お寺とは④

お寺とは④ 伝えることの難しさ
3月23日の中日新聞カルチャー紙面で、鷲田清一氏の「時のおもり」を拝読しました。時あたかも、年度末の送別の行事のことから、鷲田氏が経験した大学での告辞の思い出から、多くの卒業生に、言葉を届ける難しさを語られている。「(前略)・・・言葉が届かないもっと根本的な理由はほかにある。聴く人は、そもそも同じ思いでそこに臨んでいるわけではない。そういう人たちに一律に同じ言葉を届けるというのはどだい無理な話だし、また正しいことではない・・・(後略)」その後、「ふーん」という感覚を残せるかどうかにある。と話が進む。
このコラムを読んで、私(住職)は、お寺で仏教や親鸞聖人の教えを伝える難しさとも同じようだと感じてしまいました。私(住職)は鷲田氏のような研究家でもないし、専門的な教育を受けたわけでもないので私自身がもっと学ばなければいけない立場ですが、生活者が求めている仏教や親鸞聖人の教えもさまざまな考え方であるし、仏教の教えとは離れていることをお寺や僧侶(宗教者)に求められる場合もあります。

また、生活者に仏教や親鸞聖人の教えが必要なのかと言えば、はっきり必要と断言できるものでない気がします。必要とする人に伝えていくことが普通ではないか。届かないなら、届かないでも良いのかもしれない。私(住職)にも、仏教や親鸞聖人の教えが届いていたことに気づけるときが来たように、今必要でない人にも必要と思える時に届けられるようにも思うこの頃です。