言葉「させていただく」

言葉
私(住職)は「させていただく」の言葉をよく使います。「お勤めをさせていただきます」「私の口から称えるお念仏は仏さまからの呼び声として、お念仏させていただいています」
日常の中でも使ったり聞くことがあります。

【なごみ 令和5年10月号 「させていただきます」は誰のため? から引用】
・お稽古をさせていただきます。
・値下げさせていただきます。
・楽しく過ごさせていただきました。

「させていただく」
自分の行為について(相手に)させてもらうのだというとらえ方をし、「いただく」という謙譲語を用いて相手を高める言い方(『明鏡国語辞典』)

諸説の一つに「させていただく」は大阪船場界隈で使われた「させてもらう」に由来すると言われています。「儲けさせてもらう」「勉強させてもらう」(値引きするの意味)など、いずれも自分が中心の言い方ではなく、商人たちは世間や相手方を立てた表現を用いたといわれます。さらにたどると、北陸地方の浄土真宗の門徒さんたちが使用していた表現が大阪の船場地区の商人たちに伝わったという説もあり「生かされていただいている」という捉え方からの言葉になるのかな。

ただ、丁寧すぎる敬語の使い方は、「礼も過ぐれば諂いとなる」とあるようにかえって無礼になるので気をつけなければならないようです。
※中川個人の感想です。

茶筅供養

茶筅供養
(一社)茶道裏千家淡交会三重北支部津南班様の行事として茶筅供養のお勤めをいたしました。7年ぶりの行事で、本来はお勤めの後、持ち寄った茶筅を境内でお焚き上げをするのですが、前日から雨の天候でしたので、後日お焚き上げすることにしました。

私たちは、大切に使っているものがその用途で使えなくなると処分をしなければなりません。多くの物がゴミとして処分されますが、ゴミとして処分できないものがあります。
また、地域や業種によって扱う物に日頃の感謝をする気持ちを表現する場として「供養」のお勤めをしています。仏事に使う仏壇や位牌の供養(処分)の依頼は、どのお寺でもよくあると思います。
茶筅供養・針供養・人形供養・写真供養・うなぎ供養・クジラ供養(他にも全国にはたくさんあると思われます) お勤めをする時の思いは人それぞれではありますが、「感謝」がキーワードのようです。生き物への感謝だけでなく物への感謝も、その人の「心」の気持ちなのかもわかりません。
※中川個人の感想です。

掛軸

掛軸
お寺の本堂には教えに関係する掛軸が掛かっています。お寺の行事によって掛け替えもします。
また、僧侶の控室で使用する書院や茶室などに床の間があり掛軸が掛かっています。こちらも季節や趣向によって掛軸が掛け替えられます。掛け替える時はほとんど準備の時間で誰も見ていません。掛軸の掛け方、仕舞い方はそれぞれの仕方があると思いますが、お寺の宝物として大切に伝えてこられた掛軸でありますので大切に扱われていたと思います。また、私(住職)も次に伝えるために大切に取り扱っているつもりです。
大切な掛軸の掛け方・仕舞い方を、お茶の習い事の手前(作法)として学ぶ機会があります。
「軸荘(じくかざり)」と呼ばれている手前です。普段は、茶席の床の間に掛かっている掛軸でありますが、宸翰(しんかん)と呼ばれる天子の直筆であったり、名物、由緒ある掛軸は、正客が席入りをされ、床の間に巻かれたままの掛軸を、亭主が正客がいる前で床の間に掛ける・仕舞う手前(作法)です。いつもは誰もいない準備の時間にする掛軸の掛け方や仕舞い方を招いた正客の前でするものですから、緊張もします。でもその経験があって大切な掛軸を掛けたり、仕舞ったりすることに覚えていくようにも感じます。
※中川個人の感想です。

改葬(お骨の移動)

改葬 (お骨の移動)
以前から墓じまいやお骨の移動の相談があります。
人が亡くなると、死亡診断書により、行政から火葬証明書がだされ、火葬されますと埋葬許可書が出ます。お骨をお墓に埋葬する時、墓地管理者に埋葬許可書を提出します。
いろいろな事情で墓じまいになりますが、お墓を撤去すると、お骨が残っている場合があります。妙華寺では、残ったお骨は、境内にある「俱会一処(くえいっしょ)」の共同墓に埋葬いたします。
お骨をA寺からB寺に移動して埋葬する場合は、「改葬許可申請書」の手続きが必要になります。
行政の窓口で「改葬許可申請書」に記入して、現在お骨が埋葬されている寺院(墓地管理者)に埋葬証明を記入していただき、行政で「改葬許可申請書」に証明印をいただき、新しいお墓(墓地管理者)に提出して埋葬することになります。

