疑う心

疑う心 悲しい話
私(住職)が小学生に入った頃は、「知らない人に道を尋ねられたら、教えてあげなさい」と「善意」は大切なことと学校で教わった。今の時代も「善意」が大切なことは変わらないが、私の子どもが小学生に入った頃は、「知らない人に道を尋ねられても、ついて行かないこと」と親も、学校も注意していた。
前々住職や住職が健在だった頃は、今より少し寂しげなお墓でお墓参りをしている方のカバンを狙う人がいた。本堂の賽銭箱から賽銭を取る人もいた。本堂で大きな社葬の時、遺族や会社関係者にまぎれて葬儀中に僧侶へのお布施を盗られたこともあった(この時は、法中さんにお布施をお渡しできなかった)、今ほど戸締まりもちゃんしていなかったこともあり、家人が知らないうちに庫裡にお金を盗みに入った人もあり、警察には何度も駆けつけていただいた。
社会が変化したと言えばそうだけど、対人関係も、まず「疑って」かからないと、危険がおよぶと感じてしまう難しい時代である。
そのよう時でも、お寺に居ると、お同行様が作られた季節の野菜をいただいたり、花をいただいたり、お菓子が届いたり、以前から境内の掃除のご奉仕をされる方がいらっしゃるなど多くの「善意」の中でお育ていただいている。
昔から、性善説と性悪説が語られる。そうであっても、疑う心から始める人間関係ってどうなんだろう。
今のCOVID-19(新型コロナウィルス感染症)の感染拡大の中、私たちの「疑う心」が偏見や差別を生み出していないかもう一度省みたい。