えていかないといけないテーマと思っています。「寺院崩壊」とあわせて考えると、お同行や地域の方々との関係性を、私達の内にある習俗に向き合い真宗寺院としてもう一度見直すことと、お寺の魅力と僧侶の魅力(資質)を高めなければいけないと感じています。


「真宗と習俗」の思い出としては、昭和55年の先々代(祖父)の葬儀の日、組内のご住職様にお勤めしていただきます時に、お一人の老僧が、「おめでとう」と仰り祝儀袋でお香典をお渡しいただきましたお姿が奇異と感じられない自然体であったことです。私(住職)には初めてのことでした(その後も経験していません)私(住職)は、「往生の素懐をとげました」と葬儀の後に挨拶しますが、今もご往生されました方のご遺族に、「お寂しいことです」と申して、仏事の袋で香典をお渡ししています。お寺からのお供物に、祝儀と仏事の「のし」を使い分けています。「常識」と言われることにとらわれている自分があります。あの老僧のようにできるかと言うと未だできない自分がいます。

8月のおてらおやつクラブ

8月のおてらおやつクラブ 今月も一人親家族、支援団体様へおすそ分けさせていただくことができました。支援団体様は、夏休みの親睦旅行があるそうです。夏休みの楽しい思い出となりますように念願しています。一人親家族様には、少しですが地元の梨をいただきましたので季節の味を味わっていただきたいと思います。お寺での限られた支援ですが続けられるようにしたいと考えています。

また、年2度回収の古本勧進での古本も募集しています
今回は8月末までに集まった古本を寄付させていただきます。
不要になりました古本がありましたらいつでもお寺にお持ち込みください。
対象の本は、裏表紙にバーコードのあります文庫本・新書本・単行本です。
申し訳ございませんが、週刊誌・雑誌・百科事典・全集は対象外です。
本以外、書き損じのハガキ・不要なCDも受け付けています。

 

8月の初盆総回向

8月の初盆の総回向が終わりました。7月の総回向から1ヶ月後ですが、夜の訪れが少し早くやってきます。また日中はまだまだ暑いですが朝晩は秋の訪れを感じることもあります。妙華寺では、初盆のお勤めを7日に火入れと称してご自宅でお勤めをしてお盆中(13日から15日)にお寺にご法名をお持ちいただき、23日までお寺でお勤めをしています。23日の最後のお勤めを総回向と称して午後7時からお勤めしています。近くのお同行様はお越しいただきますが、最近は、後を継がれた方が遠方にお住まいの方も増えてご参加がかなわない場合もございます。
お勤めの後に、「高田派のお給仕」のビデオを見て頂いています。ご自宅にありますお仏壇の作法を改めてご確認していただいています。

また、毎月(正月を除く)第1日曜日午前7時30分からの日曜学校では、平素のお勤めを参加者の皆様と一緒にしています。知らないうちに作法についても学べますし疑問などにもお答えしています。ご都合がつきましたらご参加ください。

ひとくち法話

親鸞聖人のご生涯をとおして
【第17回】板敷山弁円の改悔
親鸞聖人の関東での生活は、草庵のある常陸(ひたち)国を中心にして各地に出かけ、念仏の教えを広めるのが日課でした。
この地方には昔から、修行によって呪術を学び、加持祈祷(かじきとう)をする修験道が盛んでした。板敷山(いたじきやま)には、その山伏たちが修行する護摩壇までもありました。修験道は、祈りによって病気や災難、不幸を除き、欲望を満たそうとする教えです。しかし聖人の説く念仏は、修験道とは相容れない仏の教えですから、聖人の熱心な布教によって加持祈祷をたのむ人が減っていくので、山伏達はにがにがしく思っていました。
聖人49歳の秋のことです。山伏弁円は、聖人をこらしめようと板敷山で待ち伏せしましたが、すれ違いばかりで出会えず、ついに聖人の草庵まで乗り込んできました。そして、大声で「親鸞おるか!出てこい」と怒鳴りました。
このただならぬ声を聞いて玄関に出られた聖人は、何の気構える様子もなく、静かな態度で応対されました。この聖人の和顔に接した弁円は、今の今まで持っていた聖人への敵意や害心がいっぺんに消えてしまい、とたんに庭上に座して、聖人のおん前にひれふしてしまったというのです。これが有名な板敷山弁円のお話です。
弁円は、お念仏に生きる聖人こそ生身の仏さまであるとあがめ、刀杖を捨て改悔涕泣して弟子となりました。のちには明法房という僧名まで賜って、生涯聖人のお膝元で聞法にはげまれることになったのです。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