聖の意識

聖の意識
聖なる場所と聞くとどのような場所を思い浮かべるでしょうか。
今は、「パワースポット」と呼んだり「〇〇の聖地巡り」なども盛んですね。
有名地でなくても、自分の中での神聖な場があると思います。
以前は、自宅にも、仏間や座敷など、生活空間の居間とは違う、気持ちがあらたまる場があったと思います。
また、地域の神社やお寺も聖なる場として認識されていたようにも感じます。
今でも、そのように感じて、神社やお寺の前の道を通り過ぎる時に正面の神殿や本堂に向かって一礼して通る方もいらっしゃいます。

しかし、近年は地域の神社やお寺に、それほど気持ちがあらたまることも感じることが無くなったとの声も聞きます。いつもの風景で、聖なる場と感じる気持ちも少なくなっているのでしょう。

また、「聖域」の言葉は、今はネガティブに捉えられます。現代は、既得権やタブーをなくすことを優先する考え方が支持され、何事も分け隔てなく可視化することが望まれています。

私(住職)もそのように感じますがそれがはたして正しいかどうかは判断できません。
生活をする中で、包み隠さず自分のすべてをさらけ出すことができるかと言えば、できないのが私なのだと思います。そのような私でも居てもよい場が聖なる場所なのかもわかりません。

※中川個人の感想です。

伝えること

伝えること
宗教の教えを伝える言葉として「布教」・「伝道」の言葉があります。
本来、仏教では「布教」の言葉が使われていたようですが、キリスト教の影響で「伝道」の言葉も使っています。「法」を伝えことは、はっきりしていますが、布教使(伝える者)が「法」を確かに伝えているか。同朋(聴聞者)に「法」が確かに伝わっているかは、他者にはわかりません。布教使が伝える工夫をしていますが、「法」が届かない場合もあります。
同朋も「法」を求める縁が熟さないと伝わらないのかもわかりません。
「法」を伝える難しさと厳しさを感じることもあります。

中秋の名月

十五夜のお月さんを中学生の頃まで家族でその日を楽しんでいました。彼岸会にお供えする団子の材料で、祖母・母が月見団子をつくって、境内にあるススキを花入れに、夕食が終わってから、居間の窓をあけて家族で月を愛でる時間がありました。あの頃は季節を感じて生活していたことを思い出します。日本文化を大切にと思いながらゆっくり月を愛でる時間がないことは残念なことです。今年の中秋の名月は、9月29日にあたるようで時間があれば月を愛でたいと思います。

十五夜 月の満ち欠けから月日を計る暦で日々の行事を行っていた頃、満月は豊作の象徴として「十五夜」は豊作祈願の大切な節目の行事だったそうです。中秋の名月を鑑賞する風習は、中国の唐の時代からあり、平安時代の日本に取り入れられ広まったようです。
九月に収穫される「いも」を供えることから「芋名月」とも呼ばれます。今は、満月のイメージの団子とススキをお供えするイメージです。
『日本の伝統文化・芸能事典』汐文社

七高僧

七高僧
七高僧とは、親鸞聖人が浄土教の祖師として尊崇した、インド・中国・日本の七人の高僧を示します。
真宗寺院の余間に掛軸として掲げられていることが多いです。
妙華寺でも本堂向かって右側の余間の内側に掲げています。

