「集い(場)」が消えていく

「集い(場)」が消えていく
2月に入ってから、COVID-19(新型コロナウィルス感染症)の感染拡大で、「集い」の中止や延期のお知らせをいただいています。
お茶の稽古が月一回あります。寺院も、他の業種もそうですが、お茶の世界も、2月頃から大きな大会や献茶式・研究会・講習会などの行事など軒並みに中止や延期が続いています。今後の状況が見通すことができないので、生徒である私(住職)の一人稽古も今後中止になることがあります。

非常事態宣言中に、芸術や文化を語るのはどうなの(危機感がない)と思われるかも分かりません。芸術や文化は一人で楽しむこともできるけれど、同じ志がある多くの人と「集い」、心を一つにすることで、より豊かな心が創造されていくと思っています。今は、密閉・密集・密接を避ける期間ですので「集い」について制限が必要なことは分かっていますが、いつまで続くか分からないことが不安につながってしまいます。

茶道のお茶と言うと、多くの方が体験され思い描かれる、一碗に抹茶を点てたお茶(薄茶)をお菓子と共にいただくものと、一碗に練られた抹茶を何人かで飲み回す濃茶と言われるものがあります。濃茶の飲み回しの衛生面については、今回の非常時で2月に裏千家から「濃茶も1人づつ一碗で練るように」と連絡がありました。
私たちは「同じ釜の飯をくった仲間」と言う言葉の表現で連帯感を共有します。結婚式の三三九度の盃や宴会での返杯も同じ盃を通して連帯感を共有しています。私の限られた知識の中で、同じ器の中の同じ飲み物を飲み回し仲間との連帯表現として残っているのは、濃茶だけかなと思います。(そこには衛生面を超えた宗教性が含まれているのかなと私は勝手に解釈しています)

今の状況によって、これまでのような一つの場所に「集い」話を聞き、意見を交換することが制限されていますので、全国各地からインターネットの環境を使い、時間を共有して、話を聞き、意見交換する新しい「場」に参加することも増えています。最初はその環境に慣れていませんので戸惑うばかりですが、慣れてくると、一つの場所に「集う」ことが難しい状況でも、バーチャル空間で「集う」ことができます。しかし、このバーチャル空間の「集い」とこれまでのようなリアルな空間での「集い」では、違うことも分かっています。お寺の行事などで考えると、どのように、「集う(場)」を考えて行くのか試行錯誤は続きますが、選択肢が増えることは良いことと思います。

今回のCOVID-19(新型コロナウィルス感染症)の感染拡大で、これまでの私たちの生活規範が大きく変わると想像しています。密閉・密集・密接に関係する「集い(場)」が私たち日本人の行動がどのように変化していくか分かりませんが、公衆衛生面については更に敏感になるでしょうし、自分自身の行動にも更なる自覚が求められるようなことも感じます。
消えていく「集い(場)」が新たな「集い(場)」を生み出す時に立ち会うことができることを喜びたいと思っています。