外面評価と内面評価

外見評価と内面評価
「ルッキズム」 外見に基づいて人を評価したり、差別する考え方や社会現象。
私は、外見で人を評価しているのか。内面の評価が正しいのか。難しい問題です。
「あなたの好みの人はどんな人」なんて聞かれた時、どう回答しますか。

私(住職)は学生時代俳優の岡崎友紀のファンクラブに入っていました。
50年以上のことで、ファンとタレントの距離は今に比べてとても離れていましたが、今で言う「推し」になるのでしょうか。 いつしか、ファンクラブも退会していました。

人と関わる中で、ずーと友達付き合いをしていたのに、その人の内面(本心)を垣間見る時もあります。そして、距離を取ってしまうことも経験しました。
ただ、私の都合でのことかもわかりません。
本当の内面(本心)など他者にわかるはずがないのではとも思っています。

「学生として」「社会人として」「●●として」のイメージは、全て私の中の「学生」「社会人」「●●」のあり方があり、それと比較しながら「今の学生」「あの社会人」「●●らしくない」など判断してしまう私がいます。
対面して話をする時も、外見を評価し、内面も自分に都合の良い評価する私がいます。

仏教では、あらゆる「いのち」は平等と説かれています。外見や内面を気にする私(住職)にあらゆる「いのち」を平等と捉えることができるのかとても考えさせられます。

※中川個人の感想です。

仏徳讃嘆

仏徳讃嘆

何時の時代でも、争い事が絶えません。それぞれの主張は正義であっても、対する立場から見れば、正義では無く争うことになるのだと感じます。冷静に、落ち着いてと言っても、双方が他者の立場を理解できなければ、かわることはないように思います。
私が生きていく上の欲望は無くなることはありません。

取り巻く状況は同じでも、「私とは」と内面を省みることができるのであれば、もう少し、他者のことも考えることができるのではないかと希望的な思いがあります。

私は、仏(阿弥陀如来)が(私に成り代わり仏の修行をしてくださいました)徳で往生できる身になることができました。仏徳讃歎する生活を送ることが、心平穏になることとなりました。このような言葉を聞くと驚かれるかもわかりませんが、仏法を聴聞していくと、自分自身が変わっていくのだと思います。いつも、自分の「ものさし」からしか考えられない私が、仏様の「ものさし」によって変わっていくことができる。とても有難いことです。
このことから、真宗寺院では、お寺の行事や法要の場で仏徳讃嘆しています。
「おかげさま」であったり「有難い」の言葉は、仏の徳をいただいて初めて感じる世界ではないでしょうか。
※中川個人の感想です。

六曜

六曜
今もカレンダーに記されている「六曜」があります。
「六曜」を冠婚葬祭の日で気になさっていますか?

私が生まれた昭和の時代では、葬儀は「友引」にしないことが共通認識でした。その為、火葬場の休日であったり、僧侶の参加する会議などが、「友引」の日に設定されることが多かったような気もします。平成から令和の時代になると急速に「友引」に葬儀をしないことを、あまり気にされることではなくなってきました。今では、多死時代に入ったようで、火葬場も年末年始を除いて稼働しているところが多く、火葬の時間を決める(押さえる)ことから葬儀の日時が決まってくることも影響しているのかもわかりません。
もちろん「六曜」を気になる方もいらっしゃいますので、対応はしています。

冠婚の部門ではまだ「六曜」を気になさる方は多いように感じます。
※中川個人の感想です。

造花

造花
お仏壇やお墓の花を「造花でもよろしいですか」とおたずねが増えています。

造花について、調べると外国でも日本でも随分以前から考えられていたようです。
切り花は、育てるのに手間がかかるのと、愛でる時間が限られていること(はかなさ)から、手間がかからず、見た目も長い間良好であることが、技術的に可能になり今は手軽に楽しめることから増えてきているのだと思います。

また、切り花として栽培することも難しい植物は、造花は貴重な存在になっているのでしょう。

自宅や公共施設・ショッピングセンターなど多くの場所で観賞用として私たちの目を楽しませています。

私たち人間の願いから生まれてきたものです。

お仏壇やお墓の花もその延長上で考えれば、造花でも良いのではと個人的には思います。
ただ、お仏壇にお花を供える意味を考えるとどうでしょうか。
私たちの目を楽しませる為にお供えをしているのでしょうか。

お仏壇の荘厳の1つである花は、三具足の1つです。三具足は、燭台・香炉・花瓶で、燭台のローソクは、仏の智慧(光)・香炉は仏の教え・花瓶の花は仏の慈悲を象徴しています。私たちは、感覚として、仏様にローソクや香・花を手向けていますが、

本当は、仏様から私たちへ手向けられたものが三具足であります。
本来の意味を理解しながら、考えてみようと思います。
三具足の1つローソクも今は、電気式や電池式も多くなっていますね。
※中川個人の感想です。

高田本山からの連絡

大裏方様のご逝去
高田本山から連絡がありました。
7月7日に大裏方様がご逝去されました。
仮通夜は、7月10日午後6時からお対面所 密葬式は7月11日午前11時から如来堂にて執り行われます。

本葬儀につきましては、後日案内があります。

長年、高田本山専修寺のお裏方様として、高田派の婦人会、坊守会、小袖会などで活動されていらっしゃいました。また、学問への関心も高く、高田学報にも論文を発表されていました。専修寺に伝わる宗旦古流の歴史(伝来)や茶道具の保存にもお力添えをいただいてことが思い出されます。
※中川個人の感想です

