平和の鐘 8月15日正午から1時間 撞きます

平和の鐘

終戦記念日に戦没者の追悼と世界平和・今年はコロナ禍の収束に向けてお寺の鐘をつきませんか。
「津がつながる津ぅりずむ」が主催し、津市内にある鐘を撞き「戦没者の追悼と世界平和を祈念する」ことをはじめ3年目になります。(昨年は台風の影響で当日中止となりました)
今年の主会場は、久居幸町の「子牛(とき)の鐘」です。
妙華寺も賛同し終戦記念日の15日(土)正午から13時までの間、一分間の黙祷の後、鐘をつきます。どなたでも参加できます。

※新型コロナウィルスの感染拡大防止の件について、様々な意見があることは重々承知しておりますが、最終的にはお寺の住職の判断で、開催を考えています。
ご参加されます方は、風邪の症状や高熱の方はご遠慮いただきます。
マスク着用で距離をとってお並びください。アルコール消毒などの用意はさせていただきます。
とはいえ、決して不安や不満を抱えながら参加する催しでもありません。
どうかご無理ない範囲で参加のご検討をいただきますよう、よろしくお願いいたします。
※また、暑い時期ですので熱中症にもお気をつけてください。

7月の聞法

7月の聞法

7月に入るとお盆月になり時間がとれませんが、オンラインでの勉強会やセミナーは、時間さえ合えば参加できる点がうれしいです。

オンライン勉強会 「高齢者ケア」の事例シュア
お寺の「高齢者ケア」はそれこそ随分以前からそれぞれのお寺が工夫してお寺の行事や地域の行事として存在していたと思います。私のお寺でも名前は「婦人会」とある任意団体に集まる方々は、各家庭のおばあさんに当たる世代の方です。今は、親子の別世帯化や高齢化が進むと同時に世代交代が難しくなり、これまで活動されていた会員も高齢の為に参加もできないままの名簿会員が増えることが起きています。妙華寺でももう一度「高齢者ケア」の枠組みを考えて行きたいと思っていました。
新しい取り組みとして、「高齢者ケア」に力を入れている行政と連携して、お寺で「高齢者ケア」をされている事例とお同行様のご家庭に電話で関係性を深める取り組み事例を紹介していただきました。私(住職)の中では、お同行様のご家庭と関係性を深める取り組みは、直ぐ「高齢者ケア」と結びつきませんでしたが、よく考えて見ると住職(お寺)とお同行様の関係が近いこと自体が高齢者だけでなくお同行や地域の方の「ケア」になっていることがわかってきました。用事がある時だけ電話で連絡をするのではなく、なにげないも話ができる関係性はとても大切なことでありますがそれを築くまでの道のりは長いものと思います。住職個人としては長い道のりではありますが、お寺として考えるならこれまでの住職(お寺)が培ってきた関係性の上に築かれていくものでありますので、「ゼロ」からの出発ではなくこれまでの関係性をより深めていく形であると思いました。
※中川個人の感想です。

ENDEX オンラインセミナー
【7月6日ENDEX】「withコロナ時代からアフターコロナ時代の寺院の未来とは?三密を避け、人々寄り添えない時代の寺院経営の今後を考える」をテーマに(株)寺院デザインの代表の薄井 秀夫氏と大正大学地域構想研究所の研究員小川 有閑師が、新型コロナウィルス感染症で緊急事態宣言が発出されている中全国の寺院にそれぞれ独自のアンケート調査【(株)寺院デザインのアンケート回答寺院は87ケ寺、大正大学地域構想研究所のアンケート回答者は、517人(ケ寺)】の回答から今、寺院を取り巻く課題や未来を語られました。これからの寺院の取り組みにも参考になる貴重な時間でした。
※今回共有されましたアンケート調査結果(報告)は、(株)寺院デザインと大正大学地域構想研究所のHP上に掲載されています。
これまでオンラインの講演や研修などに参加していましたが、今回のENDEX主催のオンラインでは、個人情報がとてもしっかり守られている点が良かったです。
※中川個人の感想です。

