安心と安全

安心と安全
最近、日常生活の中で「安心・安全」と言う言葉が気になります。
国語辞典で安心(あんしん)は、「気にかかる事がなく、またはなくなって、心が安らかなこと」「物事が安全・完全で、人に不安を感じさせないこと」
安全は、「危なくないこと」「物事が損傷・損害・危害を受けない、または受ける心配がないこと」とあり、私(住職)は「安心」は、精神的な面で「安全」は身体的な面で不安や心配を感じさせないことと捉えたいです。
この「安心」「安全」という言葉から私(住職)が、まず思い浮かべるのは医療機関です。 病気でまさしく「いのち」を預ける場所です。精神的にも身体的にも不安や心配を感じさせないことが一番の大切な場所です。先日、歯科医院に行った帰りに、「新型コロナウィルスに関して歯科受診者、歯科受診をご検討の皆様へ」というレジメをいただきました。その歯科医院の「安全・安心」の取り組みが書かれてあり、歯科医師他スタッフの健康管理は勿論のこと、治療の内容で不安や心配が生じることがないように説明されています。治療室の空気清浄機も、一般家庭のものでなく医療機関専用のものでウイルスのような浮遊物質も除去できるそうです。そして次に理髪店を思い浮かべます。ハサミやカミソリが私の肌に接していることはある面「いのち」を預けている状態と考えてしまいます。それなのに同じ理髪店に通い続けていると顔を剃っている間に眠ってしまったりすることもあります。
医療機関も理髪店も相手に「不安や心配」があれば成り立たない「場」であります。

そして、お寺は「安心な場(精神面で不安や心配を抱えながら、このままの私でよかったとうなづくことができる場)」であると私(僧侶)は思っていますが、はたして生活者の皆さんには、どう映っているのでしょうか。
「私の不安な心を、仏さんは、そのままでも大丈夫ですよ」と常にはたらきかけていらっしゃる「場」がお寺と思います。普通に生活されている皆様には、とっつきにくく、少し聞いただけではうなづくことが難しい「み教え」や「法話」の為、今の時代お寺は避けてしまう場所であったり、生活者には関心(関係)のない場所とも感じていらつしゃるのではないでしょうか。
お寺は、1人1人の「限りあるいのち」のあなたのままで、しっかりと「安心」してよいのですよとお伝えする「場」です。
お寺は敷居が高くて入りづらいとのお声もお聞きしますが、あなたが、もし少しの勇気を振り絞っていただくことができれば、あなたの不安や心配に対して、仏様のはたらきをお伝えして「安心」できる日々を喜ぶことができる「場」になります。今は、電話やメールもございますので、直接お寺に足をお運びいただくこともできない場合でも対応させていただくこともできます。
お寺に何を求められているかは、人それぞれです。お寺で対応できないこともある場合もございますが、あなたが求めることに真剣に耳を傾けています。

※仏教では、安心(あんじん)は、「心を一処に安置して不動なこと。安定した心のこと」