お寺の掲示板

お寺の掲示板
世話になることに「申し訳ない」と思わなくてもいい

『人は人を救えないが、「癒やす」ことはできる』 谷川洋三著から
著書は続いて 病気になると、人の世話を受けなければならない場面が多くなります。
申し訳ないと思う気持ちはわかりますが、素直に援助を受けることが大切です。

一方的に世話をしてもらうのが嫌ということでしたら、人はどんな状態になってもできることがたくさんあるのを思い出してください。目に見えない形でも、たくさん返しているのです。申し訳ないと思ったとしても、自分はちゃんと恩返しできているのだと考えてほしいです。たとえ死の間際になっても、誰もが通「死」という道を、先輩として示しているわけですから、それだけでも十分だといえます。

※私(住職)も他者に世話になることに素直になれないのですが、そんなことお構いなく他者にお世話になっていることを忘れているだけなんです。どうして忘れているのだろうと考えると、ヘンな自尊心があるからです。少し考えたらわかることなのに。

額装の修復

額装の修復
今年の1月から2月にかけて本堂附属の東楽(がく)の間の改修をしていました時、「発祥」の額装が傷んでいました。高田本山の第21世堯煕上人の筆でありました。改めて額装を修理しました。改修をしました東楽の間に掲示する予定です。

疑う心

疑う心 悲しい話
私(住職)が小学生に入った頃は、「知らない人に道を尋ねられたら、教えてあげなさい」と「善意」は大切なことと学校で教わった。今の時代も「善意」が大切なことは変わらないが、私の子どもが小学生に入った頃は、「知らない人に道を尋ねられても、ついて行かないこと」と親も、学校も注意していた。
前々住職や住職が健在だった頃は、今より少し寂しげなお墓でお墓参りをしている方のカバンを狙う人がいた。本堂の賽銭箱から賽銭を取る人もいた。本堂で大きな社葬の時、遺族や会社関係者にまぎれて葬儀中に僧侶へのお布施を盗られたこともあった(この時は、法中さんにお布施をお渡しできなかった)、今ほど戸締まりもちゃんしていなかったこともあり、家人が知らないうちに庫裡にお金を盗みに入った人もあり、警察には何度も駆けつけていただいた。
社会が変化したと言えばそうだけど、対人関係も、まず「疑って」かからないと、危険がおよぶと感じてしまう難しい時代である。
そのよう時でも、お寺に居ると、お同行様が作られた季節の野菜をいただいたり、花をいただいたり、お菓子が届いたり、以前から境内の掃除のご奉仕をされる方がいらっしゃるなど多くの「善意」の中でお育ていただいている。
昔から、性善説と性悪説が語られる。そうであっても、疑う心から始める人間関係ってどうなんだろう。
今のCOVID-19(新型コロナウィルス感染症)の感染拡大の中、私たちの「疑う心」が偏見や差別を生み出していないかもう一度省みたい。

こどもの日に

こどもの日に 「いのち」の成長
私が幼かったとき、私の成長を楽しみにしていた家族がいました。私と関係ない他者は当たり前だけどそのようなことは思ってもいません。他者との関係性に気づかず、自分1人で大きくなった気持ちになっていた時もあります。生まれた時の記憶も無く、ただただ泣くだけの赤子だった私が多くの他者の支えによって生きていることに気づけず生きていました。「独りだけで生きているんじゃないよ」と教えてもらったのは大切な家族が亡くなった時だったかもしれない。限りある命であることは、頭の中で観念的に分かっていたつりもでも、間近に関係性のある他者の「死」の様相を見て実感することになりますが、本当の「いのち」について向き合う事はいつだっただろう。

私は、お寺で生まれお育ていただいていたので、宗祖(親鸞聖人)の教えが身近であったと感じていました。仏教(真宗)の教えを知識として得ることも大切でありますが、何度もお聞かせいただく場で、聞法することが、「いのち」について考えさせられ向き合うことができているのだと今は感じます。
同じ話を何度聞いてもその時まで忘れていて、新鮮に聞こえてくることがとても有難い。

その時その時一瞬であるが自分が「いのち」と向き合うこと。他のことを考えずに向き合うことは難しくしんどいけれど、落ちこぼれの自分には、聞法しかないのではないかと
自然に思うようになりました。

自分ではどうすることもできない私の「いのち」を「必ず救う・まかせよ」と誓ってくださる「はたらき」に出遇えたことが本当の「いのち」に出遇うことなんだと感じる。

出遇ったとしても、これまでと何一つ変わらない私自身であるが、同じ日常がこれまでと違って見えたり、感じたりする。

このままの自分を他者と共に受け入れることに気づけよと「はたらき」かけられたことを喜び、讃嘆できることになるのなら生きていることがこんな有難いことはない。
5月の爽やかな風が人の成長を応援していると思う。人生を四季にたとえることもあるけれど、季節のように繰り返すことはない一度きりの「いのち」だ。