7月のおてらおやつクラブ

7月のおてらおやつクラブ
今月も、先月同様3つの支援団体様へ20日に2団体、22日に1団体へ「お供え」を「おすそ分け」させていただきました。
7月に入り全国で梅雨豪雨で被災されました地域の皆様にお見舞い申し上げます。また、お亡くなりになりました方々にお悔やみ・追弔させていただきます。
まだ梅雨は明けていませんが、暑い日が続いています。例年なら夏休みが始まっている子どもさんも今年はいつもより少ない夏休みになるのかな。
おてらおやつクラブの活動が一助にでもなれば有難いです。

また、年2度回収の古本勧進での古本も募集しています。
今回は8月末までに集まった古本を寄付させていただきます。
不要になりました古本がありましたらいつでもお寺にお持ち込みください。
対象の本は、裏表紙にバーコードのあります文庫本・新書本・単行本です。
申し訳ございませんが、週刊誌・雑誌・百科事典・全集は対象外です。
本以外、書き損じのハガキ・不要なCDも受け付けています。

お寺の掲示板

お寺の掲示板
自分の「愚かさ」に気づく人、気づかない人

『大往生できる人 できない人』潔く、とらわれず、おまかせして生きる 田畑正久著 から

著書では、私たちの「理性の目」は、煩悩によって汚れています(我々は、そのことを認めたくありませんが) この汚染された理性や分別によって「真理」が見えなくなっていることを、仏教では「無明」と言うのです。無明とは、明るさがないことです。私たちは明るいと思っていても、煩悩に汚れているから明るくない。けれどそのことに気づかないわけです。と続いています。
(中略)理知分別を超えた仏の智慧に出遇うと、自然と「仏におまかせしております」と1日1日を精一杯生きるように転じます。
それはすでに仏の世界に通じて生きているわけです。
そういう世界に出遇える時に、私たちは、人間に生まれたことの意味、そして生きることの物語に気づかされます。
仏の智慧の発想では「私が生きている」ではなく「生かされている」ことに目覚めるのです。生かされていることが感得できれば、生かされていることで果たす私の役割、使命への気づきになります。そして、この世での役割が終わる時、仏へおまかせする世界が開かれるのです。

※高校・大学の頃でしょうか「生かされている」ことが分かっていませんでした。一人で大きくなった気持ちでいました。自分が生まれた時のことを覚えているわけでありませので、子どもの姿を見ながら「生かされている」ことを教わったことと思います。

草履で歩く

草履で歩く(お盆のお勤め)
今回もお盆のお勤めでのことです。和装の履物の草履や下駄は、足の親指と人差し指の付け根で鼻緒を挟むようにようにして歩行します。私(住職)は、お寺のお手伝いを始めた大学の頃から40年以上草履を使っています。
草履を履き慣れていると思っていましたが、今年の7月のお盆は13日と14日が雨で、共に午前中傘をさして歩いてお同行様の自宅に伺いました。(午後からは車を使いました)歩いた距離は2日合わせて5キロほどで一度にではなく、一軒一軒お勤めをしてでありましたが、14日の夜は足の親指と人差し指の付け根がとても痛く感じました。考えて見ると草履で何キロも歩くことはこれまでそれほど経験していませんでした。
遠くに行くときは、電車や車を使い到着した所から少し歩いたり、自転車で玄関前まで乗っていくなど草履で歩く距離はしれたものでした。
そういえば、去年3月に参加した「Life Walk」で三条のお寺から東山のお寺まで行進したのが一番長い距離を一度に歩いた時でやはり痛みを覚えたことを思い出しました。

ホンモノにあう

ホンモノの迫力
私(住職)は、年に2・3度、興味がある展覧会に行くことを楽しみにしています。
ガラス越しではありますが、ホンモノの迫力を感じることは、専門家のような見る目もありませんが、心に迫るものを感じます。国宝や重要文化財に指定されている「ホンモノ」は大変貴重なもので大切に扱われる為、精密な複写品が作られます。見た目では「ホンモノ」と変わりないものですが、「ホンモノ」にしか醸し出すことができない味わいが私たちを惹き付けるのだと感じています。
今年は、COVID-19(新型コロナウィルス感染症)の感染拡大防止の為、多くのミュージアム(博物館や美術館)での展覧会が中止や延期になっていました。インターネットを通じて公開したり、7月に入り、徐々にではありますが、新しい生活様式にかなった展覧会の開催も始まりました。
私(住職)が興味がある分野の展覧会は、国立博物館などで開催されます規模の大きな特別展覧会などは、数十年に一度ですが、毎年、粒選りの企画展を開催されているミュージアム(博物館や美術館)もたくさんあり、興味深く楽しみにしています。
真宗の「み教え」を喜ぶ私たちは、私のお寺の所属する高田派本山の専修寺が所蔵しています国宝や重要文化財に指定されている親鸞聖人のご真筆のなどの法宝物を拝見できることが大きな喜びの1つです。
毎年2回(お七夜と夏季仏教文化講座)の展示期間には、その時々の企画展も楽しみにしていました。昨年から、これまでの宝物館(展示室)・所蔵庫を新しくすることの計画が進んでおり、立て替え中ですので法宝物を拝見するには3年ほど待たなくてはいけません。
今は、「ホンモノ」を拝見することはかないませんが、ミュージアム(博物館や美術館)から出版される「図録」は、解説も詳しく、私の好奇心を満たしてくれます。

