5月のお茶

5月(立夏)から風炉になります。お茶が最初に振る舞われた場所は書院で、基本は風炉の形式であったと聞いています。佗茶として成立した茶室の炉の部分が作られ、風炉と炉の点前が成立していったのでしょう。
炉から風炉に変わる時、茶室のしつらえも変わります。今はそのような家も少なくなりましたが、障子や襖が夏障子(簾戸)になると一変に気持ちが涼やかになります。
香りも、練香から香木にかわります。炭のサイズも変わります。釜(茶釜)・柄杓・竹蓋置・香合なども変わりますので、炉から風炉に変わる5月と風炉から炉に変わる11月は、準備と片付けであわただしいです。茶道具は、これまでの日常生活で使われていた道具をお茶の道具として見立てたりもしていますが、今の生活では特別なものとなり、日常生活には必要の無いものになっているのでしょう。
初夏の頃は、初風炉の時期で、端午の節句(こどもの日)がテーマの茶会や、今は、「母の日」もテーマになります。裏千家では、5月の連休明けに(伊勢)神宮献茶式があり、薫風の中、凜とした雰囲気が心地よいです。

お寺に伝わった風炉があります。前々住職の使っていた茶室に炉もありましたが、伝来はわかっていません。また、古くからある釜は、錆び付いていたり、水漏れするものもあり使用するのが難しいです。使い続けて伝えていくことは大変なことだと思います。

お寺の5月

お寺の5月
5月は、過ごしやすい時期です。妙華寺として、親鸞聖人の降誕会のお勤めはしていませんが、5月21日に高田本山で降誕会のお勤めがあります。
特別な大きな行事は、5月に行うことがあります。
妙華寺の親鸞聖人ご誕生850年は、令和4年5月に、平成26年の妙華寺の一光三尊仏御開扉法会も、5月にお勤めしました。
以前は、5月18日が親友婦人会の総会日で、婦人会の皆様が行事を行っていました。講演会やお菓子作りをしていましたが、数年前から婦人会活動が休会となり、それを引き継ぐ形で「お寺の講演会」と称して講演会を4回開催していました。コロナ下で集まることも難しく、昨年、再開しましたが、今年は休会となり、今後どうするかあらためて考えていきます。

思い込み

思い込み
普段、そうだと思っていたことが、間違っていたことはありませんか。
先日、連絡を受けた日時を、予定帳に記入するとき間違えた日に記入していて、待っても待っても相手が表れないので先方に連絡するとその日では無かった。本来の日時が空いていたので良かったが、他の予定が既に入っていたらどうなったか。冷や汗ものです。

昨年末、個人のメールアドレスに、知人からメールが遅れないと連絡をいただきました。
受信サーバーが満杯になっていることが原因のようでした。自分のPC内のメールボックスをこまめに削除していても、契約したサーバーの受信サーバーの中を、個人が整理(削除)しないといけないようです。そんなことがあって、お寺のHPからのメールに「あなたのメールボックスがほぼいっぱいです」とメールが届きました。個人のメールで経験していたので、つい「クリアストレージ」から誘導された画面で、パスワードを入力しました。受信サーバーを整理できる画面になると思っていたら何も起こらず。不思議な気分で終了しました。そして、お寺のHPの管理者へ連絡すると、詐欺メールではないかとのことで、新たに設定をしていただきました。
詐欺メールと呼ばれるメールには注意しているつもりでしたが、思い込みのせいでうっかり誘導されました。

いつもしていることで大丈夫と思っていても、思い込みにつけこんだ話には注意しなければいけませんね。

稽古

稽古とは、「古(いにしえ)をかんがえること」から転じて、学問・学習・練習の意味となり、特に、武芸・芸能に使われたそうです。私(住職)は、30歳の頃、お寺の行事などで薄茶をいただく機会に作法に興味を持ち、公民館の講座から稽古を始めました。茶道では、日々是稽古に明け暮れることが大切でありますが、僧侶としては、思うように時間がとれません。
それでも、師匠や仲間に恵まれ35年以上ほそぼそと稽古を続けています。
稽古を続けていると、後輩に対しては教える立場でもあり、師匠(先輩)に対しては教えを受ける立場でもあります。学び続けることが「稽古」であるのかもわかりません。同じ点前を何度稽古しても、気づく事がいくつもあったり、わかってたつもりがそうでなく、いつのまにか自己流になっているのを気づいたり、本当に奥深いものです。
続けることができることに感謝をしなければいけませんが、生きている限り、学び続ける気持ちは持ち続けたいものです。

