効率

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

効率
私(住職)は、日常の生活で効率を求めている。これは、私だけでなく多くの人がそうであるのかもわからない。時間の管理や限られたお金の管理、健康管理など、どうしたら、うまく生きていくことができるか。知り合いからの情報やハウツー本やインターネットで知識を仕入れて、実践してみる。コストパフォーマンスやタイムパフォーマンス、ライフパフォーマンスという言葉はどこかで聞いたことがあるでしょう。別にこれ自体が悪いことではないと思うが、それらにとらわれすぎるとやはりよくないのだろう。私の心の問題になるのだろう。
話は、代わるが、私(住職)のこれまでの人生を振り返ると、「効率」を求めていたようで、それほど効率はよくないような生き方をしている。志望大学にも入れず、留年も経験している。人間関係を作るのがが苦手で、壁をつくってしまうこともある。生きているのが苦しいと思ったこともある。世間の基準からすれば、どちらかといえば落ちこぼれの人間だろう。

そのな私(住職)でも、今を生きている。自分の判断や世間の常識だけの判断を唯一の物差しで生きていたならば、生きるのが苦しいだけと思っていたかもわからない。
私を見守ってくださる「物差し」に出遇うことで、私が私のままでよかったことに気づかせていただくことができ、苦しいことや悲しいことにも素直に対応していることができていると思う。
私を見守ってくださる「物差し」は、仏教の浄土の教えであるので、その教えを大切にしていきたいと思っている。

高田本山 燈炬殿 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

高田本山 燈炬殿 VR 専修寺360
新しい宝物館の一角にあるVR室で、「SENJUJI 360」の映像を楽しみました。
自分の目で見る高田本山の境内、御影堂の中はとても素晴らしいものです。すべてが大きな建造物で、それをもう少し近づいてみたいなと思うこともあります。最新の技術によって見ることが可能になり、貴重な体験でした。
この映像からなにを感じるのか様々なものがあります。建築の視点であったり、美術的な視点であったり、歴史的な視点からも拡がっていくような感じです。
第一回の企画展は、7月9日までです。時間がありましたら、ぜひ訪れてください。

「燈炬(とうこ)殿」真宗高田派本山専修寺宝物館
正像末法和讃
「无明長夜の燈炬なり 智眼暗しと悲しむな 生死大海の船筏なり 罪障重しと嘆かざれ」 弥陀の本願は煩悩の長い夜の闇を破る燈火である。さとりの眼がないからとて、悲しむに及ばぬ。弥陀の本願はまた迷いの大海を渡す船である。罪とかが重いからとて、決してなげくに及ばない。
【註解 国宝 三帖和讃】常磐井鸞猷著

「无明長夜の燈炬なり」この左訓は「煩悩を長き夜にたとう。燈はつねのともしび、炬は大木なるともしび。弥陀のおん誓いを燈にたとえ申すなり」です。この一言は法然上人がお亡くなりになり、謝恩会のご法事(中陰中 六七日)が催された。そのときに聖閣法印が導師を勤め、「表白文」をのべられる。そのなかにでてくる言葉です。
「无明長夜」私たちの実感できる言葉が「長夜」です。夜明けのこない長い夜、これをもって私どもの「無明煩悩」を喩えられたものです。その「無明」を破らんがための燈
です。信心というものは、いつでも無明と光明の瀬戸際にたつ、その時を捉えたものです。「智眼暗しと悲しむな」智慧のまなこがくらい。「如来の智慧を聞かせたまえ」と、これは人間の無底の底からの深い祈りです。人間の悲しみとして、一番多きなる悲しみは、智慧の眼の暗さであります。
「智眼暗しと悲しむな」ということは、如来が人間の悲しみを見通されての言葉であります。私らの生活設計というものは、悲しむことのないように、笑って暮らそうと、みんな思っている。仏法はそうでない。まず悲しむ心をもちなさいという。何が悲しいかというと、「智眼の暗さ」が悲しいのです。智慧の眼を盲(めし)ていることが悲しい。私はこの
「智眼暗しと悲しむな」というのは、非常におごそかなものだと思います。まず、私の「智眼暗しと」と悲しむところからはじまる。泣いてもいないのに泣くなといったって、他人ごとに聞こえるのは当然です。泣いている人こそ泣くなという呼びかけが響くわけです。法然上人は「悲しむ心をもつべし」と、これは(親鸞)聖人が84歳になって、お手紙のなかに、法然上人のこの言葉をありありと思い出していられます。如来のお心においては、人をとがめないで悲しむ心である私たちが如来のお心をいただくためには、この悲しむ心という場がなければ、如来がおでましになる場所がない。悲しむ心をおこした私に「悲しむな」と、こう呼びかけて下さる。「罪障重し」と歎いておる人に「なげかざれ」と、ここに罪を許す大悲の温情が身に迫って生きてきます。
「生死大海の船筏なり」「みだのがんをふねいかだにたとえるなり」。生死流転の無明の大海に溺れて救いを求めている私に、ここに船がある筏があると。
「罪障重しと嘆かざれ」罪障の重いということがわからないものに、「嘆かざれ」という言葉は響いてまいりません。私は罪と障りの塊りだということを知らしめられ、その罪と障りをどうしようもない私に「罪障重しと嘆かざれ」との思いがけない呼びかけを聞いて、ここに如来の本願があると、はじめてこれが響いてくるのであります。
【正像末法和讃講話】川瀬和敬著