「不寛容」・「同調圧力」から「偏見と差別」

「不寛容」・「同調圧力」から「偏見と差別」
今、全世界の人々がCOVID-19(新型コロナウィルス感染症)の不安におののいています。
新しい生活様式の1つにマスクの着用があります。COVID-19(新型コロナウィルス感染症)が流行しだした頃から「マスク」の有効性も強調されていますので、これからも生活の中でも無くてはならない物ですが、夏場に向かう今、熱中症のことを考えると四六時中着用することが必要であるのか私の中では疑問符がついています。

私(住職)が家(お寺)に居るときは、これまで通りマスクを外して生活をしています。玄関での対応もおよそ2mは離れていますし、本堂のお勤めも、内陣(住職)と大間(参詣者)の間は2m以上離れています。お墓参りは距離が取れないのですが同じ列で同じ方向を向いています。境内地の掃除も1人ですし、お墓参りの方に会っても2m以上空いています。そのような生活をしながら、人混みがある場所、日常品を買いにスーパーに行ったり、緊急事態宣言が解除後、電車にのったり、デパートに行く場合や自宅でのお勤めで車で送り迎えしていただく時も、仏間に入る時もマスクはしています。人と人の距離が近いと気になります。
日常生活のある場面ではマスクを着用する私(住職)ですが、通夜・葬儀でセレモニーホールに1人で自家用車で行く場合は、マスクをしていません。お勤めの始まる前の六畳か八畳の控え室にぽつんと1人います。セレモニーホールで私がお勤めで着席する場所とご遺族や会葬者が着席する場所は2m以上離れていますし、同じ方向を向いています。何よりマスクをしてお勤めすることは私にはしんどくてできません。セレモニーホールの従業員さんもご遺族も会葬者も全てマスクをしている中で私(住職) 1人がマスクをしていない異様な光景です。
自分と他者が違うことに「寛容」か「不寛容」あるいは「同調圧力」を感じるかどうか人それぞれです。自分の中で勝手によかろうと思っているので、私はそれほど思っていませんが、マスクをしていない私のことを協調性のない輩とか非常識な僧侶と思っている人もいるでしょう。
そして、「不寛容」の気持ちが強い場合や「同調圧力」により、多くの人と違う状態を好ましく思わない場合に「偏見・差別」が生まれることもあります。
勿論これからも、マスクの着用をしながら、密閉・密集・密接は避けなければいけない時期が続くのだと思います。その中でマスクを着用していないことを取り上げて、「非難」や「偏見」「差別」することは避けたいと感じています。私と他者の違いを認める多様性を受け入れる心でありたいものです。

お寺の掲示板

お寺の掲示板
「臨終の言葉」を残すのは不可能だと心得ておく

『人は人を救えないが、「癒やす」ことはできる』 谷川洋三著から
著書は続いて、死の間際に伝える臨終の言葉ですが、末期がんの患者の場合に、その言葉を残すのはかなりむつかしいこと。伝えたいことは早めに伝えましょう。

「最期のとき」とはいつのことなのでしょう? 心臓が止まった時点からどのくらい前までをいうのか定かではありませんが、亡くなる数日前に話したことでも、臨終の言葉と表現できるでしょう。私が伝えたいこのは、臨終の言葉を残せる可能性は少ないのだから、伝えたいことはできるだけ早く伝えておきましょうということです。

※入院中の父の最期もそばに居ることができませんでした。それでも家に居るとき「ありがとうな。後はたのんだ」と言う言葉が、私(住職)への臨終の言葉と思っています。「頼まれた」ことが出来ているのかはわかりませんがいつも心から離れません。