『三重組13日講』~戦国時代から続く伝統の「講」~

『三重組13日講』~戦国時代から続く伝統の「講」~
浄土真宗本願寺派 東海教区三重組の親戚寺院からお贈りいただきました。

真宗の「講」は、「人を集めて経典等を講釈すること。またその仏事」「信者が集まって法義を話し合い祖師を讃歎する会合やそれを行う組織」講の源流は、親鸞の時代に「22日の御念仏」として法然の月忌に「法会」が営まれたことに始まる。【浄土真宗辞典】

日本仏教が今日まで伝わっていることは、その時代、その時代で伝える努力をされた方々があってはじめて成り立っているものだと感じました。そして、伝える努力を怠ったときにはあっけなく崩れ去っていくもののようにも感じます。

親鸞聖人の著作物などを、現代訳で拝読している私(住職)には、今で言う古文書を読むことは大変難しく、妙華寺に残されている古文書も判読する力がないのが情けないです。

妙華寺の組(そ)では、「講」が存在しないので、話に聞くだけで、実際の活動には思いがいたらなかった「講」の活動が、その地域の土徳になるのではないかと感じられます。
『三重組13日講』は、講に残されている古文書を読むことができる方のお陰で、出来上がった冊子で、貴重な学びになりそうです。

「『なもあみだぶつ』を聞く」ということ

「『なもあみだぶつ』を聞く」ということ 栗原 廣海 著
高田本山の令和5年の開山親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年他の奉讃法会のテーマである「弥陀のよび声『なもあみだぶつ』を聞いていこう」と題して、高田本山だよりに3年間連載されていました12回のコラムをまとめた冊子です。著者は、高田派鑑学の栗原廣海師です。親鸞聖人の「み教え」を高田派の教学として丁寧に紹介されています。

ご承知の通り高田派は、親鸞聖人の直弟が伝えてきた宗派で、親鸞聖人が弟子に与えた直筆本や消息(手紙)の多くの法宝物を大切に歴代上人が伝えています。長い歴史の中で、宗祖(親鸞聖人)の「み教え」が、そのまま伝わることが難しいこともありますが、宗祖の「み教え」に帰って伝えていくことが大切なことと思います。
この冊子では、高田派に伝わる「み教え」を今を生きる私たちによりわかりやすく、より深く紹介していただいていると感じます。
あらためて、親鸞聖人の「み教え」を学ぶテキストだと思います。

※中川個人の感想です

真慧展

真慧展
昨年5月に新しくなった宝物館「燈炬殿」で真慧展が開催されています。
真慧上人の著書『顕正流義鈔』の現代語訳版の出版記念も兼ねています。
高田派では真慧上人を中興上人と尊んでいます。親鸞聖人御誕生850年の奉讃法会で併せて真慧上人500回遠忌も厳修していました。昨年三重県の総合博物館で開催された「親鸞 専修寺の至宝」展でも真慧上人に関する法宝物の展覧がありましたが、今展覧会で初めて披露される宝物もあり、更に学ぶことができました。5月6日まで開催されていますので、ご興味のある方は是非宝物館へ足をお運びください。

真慧上人に関しては、妙華寺の平成26年の研修旅行で滋賀県坂本の西教寺にある真慧上人のお墓に行きました。

【高田派第10世】真慧(しんね)上人 永正9年(1512)10月22日示寂

下野国(現栃木県)の高田門徒の中心である専修寺には、親鸞聖人在世中から三河国に高田門弟の道場(寺院)があったが、更に西の近畿地区に教線を伸ばしたのは真慧上人であった。真慧上人は、北陸および近江国(滋賀県)・伊勢国(三重県)を教化し京都へも進出を図ろうとしている。また、公家社会への接近も顕著である。

『正統伝後集』(五天良空著)によると真慧上人は26歳に下野国高田を出て加賀・越前を経て近江国坂本十津浜妙林院(みょうりんいん)に逗留したという。他の史料からも確認されるので信頼できると思われる。坂本は琵琶湖の要所で比叡山延暦寺の荘園の年貢はここから陸揚げされたので比叡山の外港として、比叡山の里坊の門前町となっている。この地に真慧上人は逗留されたのは、比叡山との接触をはかる為と考えられる。また当時本願寺の蓮如上人も琵琶湖沿岸に教線を延ばしていたため接触をはかったと思われる。

伊勢国には寛政元年(1460)頃に入られ教化されたようだ。近江から伊勢への移動には、蓮如上人との軋轢が生じたのも一因であろう。寛政六年(1465)の比叡山僧徒の大谷本願寺破却事件で、真慧上人は専修寺と本願寺の混同は困るとして比叡山に登山し熱弁をふるい比叡山僧も認めたと伝えられている。その褒賞が専修寺の如来堂の阿弥陀如来像(証拠の如来)とある。