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本山清掃奉仕【事前案内】

本山清掃奉仕【事前案内】
3~4年に一度、高田本山の清掃奉仕をお願いしています。今年は10月10日(火)【10月の連休明け】が妙華寺の当番日になりました。ご奉仕いただける方は、当日午前8時に妙華寺に集合いただきそろって高田本山に行き、午前中本山内の清掃をご奉仕させていただき、昼食となります。
その後、妙華寺まで一緒に戻り解散させていただく予定です。
ご多用ではありますがご参加をお待ちしています。昼食の準備などの都合で9月25日までに、ご奉仕いただけます方は妙華寺までお知らせください。
※これまで、お世話方様・婦人会の幹部様にお願いしていましたがお同行の皆様の中でご都合がよろしければ是非ともご参加していただければと思います。
お彼岸のご案内の時に、依頼文を同封させていただき、ご奉仕をいただける方のお名前をご記入の上、9月25日までにお寺にお申し込みください。
また、お寺のHPからもご申込いただきましても結構です。

【緊急案内】

北側の水屋のポンプの柄が無くなりましたので使用できません。
ご迷惑をお掛けしますが、南側の水屋をお使いください。

正午にポンプの柄が見つかりました。お使いいただけます。

 

和讃

和讃をご紹介いたします。和讃について多くの参考書がありますが、『注解 国宝 三帖和讃』常磐井鸞猶著と『浄土高僧和讃講話』川瀬和敬著より紹介します。

浄土高僧和讃 天親讃9首

信心すなわち一心なり 一心即ち金剛心
金剛心は菩提心 この心即ち他力なり

この他力真実の信心は、即ち天親菩薩の言う一心に他ならぬ。
一心はつまり善導の言う金剛心であり、それは即ち涅槃に至らんとする菩提心であって、この心こそ、凡夫の自発心ならぬ如来廻向の願力である。

※金剛心は、他力の信心は、金剛のように堅固であるから言う。善導の「散善義」に出る言葉。
※菩提心は、 金剛心によって浄土へ生まれるのであるから菩提心である。
以上 【注解 国宝 三帖和讃 常磐井鸞猶著より】

第8首の「他力真実の信心」を受けて、この信心は、天親論主が凡夫に分かる形を示して、二心なき一心なのだ、というのです。信ずる心といっても、きめてがつかみにくいので、これを一つの心と言い当てたのは、かたじけない表現だというのです。超絶したものを受けとめるのは、これしかないのです。
信心はどういうものであるかといえば、一心としてとらえられるものであり、善導大師のいう金剛心なのです。これは自力の我が頑固に見えているが無残にこわれていくのとちがって、一心は柔軟(にゅうなん)心ですから、人間の事情に左右されるものではないということです。この金剛心こそ、われをして仏にならしめる菩提心でありまして、この心はそのまま他力です。これによってみれば、別に菩提心をおこさずとも、おこす力がなくとも、廻向の信心が菩提心のはたらきをもっているのです。しかも他力を信ずるとか、他力によって信心を得るとか、他力と信心とが別立ではなく、信心がすなわち他力そのものです。他力と信心が二つでないところに、一心の重さを見ることができます。(以下省略)
以上【浄土高僧和讃講話 川瀬和敬著より】

 

50回忌

飛騨川バス転落事故50回忌
大きな災害や事故の後、ご遺族や関係者から「忘れないで」と聞く、「忘れない」と思いながら年月が経過するにつれ「忘れている」自分がいる。私(住職)が12歳の8月18日に起きた飛騨川バス転落事故の50回忌が今年に当たる。先日、当時のお同行様の子どもさんの四人家族の50回忌をお同行の先代ご夫婦(50回忌にあたるご家族のご両親)、今のお同行のご主人(兄)も既にご往生されている中で、当時を知るお同行(兄嫁)様とその娘さんと一緒にお勤めしました。
私(住職)は、事故のことはテレビや新聞で知りましたし、お同行様の子どもさん家族が事故でご往生されたことも、先々代の住職や先代住職からお聞きはしていましたが、当時のお寺での葬儀のことやその後の年忌はその時の住職がお勤めをしていましたので、恥ずかしいことですが覚えていません。大切な方が突然この世からいなくなる、それも家族全員が。自身のことで無くても胸がしめつけられる気持ちになります。色んな思いが過ぎる中で最後は、亡くなられた方々のことを思い手を合わせていただくことしか出来ない私(住職)でしかありません。ご往生されて49年を迎える中でご遺族のお気持ちにどのように向き合わさせていただくのか、ご遺族の大きな悲しみが親鸞聖人のみ教えにより生きていく中での糧としてお伝えできているのかいつも思うことであります。

 