お寺も窮状 布教伝道活動支援金

お寺も窮状

COVID-19(新型コロナウィルス感染症)の感染拡大防止の為、お寺の行事も中止を余儀なくされています。お寺は、アミダさんの「はたらき」を喜び合うことで、安心して1日1日を過ごさせていただくことを共に多くの皆さんが「集う場」として成立しているのだと思います。
一人でも喜ぶことはできますが、共に喜ぶことにより、更に喜びが増していくような「場」であるからです。
妙華寺でも、大切な「場」をCOVID-19(新型コロナウィルス感染症)の感染拡大の「場」にしてはいけない想いでお寺の行事である4月の「春千部会」(住職や法中のお勤めは例年通りしましたが、ご参詣いただくことをご遠慮いただきました)や5月の「お寺の講演会」を中止しました。
お寺の行事も、これからの新しい生活様式にかなった「集う場」を考えています。
「秋彼岸会」までには、参詣者の検温・手指の消毒や飛沫感染予防を取り入れて、参詣される皆様の「不安や心配」がない本堂の設営に取り組みます。

この取り組みには、高田派の共済会(高田派の一般寺院の拠出金で成立)から各寺院に給付されました「布教伝道活動支援金」を充当させていただきます。

安心と安全

安心と安全
最近、日常生活の中で「安心・安全」と言う言葉が気になります。
国語辞典で安心(あんしん)は、「気にかかる事がなく、またはなくなって、心が安らかなこと」「物事が安全・完全で、人に不安を感じさせないこと」
安全は、「危なくないこと」「物事が損傷・損害・危害を受けない、または受ける心配がないこと」とあり、私(住職)は「安心」は、精神的な面で「安全」は身体的な面で不安や心配を感じさせないことと捉えたいです。
この「安心」「安全」という言葉から私(住職)が、まず思い浮かべるのは医療機関です。 病気でまさしく「いのち」を預ける場所です。精神的にも身体的にも不安や心配を感じさせないことが一番の大切な場所です。先日、歯科医院に行った帰りに、「新型コロナウィルスに関して歯科受診者、歯科受診をご検討の皆様へ」というレジメをいただきました。その歯科医院の「安全・安心」の取り組みが書かれてあり、歯科医師他スタッフの健康管理は勿論のこと、治療の内容で不安や心配が生じることがないように説明されています。治療室の空気清浄機も、一般家庭のものでなく医療機関専用のものでウイルスのような浮遊物質も除去できるそうです。そして次に理髪店を思い浮かべます。ハサミやカミソリが私の肌に接していることはある面「いのち」を預けている状態と考えてしまいます。それなのに同じ理髪店に通い続けていると顔を剃っている間に眠ってしまったりすることもあります。
医療機関も理髪店も相手に「不安や心配」があれば成り立たない「場」であります。

そして、お寺は「安心な場(精神面で不安や心配を抱えながら、このままの私でよかったとうなづくことができる場)」であると私(僧侶)は思っていますが、はたして生活者の皆さんには、どう映っているのでしょうか。
「私の不安な心を、仏さんは、そのままでも大丈夫ですよ」と常にはたらきかけていらっしゃる「場」がお寺と思います。普通に生活されている皆様には、とっつきにくく、少し聞いただけではうなづくことが難しい「み教え」や「法話」の為、今の時代お寺は避けてしまう場所であったり、生活者には関心(関係)のない場所とも感じていらつしゃるのではないでしょうか。
お寺は、1人1人の「限りあるいのち」のあなたのままで、しっかりと「安心」してよいのですよとお伝えする「場」です。
お寺は敷居が高くて入りづらいとのお声もお聞きしますが、あなたが、もし少しの勇気を振り絞っていただくことができれば、あなたの不安や心配に対して、仏様のはたらきをお伝えして「安心」できる日々を喜ぶことができる「場」になります。今は、電話やメールもございますので、直接お寺に足をお運びいただくこともできない場合でも対応させていただくこともできます。
お寺に何を求められているかは、人それぞれです。お寺で対応できないこともある場合もございますが、あなたが求めることに真剣に耳を傾けています。

※仏教では、安心(あんじん)は、「心を一処に安置して不動なこと。安定した心のこと」