「顕正流義鈔」・「永正規則」・「中陰次第」を撰述、「野袈裟」の創始するなど、高田門徒の諸制度を整備確立し、高田派の中興として崇められている。
「顕正流義鈔」は、真慧39歳の時に書かれた。内容は、顕正と破邪の二部から成り立ち、顕正の部分では、伝統に基づく称名念仏の真実性が述べられ、破邪の部分では、高田門徒に向けられた邪義①念仏して助かろうと思うのは自力である②念仏して助かろうと思うのは第19願の心で諸行往生である③絵像・木像は方便で有り利益はないと言う三箇条の非難と相丞論に対して反論している。本書が執筆された文明4年は、本願寺8代蓮如が越前吉崎で独自の教化活動を展開し勢力を拡大している時期で、また真宗各派の対立が顕著になる時期でもあった。このような背景の中、高田の伝統流儀を高揚したのが本書である。
「永正規則」は永正元年(1504)真慧71歳の時に発出した御書で、真慧の教化態度が端的に示されている。右筆門弟に筆記させ、末尾に真慧が花押を書き加える。北陸での教線拡張にあたり本願寺との緊張関係が高まる時期に門弟にあてた四箇条からなる条文で門弟の心構えを誡め、本寺崇敬の心を忘れず、阿弥陀如来の本願を信じ、念仏を称えよと説き、そのプロセスを「一本寺、二善知識、三信心、四念仏、是肝要也」と結んでいる。

真宗入門講座

真宗入門講座
高田本山は、穏やかで桜がきれいな日でした。
昨年から始まった高田本山に伝わる「親鸞伝絵」の各段の紹介が続いています。
今回は、「師資遷謫(ししせんちゃく)」の段です。
法然門下に法難がふりかかりました。私(住職)が高校時代の教科書で鎌倉時代に新仏教の1つとして専修念仏集団が取り上げられますが、これまでの顕密仏教が中心の時代であったと今では認識されています。顕密仏教側から法然の教えへの異議が朝廷に提出され、死罪の者も出ましたが、法然聖人をはじめ、親鸞聖人も流罪になりました。その時の話です。
親鸞聖人が流罪になった理由は定かではありませんが、越後の国府にいかれたことは事実です。また、この法難について『教行証文類』の後序で、親鸞聖人の思いが述べられています。非僧非俗で「愚禿(ぐとく)」と名乗られたのもこの頃から時です。

今年の真宗入門講座4回が終了しました。次回は来年の1月からとなりますので、心待ちにしています。

お寺とは④

お寺とは④ 伝えることの難しさ
3月23日の中日新聞カルチャー紙面で、鷲田清一氏の「時のおもり」を拝読しました。時あたかも、年度末の送別の行事のことから、鷲田氏が経験した大学での告辞の思い出から、多くの卒業生に、言葉を届ける難しさを語られている。「(前略)・・・言葉が届かないもっと根本的な理由はほかにある。聴く人は、そもそも同じ思いでそこに臨んでいるわけではない。そういう人たちに一律に同じ言葉を届けるというのはどだい無理な話だし、また正しいことではない・・・(後略)」その後、「ふーん」という感覚を残せるかどうかにある。と話が進む。
このコラムを読んで、私(住職)は、お寺で仏教や親鸞聖人の教えを伝える難しさとも同じようだと感じてしまいました。私(住職)は鷲田氏のような研究家でもないし、専門的な教育を受けたわけでもないので私自身がもっと学ばなければいけない立場ですが、生活者が求めている仏教や親鸞聖人の教えもさまざまな考え方であるし、仏教の教えとは離れていることをお寺や僧侶(宗教者)に求められる場合もあります。

また、生活者に仏教や親鸞聖人の教えが必要なのかと言えば、はっきり必要と断言できるものでない気がします。必要とする人に伝えていくことが普通ではないか。届かないなら、届かないでも良いのかもしれない。私(住職)にも、仏教や親鸞聖人の教えが届いていたことに気づけるときが来たように、今必要でない人にも必要と思える時に届けられるようにも思うこの頃です。

4月のお茶

4月は、桜や花祭りのテーマや新年度ですので旅立ちや出会いのテーマの茶会をよく聞きます。
そして、暖かい日も続き、半年続いた、炉の最後の月です。五徳がない炉で、暖かさを感じさせない工夫として、透木釜が使われます。また、炉の名残りの月です。
炉の時期の花は、椿が主になります。11月から4月までの間に咲く椿を数種類用意するのは大変です。年によって花が咲く時期も微妙に違い、開炉の頃や名残の頃の椿には苦労します。

お寺では、花祭りの行事があります。誕生仏に甘茶を濯ぎお祝いをします。
待合に誕生仏を荘るのも喜ばれます。

※透木は、風炉でも使われます。