「すばらしきみえ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「すばらしきみえ」
百五銀行の隔月発行の冊子があります。三重県内のいろいろな情報を紹介されています。2023-06 234号で、みえを歩こう/津市久居駅周辺の項で、「妙華寺」も散策スポットの一つとして紹介をされています。時間があれば、久居駅周辺の散策めぐりで地域の歴史を感じることができると思います。

親戚寺院の一周忌

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

親戚寺院の一周忌
昨年の7月に往生されました上宮寺の前住職の一周忌でお焼香させていただきました。
往生されました前住職は、私(住職)の母と「いとこ」でしたので、祖父祖母、父母と親しくしていただいていました。また、私(住職)へもお気遣いをいただいていました。骨董の趣味から高田本山の歴代法主のことも学ぶこともありました。
本当に月日が経つのが早く感じられます。私(住職)と、長年親しく接していただいていた方と会えないことは寂しいことです。でも、また会えることができる「み教え」に出遇うことで、寂しいことではありますが、前を向いて生きていくことができます。
法要の後の食事も、久しくなかったことですが、みんなと一緒に語らうことができる場がこれほど素晴らしことなんだと、改めて感じることができました。
前住職の知らない一面もお聞きして、とても豊かな時間でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

総代

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

総代
平成18年に住職拝命を受けてから、3名の総代様の葬儀をお勤めさせていただきました。平成25年、平成28年、そして今年、それぞれの総代様には、長年、お寺の寺院活動にご助言をいただき、賛同して、率先してご奉仕していただいていました。妙華寺の寺院規則では、総代様の任期はありますが、再任をさまたげない形ですので、前々住職の時(法人発足時)から、終身総代として任をお願いしています。
ただ、高齢化の中、総代会へのご参加などに支障が伴う場合もでてきています。少し前から、お世話方様へも総代候補を考えていただくようお願いしていますが、住職の力量がないせいか、最近のお寺への関心の薄さからかお願いしても、躊躇されてしまい。むつかしい場合が多いです。

「知られざる親鸞の幼少年時代」

 

 

 

 

 

 

 

 

企画展「親鸞と高田本山」第4回講演会
「知られざる親鸞の幼少年時代」~出家得度以前の修学環境をめぐって~ 津田 徹英師

18日に閉会する「親鸞と高田本山」展の連続講座の最終講座に参加することができました。今回は、文献史料など残っていない親鸞聖人の出家得度以前の事を学ぶ機会になりました。親鸞聖人の出家得度以前のことは、「親鸞聖人伝絵」の詞書に記載されていることが最古のものです。
親鸞聖人の書かれた文字の特徴として示される欠画文字・異体文字に注目して、いつ・どこで学んだのかを、親鸞聖人の叔父(範綱)と父(有綱)の官位や関係者からの史料を通しての話でした。欠画文字や異体文字の研究は既にありますが、私(住職)の中ではどの時代の版本であるかなど多くの謎でありましたが、親鸞聖人に直接かかわる史料ではなく、その時代の周辺史料を示しながらの丁寧な調査で、私(住職)の中では大いにうなづくことができました。今までの親鸞聖人の幼少時代の認識を改めことになるような思いも感じます。※中川個人の感想です。