4月のおてらおやつクラブ

4月のおてらおやつクラブ
今月は、少し遅れましたが、先月同様3つの支援団体様へ24日に1団体、27日に2団体へ「お供え」を「おすそ分け」させていただきました。
4月に入り新型コロナウィルスの感染防止の為、非常事態宣言が全国にだされました。
子ども達も学校に行くことができない状態が続いて、多くの家庭に影響がでてきています。おてらおやつクラブの活動が一助にでもなれば有難いです。

また、年2度回収の古本勧進での古本も募集しています。
今回は8月末までに集まった古本を寄付させていただきます。
不要になりました古本がありましたらいつでもお寺にお持ち込みください。
対象の本は、裏表紙にバーコードのあります文庫本・新書本・単行本です。
申し訳ございませんが、週刊誌・雑誌・百科事典・全集は対象外です。
本以外、書き損じのハガキ・不要なCDも受け付けています。

「待つ」こと

待つ
「待つ」にまつわる本を読んでいます。
私(住職)には、「待つ」って聞くと「待たされる」感じですが、「待たす」こともありますね。「待たす」と「待たされる」ことで言えば心理的には「待たされる」ことは緊張が高まることはありえます。せっかちでついつい早めに行動しないと気が気でない私(住職)は、好きで「待たされる」訳ではないけれど多くの場合この状態になります。相手は、決めた時間に間に合っているのに、なぜだか不機嫌になる自分がいます。

これまでの時代では「待つ」ことが当たり前だったことが、今は「待たず」にできることが多くなり、なんだか便利になったようだけれど、心の状態は、はたして「待たず」にできる状態が良いのかはわかりませんね。
本の中で「待つ」にいて書かれた書物がたくさん紹介されるのですが私(住職)は、どれ一つ手に取ったことがないものばかりで、紹介されたのもが全て消化できるわけでなくページをめくるのが疎かになります。

グリーフケアで「傾聴」の大切さを教えていただきました。宗教でも相手のことをお聞かせいただく「傾聴」は大切なことですが、「傾聴」として、聴くことは相手のお話を「待つ」ことで、相手から見ると何をいっても受け入れてもらえることですので、聴くことは、自覚して「待つ」ことができないと、傾聴にはなりません。 予測不能のことを「待つ」時、自分の心がふらついていると「傾聴」は難しいです。

みなさん おげんきですか

みなさん お元気ですか
COVID-19(新型コロナウィルス感染症)の感染拡大で非常事態宣言が発令されて、これまでと違う日常で、感染という恐怖に向き合う毎日ですが皆様いかがおすごしでしょうか。 今の状況を忘れることではありませんが、少し先(2年先)のことを、お伝えしたいと思います。既にご承知されていますが、高田本山では、令和5年5月に、親鸞聖人誕生850年・立教開宗800年奉讃法会行事などの特別法要を予定されています。

私たちの法苑院妙華寺では、2022(令和4)年の5月22日(日)に本山に先立ち、親鸞聖人誕生850年・立教開宗800年奉讃法会行事を考えています。

私たちは、日頃、観念的に「死」について考えていますが、今回のCOVID-19(新型コロナウィルス感染症)の感染拡大で、より現実的な「死」を身近に考えさせられることになったと感じています。私たちの「生死(しょうじ)」をそのまま「任せなさい」願われているアミダさまがいらっしゃいますが、その声が多くの皆様にお伝えできればありがたいと思っています。

法会は、平素(いつも)の報恩講のような日程で、午後一席のお勤めですが、【予定】として、浄土宗の井上広法師と高田派の清水谷正尊師のご講演と対談をお願いしています。
 私(住職)は、師匠の法然上人(聖人)の「み教え」が弟子の親鸞聖人に伝わったことを、師匠の側からと弟子の側からお話をいただくことを楽しみにしています。
また、妙華寺所蔵の妙華寺蔵の法然上人の「選択本願念仏集」の掛軸(3幅)が傷んでいましたので現在、表装し直し、当日は西余間に掲示を考えています。
 少し先ではありますが、皆様と一緒に讃嘆できることを楽しみにお待ちましょう。

※改修した本堂東楽の間から大正10年3月の聖徳太子御遠忌(1,300年忌)記念の戸帳が見つかりました。

お寺の掲示板

お寺の掲示板
穏やかに「枯れ木」のように

『大往生できる人 できない人』潔く、とらわれず、おまかせして生きる 田畑正久著 から
人は高齢になり、口から食べられなくなってくると、穏やかに、枯れ木が枯れるかのごとく亡くなっていきます。二週間くらいで、静かに命を終えるのです。

一方食べられなくなった時の「延命治療」として、鼻から管をいれたり、胃に穴を開け栄養を入れる胃瘻(いろう)があります。この治療をすると数ヶ月から数年生き続けることはできるものの、じわじわと体が弱っていきます。
本人の意思表示が無いと家族の希望と意思の倫理観で延命がなされることが多いですが、最近は、生命保険などを使うとき「回復の見込みがある」ことが前提になってきたようで、老化現象で口から食べれなくなった場合、不自然な延命は本人にとって生命の質がよくないと共通認識になりつつあります。

※老化現象を見極める一つとして口から食べれなくなるをあげるなら、人類のこれまでの歴史の中で、老化現象で亡くなられた方とそれ以外の原因で亡くなられた方はどちらが多いのだろう。生き物の「いのち」の終わりはさまざまであると思うけど、穏やかに死を望むのにも意思表示が必要な時代を生きている。