※飛騨川バス転落事故は、1968年(昭和43年)8月18日に、岐阜県加茂郡白川町の国道41号において生じたバス事故である。乗鞍岳へ向かっていた観光バス15台のうち、岡崎観光自動車(のちに合併により名鉄東部観光バスを経て現在は名鉄観光バス岡崎営業所となっている)所有の2台のバスが、集中豪雨に伴う土砂崩れに巻き込まれて、増水していた飛騨川に転落し、乗員・乗客107名のうち104名が死亡した。日本のバス事故史上における最悪の事故となった。

8月のお盆

 

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8月のお盆勤めも終わりました。今年は天候が不安定で、7日の初盆は台風の影響があり、11日12日は夕立があり、15日も午後から雨でした。8月のお盆勤めは、夏休みの関係で子どもさんも一緒にお仏壇の前で手を合わすご家庭が多いのは7月のお盆勤めではあまり見かけない光景です。最近は生活空間の中で坐る機会が少ない中、ご両親や、御祖父祖母様と子どもさんが一緒に正座をされている姿を見るとほほえましく思います。お仏壇の前で家族と共に手を合わせられたことをずーとは覚えていなくても、子どもさんが成長され、子どもさんにもご自分のお子さんと一緒に手を合わせる頃にきっと思い出されることと思います。また8月のお盆は、ご遠方からお墓参りに多くの方がお見えになります。今年は暦で13日が日曜日でした、この日は終日お寺の駐車場がいっぱいで迷惑をおかけしました。また、住職は、お同行様宅でのお盆勤めでお寺にいない時間が長く、お墓参りに一緒にお勤めをできませんが、後日お墓でお盆勤めをさせていただいています。
また今年は、知人のお寺のご住職様が作られた「おぼんのおはなし」の冊子をお配りしながら、都会の仏教に親しんでない方は、「お盆=休み」としてとらえられている方もあるようでお盆の由来を分かりやすく紹介してあります。そのことを踏まえて、真宗のお盆のとらえ方もご案内したいと思いました。
真宗でお盆の法会を歓喜会(かんぎえ)というのは、自分を振り返って慚愧の中に佛恩報謝をさせていただき、その喜びを信心歓喜しお念仏申すことだとお聞かせいただきます。
親鸞聖人は「歓喜」というは、「歓」は身のよろこびで、「喜」は心のよろこびと解説されています。身も心もよろこぶという大変なよろこびを「歓喜」と教えられました。
ではこのような喜びはどんなときにあらわれるのでしょう。親鸞聖人は、「私たちが、佛さまの本願(私たち凡夫を必ずお浄土に救いますという願い)を信じて、お念仏を申す心になったとき、このような大きな喜びが自然にでてきます」と申されました。
すなわち、佛さまからいえば、本願が確かであったという証明であり、私たちからいえば、すべておまかせできたという安堵であり、佛と私が共に喜ぶさまが、歓喜といえます。
また、「歓喜」というのは、私の自力の限りを尽くしても不可能であった人生課題が、佛さまの願いによって氷解した時の喜びですから、日常生活上の喜怒哀楽とは次元の違う大きな喜びであります。

ひとくち法話

親鸞聖人のご生涯をとおして
【第16回】関東への道すがら
建暦元年、親鸞聖人39歳のころ、越後への配流が解かれましたが、唯一の師匠、法然上人の訃報も越後へ届きました。
聖人は深く悲しみ、悩みました。流罪は許されたが、これから何処へ行くべきか、何をすべきか。法然上人のいない京へは今更行きたくもないし、越後に止まる気もない。随分と悩まれました。
そんな時、ひとつの転機が訪れました。もともと、仏法は、「辺鄙の群萌」(田舎の文字も読めぬような人々)を救済すべきものであらねばならないという基本的な考え方があったうえに、恵信尼さまの父の所領が常陸にあったご縁で、家族共々越後より関東へ移られる決心をされたのでした。関東への旅は大変なことであったと思われます。もちろん当時のことですから、徒歩です。この関東への道すがらも、多くの人々との出会いがあったことでしょう。
そのうえ、聖人はかねてから長野善光寺へお参りし、是非ご本尊の一光三尊仏を直接拝みたいという願いを持っていました。
事実、拝んでみると、ありがたいというか、もったいないというか、観音さま(慈悲)と勢至さま(智慧)を脇にはべらした阿弥陀仏の前に座ると、特別の感慨をいただかれたのです。その深い思いは、今まで書物で仏法を学んでいたが、それとは違った思いでありました。この一光三尊仏には、さらに多くの人々が、お念仏を喜んでくださる不思議なお力があるにちがいないと思われたのです。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

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