平素のお勤めの中で、親鸞聖人がおつくりになられた「正信偈」「文類偈」また「(浄土高僧)和讃」に七高僧のお徳が書かれていて、お勤めをしています。

【インド】の①龍樹(りゅうじゅ)菩薩・②天親(または世親)菩薩。
【中国】の③曇鸞(どんらん)大師・④道綽(どうしゃく)禅師・⑤善導(ぜんどう)大師。
【日本】の⑥源信(げんじん)和尚・⑦源空(げんくう)上人の七人で、それぞれの著書の中で真宗で大切にしているものを「七祖聖教」(しちそしょうぎょう)と言っています。
龍樹の『十住毘婆沙論』の「易行品」
天親の『無量寿経優婆提舎願生偈』(浄土論あるいは、往生論と略する)
曇鸞の『無量寿経優婆提舎願生偈註』(往生論註あるいは、浄土論註、単に論註と略する)
と『讃阿弥陀仏偈』
道綽の『安楽集』
善導の『観無量寿経疏』 と『法事讃』と『観念法門』と『往生礼讃』と『般舟讃』
源信の『往生要集』
源空の『選択本願念仏集』

掛軸を拝見しながら皆様はどのような部分に注目しますか

バトンをつなぐ

バトンをつなぐ(お寺の未来へ)
私(住職)は今67歳で住職を拝命して15年になろうとしています。父(前住職)は77歳まで28年間、祖父(前々住職)も77歳まで40数年間住職の役割を担ってきました。父や祖父のことを考えると私(住職)もおよそ後10年くらい住職の役を担うことができるのかわかりませんが、バトンの引継ぎを含めて考えていきたいと思います。
お寺のこれからの10年を考えるのは、どのように考えたらよいのでしょうか。
寺院とは、宗祖(親鸞聖人)のみ教えを伝え、集う場であることを一番大切にしています。
お寺の行事を通して、「み教え」をお伝えしていますが届いているでしょうか。

時として「届いていないのではないか」と考えさせられています。
また、生活者がお寺に求めるものは何かも考えるのですが、様々なものがあるようで、一つのお寺がすべてに対応できることではありません。そう考えると地域にある寺院同士が連携して取り組むことも必要です。これまでの地域の仏教会が今の生活者の求めるものに対応できているのかも改めて考えていかないと難しそうです。
そして、当たり前のことですが、継続していくことが大切であるということに気づかされます。コロナ下の3年間でお寺の行事のあり方も考えさせられました。「集う」ことへの不安をどのように向き合うかお寺によって様々ですが、お寺のできることをしながら続けることが、「不安」の心を「安心」へ変えていくこともあるそうです。

変化

変化
新型コロナウィルス感染症が2023年5月に感染症法上5類に移行したことで、2020年から始まった新型コロナウィルス感染症を経験して何が変わったか。考える時間をいただきました。
新型コロナウィルス感染症の拡大が始まってから、世界中でこれまでの生活様式が大きく変化したことは確かなことで、私(住職)の生活上の変化もたくさんあります。
私(住職)が一番感じたことは、「集う」ことへの「不安」でした。私が生きてきたこれまでも死に至る感染症はいくつかありました。しかし、地域が限定されていたり、濃厚な接触でないと感染しないとか、ある程度限定的な感染症と捉えて他人事のように感じていました。毎年インフルエンザ(感染症)も発生しています。こちらも致死率が大きくないのでそれほど気にもとめていませんでした。しかし、今回は、「新型」と名づけられているように感染症への治療方法や対処法もわからず、世界中で感染者が増え、死者が増え、医療現場が混乱したことを目の当たりにするのは初めてで、「恐怖心」が芽生えたことが、これまで当たり前のように「集う」ことへの「不安」になりました。
生活様式の変化にも含まれる問題ですが、対人との関係性が希薄になった感じもあります。しかし、対人関係の希薄さは、新型コロナウィルス感染症以前からあった問題で新型コロナウィルス感染症拡大によって、急速に進んだと考えることのほうが適切だと思います。これは、濃密な関係性が苦手な私にとっては悪いことではないと考えています。
私(住職)は、対人関係の中で個々の「不安」や「安心」「安全」に焦点を合わせるようになった気がします。
新型コロナウィルス感染症に対する不安を通して、この人は、「何に対して不安をいだいているのか。何を安心と考えているのか。何を安全と思うか」を考えながら、新型コロナウィルス感染症以外の、心の「不安」や「安心・安全」に少しだけだが向き合おうとしています。
これまでも、人間1人1人「不安」はそれぞれ違うものであると頭で認識していましたが、どこかで類似性を見つけてグループに分類している私がいます。それは、生きている以上変わらない気がしますが、もう少し1人1人の「不安」に向き合うことを考えるようになった気がします。