選択

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

選択 「せんじゃく」と「せんたく」
仏教では、選択(せんじゃく・せんちゃく)の言葉は、自らの帰依する「み教え」を選び取り、ほかの「み教え」を選び捨てることに関係するとても重要な言葉です。
本来は、お釈迦様が一人一人が涅槃に入るためにお話をした対機説法が、「み教え(お経)」となり、多くの「み教え(お経)」を学ぶことで、涅槃への道を求めたのだと思います。ただ私には、多くの「み教え(お経)」の中のどれが自分に一番合うのか選び取らなければ、涅槃には至りません。
生活者として生きていく上での選択(せんたく)も、よいものを選び取ることであるので重い言葉でありますが、「選択肢」・「選択問題」のようにどれかを選ぶような感じで、「選び捨てる」ことの意識が抜け落ちてしまうと、仏教で使う「選択」とは少しニュアンスが違ってしまうように感じられます。

私(住職)の人生のこれまでも多くの「選択」をしてきました。「選び取る」ことは「選び捨てる」ことであったかというとどうでしょうか。あれもこれもと「選び取る」ばかりでなかったかもう一度改めて考えていこうと思っている。

選択(せんじゃく・せんちゃく) 選び取り、選び捨てる
法然は、「選択」と「摂取」の関係について、「選択と摂取との言異なりといへども、その意これ同じ」と示し、阿弥陀仏の48願における選択摂取の義を論じつつ、称名念仏の意義をあきらかにしている。 【浄土真宗辞典】

選択(せんたく) よいもの、適当なものを選び取ること 【岩波国語辞典】

祥月命日

 

 

 

 

 

 

 

 

祥月命日
大切な方が亡くなられた日を命日(めいにち)と呼んでいます。亡くなられた月日を祥月命日と呼び、一周忌・三回忌・七回忌など年忌の年にお勤めをされます。
年忌以外の年も、お勤めを依頼される場合もあります。

命日を「忌日」と呼んだりしますが、以前、「忌日」について、忌まわしいと言う字が含まれていますがと尋ねられました。
私の大切な方が亡くなられた時、亡くなられたことをすぐには受け入れがたい心があります。亡くなられてからも生きているように感じる心もあります。しかし、私から離れた関係の方の死について、不浄なものと考えてしまう気持ちも出てくる場合があります。高田派の鑑学の先生が、「大切な方の忌日を勤めるのは、私自身(己の心)の中にある仏道に修しているという思いを改めて省みる日である」と述べられたことを思い出します。

真宗では親鸞聖人のご命日を縁としてお勤めする報恩講があります。高田本山では毎年1月9日から16日までお勤めいたします。各寺院も毎年一番大切な行事としてお勤めしています。(妙華寺では12月の第1日曜日です)
私の大切な方のご命日も、私が仏法に出遇い、阿弥陀如来の恩徳に報謝する大切なご縁であったことに間違いないことです。

お寺では、毎月16日に、境内にある戦没者・無縁の碑前、「倶会一処」(共同墓)・樹木の元の碑前・名号の碑前でお勤めをしています。季節によってまだ夜明け前の暗い16日や、既に日差しが強く暑い16日であったり、雨であったり、晴であったり、毎回同じ時間にお勤めをしていますが、同じことは何一つなく、移ろいを感じる時間でもあります。

 

優先順位

優先順位

僧侶として優先するのは、お同行様から依頼されるお勤めの時間です。お寺の清掃などにも時間も優先されます。そうはいっても、突然連絡をいただく葬儀については、いつも連絡をいただきながら既に予定が入っていると調整することがむつかしい場合が出てきます。私(住職)に代わってお勤めをしていただくことができればありがたいことですが、それがむつかしい場合も出てきます。日時を変更をお願いすることもあります。また、先に火葬され、後ほど、本堂で葬儀式(納骨式)をお勤めさせていただくこともあります。
お勤めする葬儀一つにしても、同じものはありません。

弔辞と思い出

弔辞と思い出
葬儀式での弔辞は、弔辞を読まれる方との関係でありますが、亡くなられた方のことを知る機会でもありました。

最近は、家族だけや近い親戚を含めての葬儀式がほとんどなので、弔辞を聞くことも少なくなっています。
しかし、亡くなられた方との思い出は、葬祭に参加される方々にはそれぞれありますので、その思いを表現できると場(時間)を考えたいのですが、葬儀式の時間は決まっていますので難しいです。
葬儀の前夜に、通夜のお勤めがあります。「夜を通す」とありますので、本来は、一晩中、亡くなられた方の近くで過ごしたのでしょう。それぞれの方の想い出を語り合った時間もあったと思います。私だけの思い出も大切にしたいですが、多くの方の思い出を聞くことで亡くなられた方の思い出がより豊かになると感じています。