学びなおし

学びなおし
一般的に、仏教について学ぶのは、高校の日本史だと思います。私(住職)も日本史で仏教が日本の中でどのように受容されてきたか学んだ記憶があり、それが私の仏教理解の根底にあるものだと思います。考えて見ると40年前の学びから、仏教理解が更新しているでしょうか。

当時「鎌倉新仏教」として、取り上げていた概念も今は違うようです。

『日本史を宗教で読み直す』山川出版社が手元に届きました。

学校の教科書は、学習指導要領の枠組みで、仏教は、日本史の中で説明されているようです。もう一度、教科書の「日本史」を宗教から読み直すことで、学生当時の仏教理解が更新されるような気持ちです。夏が近づいてきた今、学生時代の夏休みの課題のようにこの1冊を拝読できればと思っています。

※中川個人の感想です。

 

孤独

孤独
多くの友人がいて楽しく生活をしていても、「孤独」を感じる時はあります。
「孤独」は、対人関係ではなく、私の中にあるものだと思っています。

『佛説無量寿経』に「独生独死独去独来」(人は独りで生まれ独りで死に、独りで去り独りで来る)の言葉があります。人生における根源的な孤独を表して、生まれてくる時も死ぬ時も、誰にも代わってもらえないことです。また、他者に依存しないで、自分自身の足で人生を歩むことの大切さを示しています。
だからと言って、独りだけで生きていくことなんてできません。

「孤独死」の話題をよく耳にするこが増えてきました。
亡くなって何日もたってから亡くなっていたことがわかるとして、独居の課題としても取り上げられます。周囲との関係性を深めて「見守り」体制を十分機能させることの大切さも叫ばれます。
お寺にも、地域の方々やお同行の「見守り」ができる活動もあるようにも感じています。実現できる取り組みを考えていきたいと考えています。

※中川個人の感想です

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今の自分を省みる中で、未来で私がどのような存在であったかを考えることで、今の自分の存在を確かめることにもおもしろいと思います。

自分の生涯(生き様)が確定するのは、亡くなった時だと聞くこともあります。評価は他者が決めるのですが、どのように生きてきたかは私自身が決めることです。他者に評価されたいがために生きているのではなく、自身の生き方が、そのまま他者に評価されることに気づかされるとどうでしょう。
いろいろな事情で今の私が存在しているのですが、心の奥底にある私の「生きる意味」とは何か、考えさせられます。
日常生活の中に「生きる意味」を見出すこともあります。逆に「生きる意味」を見出せない場合もあるように感じます。自分を見つめなおす視点を少し変えてみることはどうでしょうか。日常生活では考えることもない「仏様に願われた命(私)」として、自分を俯瞰して見つめることも、新しい自分の一面に出遇えそうです。
※中川個人の感想です。

あなたは、どのように生きていますか。

実践と座学

実践と座学
一般的には、実技(実習)と講習と呼び、学ぶことが多いと思いますが、茶道では、実践と座学と聞くことがあります。
茶道の稽古は、一服のお茶をおいしく差し上げるための実践です。その学びは深く多様であります。一方、茶道の歴史や理論を学ぶことも必要です。共に、学ぶべきものはたくさん有り、生涯学ぶことが大切だと感じています。

仏教も同様だと思います。「み教え」を学ぶことも、「み教え」を伝える(実践する)ことも生涯つづけることが大切なのだと感じています。
私(住職)には、限られた時間しか与えられていません。
そして、実践することができなくなったり、座学としての学びが難しくなる時が必ずやってきます。その時、どのように対応するかが問われようとしています。
1つは、これまでの歩みから離れる(関わらない)選択と、もう一つは、これまでの歩みの中でできることで関わりつづける選択だと考えられます。関わり方には、さまざまな形がありますし、自身の活動できる範囲や健康面などで変化しながら、関わりたいけど関わる事ができなくなる日がやってきます。その日まで、私(住職)は、自分のできる範囲で関わっていくことができればと願っています。
※中川個人の感想です。

さい銭

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「さい銭」についてインターネットで調べると、下記の説明があります。

賽銭(さいせん)とは、祈願成就のお礼として神や仏に奉納する金銭のこと。
元は金銭ではなく幣帛・米などを供えた。「賽」は「神から福を受けたのに感謝して祭る」の意味。「祭る・祀る」の語義は「飲食物などを供えたりして儀式を行い、神を招き、慰めたり祈願したりする。

散銭ともいうが、金銭を供えるようになったのは後世であり、古くは米が神仏に供えられた。その形態は、神前や仏前に米を撒く「散米」「散供・御散供・打撒」や、洗った米を紙に包んで供える「おひねり」だった。金銭が供えられるようになったのは中世以降であり、庶民に貨幣経済と社寺への参詣が浸透し始めた時期である。そして、参詣が一般化したことで都市の風習として、賽銭をあげることが流行になった。しかし、現在のように賽銭箱が置かれるようになったのは近世以降である。また、地域によっては長らく米が供えられていた。

現代の日本においては初詣で特に多く納められ、寺社の維持・運営の重要な財源となっている。参拝客にとって経済的負担が少なく少額硬貨が入れられることも多いが、近年では、寺社にとっては金融機関への入金手数料が負担になる問題が起きており、却って赤字になる場合もある[6]。特に一円硬貨に関しては、金融機関に大量に入金しようとした場合、その大量の一円硬貨の総額が手数料に負けてしまう場合が多い。そのため2022年頃から、神社が主に商店等の事業者向けに金融機関を介さず無手数料で賽銭を利用した両替サービス(その利用者は紙幣等を出し、釣銭用等として棒金の形で硬貨を受け取る)を行うケースが各地で相次いでいる。((https://ja.wikipedia.org/wiki/賽銭 参照 2025年6月24日))