「集い(場)」が消えていく

「集い(場)」が消えていく
2月に入ってから、COVID-19(新型コロナウィルス感染症)の感染拡大で、「集い」の中止や延期のお知らせをいただいています。
お茶の稽古が月一回あります。寺院も、他の業種もそうですが、お茶の世界も、2月頃から大きな大会や献茶式・研究会・講習会などの行事など軒並みに中止や延期が続いています。今後の状況が見通すことができないので、生徒である私(住職)の一人稽古も今後中止になることがあります。

非常事態宣言中に、芸術や文化を語るのはどうなの(危機感がない)と思われるかも分かりません。芸術や文化は一人で楽しむこともできるけれど、同じ志がある多くの人と「集い」、心を一つにすることで、より豊かな心が創造されていくと思っています。今は、密閉・密集・密接を避ける期間ですので「集い」について制限が必要なことは分かっていますが、いつまで続くか分からないことが不安につながってしまいます。

茶道のお茶と言うと、多くの方が体験され思い描かれる、一碗に抹茶を点てたお茶(薄茶)をお菓子と共にいただくものと、一碗に練られた抹茶を何人かで飲み回す濃茶と言われるものがあります。濃茶の飲み回しの衛生面については、今回の非常時で2月に裏千家から「濃茶も1人づつ一碗で練るように」と連絡がありました。
私たちは「同じ釜の飯をくった仲間」と言う言葉の表現で連帯感を共有します。結婚式の三三九度の盃や宴会での返杯も同じ盃を通して連帯感を共有しています。私の限られた知識の中で、同じ器の中の同じ飲み物を飲み回し仲間との連帯表現として残っているのは、濃茶だけかなと思います。(そこには衛生面を超えた宗教性が含まれているのかなと私は勝手に解釈しています)

今の状況によって、これまでのような一つの場所に「集い」話を聞き、意見を交換することが制限されていますので、全国各地からインターネットの環境を使い、時間を共有して、話を聞き、意見交換する新しい「場」に参加することも増えています。最初はその環境に慣れていませんので戸惑うばかりですが、慣れてくると、一つの場所に「集う」ことが難しい状況でも、バーチャル空間で「集う」ことができます。しかし、このバーチャル空間の「集い」とこれまでのようなリアルな空間での「集い」では、違うことも分かっています。お寺の行事などで考えると、どのように、「集う(場)」を考えて行くのか試行錯誤は続きますが、選択肢が増えることは良いことと思います。

今回のCOVID-19(新型コロナウィルス感染症)の感染拡大で、これまでの私たちの生活規範が大きく変わると想像しています。密閉・密集・密接に関係する「集い(場)」が私たち日本人の行動がどのように変化していくか分かりませんが、公衆衛生面については更に敏感になるでしょうし、自分自身の行動にも更なる自覚が求められるようなことも感じます。
消えていく「集い(場)」が新たな「集い(場)」を生み出す時に立ち会うことができることを喜びたいと思っています。

新しい試み(お墓勤め)

新しい試み②お墓勤め
今年の秋で5年目に入るお寺のHPはインターネットを通じてお寺の今を伝え(発信し)ています。当初よりご覧いただく方も増えている気がします。ありがとうございます。
インターネットを通しての発信の方法は、時代とともに静止画から動画へそしてlive(オンライン)へと幅広くあります。全国のお寺からも動画発信などが始まっています。 私(住職)には、インターネットやPCの知識がありませんので、今のお寺のHPでの発信が精一杯ですが、少しトライしてみようと考える機会をいただきました。

お同行様の年忌法要で、遠方の家族がお越しいただくことができなくなり、お一人でお参りをされることになり、その時、来られない家族へ、時間的に短いですがお墓勤めをスマートフォンのテレビカメラ機能で見ていただくことができるのではないかと、先日参加した「インターネット法要・供養事例勉強会」の事例に出会ったからです。こちらの勉強会もインターネットを通じてのオンラインでしたので時間さえ共有できれば自坊にいても全国の仲間と一緒に参加できます。
インターネットをご覧いただく方には、動画配信の「YouTube」などもお楽しみいただいていらっしゃると思いますが、本格的な形はもっと先になると思いますが、今の私(住職)の知識でできることから初めてみようと思っています。

ただ、今回の試みも、お同行様の同意がなければできせんし、それぞれ違うインターネット環境ですので、その方のご負担にならないような配慮も必要になると思います。
私(住職)自身それほど詳しくはありませんので、若い世代の娘(衆徒)や、勉強会の仲間の意見を聞きながら、やってみようと考えています。

※12日、お墓勤めの初めてlive配信を、遠方のご家族のご協力で実践しました。私(住職)は、テレビカメラ機能を使うのは初めてでしたが、三脚を使いお墓を映して、お勤めしました。スマートフォンが自分から離れていますので音声が伝わるか心配でしたが伝わっていたようです。先方からもお勤めの声が聞こえてきましたのは思わぬことで嬉しく感じました。とても良い経験をさせていただき、ありがとうございました。