お寺の掲示板

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自分の「愚かさ」に気づく人、気づかない人

『大往生できる人 できない人』潔く、とらわれず、おまかせして生きる 田畑正久著 から

著書では、私たちの「理性の目」は、煩悩によって汚れています(我々は、そのことを認めたくありませんが) この汚染された理性や分別によって「真理」が見えなくなっていることを、仏教では「無明」と言うのです。無明とは、明るさがないことです。私たちは明るいと思っていても、煩悩に汚れているから明るくない。けれどそのことに気づかないわけです。と続いています。
(中略)理知分別を超えた仏の智慧に出遇うと、自然と「仏におまかせしております」と1日1日を精一杯生きるように転じます。
それはすでに仏の世界に通じて生きているわけです。
そういう世界に出遇える時に、私たちは、人間に生まれたことの意味、そして生きることの物語に気づかされます。
仏の智慧の発想では「私が生きている」ではなく「生かされている」ことに目覚めるのです。生かされていることが感得できれば、生かされていることで果たす私の役割、使命への気づきになります。そして、この世での役割が終わる時、仏へおまかせする世界が開かれるのです。

※高校・大学の頃でしょうか「生かされている」ことが分かっていませんでした。一人で大きくなった気持ちでいました。自分が生まれた時のことを覚えているわけでありませので、子どもの姿を見ながら「生かされている」ことを教わったことと思います。