骨董

骨董
骨董の定義をしっかりと知らないけれど、美術的であったり、技法などに価値がある古いものと思っています。国宝や重要文化財とは違う、身近なものであったり、手に取って鑑賞できるものとも感じます。

私(住職)が、骨董に興味を持ち始めたのは、お寺に伝わる法宝物からです。
寺院には、骨董と呼ぶのは適切ではありませんが、法宝物と呼ばれる大切に伝えてきたものがあります。多くは、本堂の荘厳としてありますが、それ以外にも、書物や掛軸など保管しています。

大切なものをどのように伝えてきたのか。これからどのように伝えていくのか。
扱い方を含めて、多くの事を専門家からお教えいただいて今の私(住職)の知識があります。

寺院の法宝物以外でも、骨董品が大切に扱われている茶道を学んだこともより興味をもつことの一因になっているようにも感じます。

※中川個人の感想です。


鬼は、疫病や災害、不幸など悪い力の象徴として、邪気を払い、福を招くものとして伝わっているのが節分の豆まきのようです。

親鸞聖人の「愚禿悲歎述懐」の和讃の中で、「悪性さらにやめがたし こころは蠍蛇のごとくなり 修善も雑毒なるゆえに 虚仮の行とぞなづけたる」【3首】があります。
末法を生きる自分自身を厳しく見つめていらっしゃる言葉です。
「こころ」は、蛇(毒蛇)蠍(猛毒を持ったさそり)=悪性のたとえとして、わが心を見つめている姿に、私(住職)は、本当の自分の姿を自覚ができているか。と問われると思います。
「煩悩多い心であっても、どこか他者の役にたっている」なんて思ってしまうのが私(住職)なんだと思ってしまう自分がいます。

私の心の蠍蛇(邪気)を払うことができないことを自覚して、阿弥陀さんのはたらきに「まかせて」いくことは、阿弥陀さんが私の仏道修行をすべてしていただいてあるからのこと。
そのようなことを感じて過ごしています。
※中川個人の感想です。

MATCHA

MATCHA
2月6日は「抹茶の日」とTVで紹介されていました。茶道具の風炉(ふろ=26)から「抹茶の日」と制定されたそうです。近年は、世界で抹茶ブームです。また、飲料としてでなく、抹茶を豊富に使うスィーツも数多くあり、抹茶生産が追いつかず販売価格が以前に比べて2倍ほどになっています。
昨年(HP2025-05-17)にも掲載しましたが、抹茶(薄茶)を愛飲している私(住職)にとって、MATCHAブームは、うれしさと同時に驚くばかりです。

私(住職)は、「抹茶」と聞くと、短絡的かもわかりませんが、「茶道」を思い浮かべます。
一服のお茶(抹茶)をおいしくいただいてもらうことを目的として、「もてなす」日本文化でもあります。茶道は、とても奥深く生涯続ける中で得られる境地は特別なもののように感じるのは私(住職)だけではないと思っています。
そのような茶道に関心を持ち、学び続ける方は減少しています。
茶道の「道」は、続けることだと思います。今の時代は、「続けること」が難しく思われているようです。

MATCHAブームと、「茶道」を一緒に語るのは筋違いと思いますが、ブームは一過性のものだから、「そんなものだよね」と言ってしまえばそれまですが、その世界(茶道)に身を置く者としては残念でなりません。

文化を「川の流れ」として見ると、上流から下流へ続く大きな流れに見えますが、川の流れがとどまることも、痩せ細ることもあることも事実です。そのような時代をこれまでの先人は、どのように乗り越えてきたのか。また、いつしか痩せ細り途絶えてしまうのか。考えさせられます。

※中川個人の感想

お寺の行事

お寺の行事
先月、「檀家ではないが、お寺の行事に参加することができるか」生活者の方から問合せがありました。
妙華寺のお寺の行事は、春秋の彼岸会・春秋の千部会・報恩講があります。それぞれ一日一座の法会ですが、お勤めの後に、布教使の法話があります。
妙華寺は、真宗高田派の寺院ですので、親鸞聖人が示した阿弥陀さまのはたらきの法話です。必ず救われる私の「いのち」を通して、仏徳讃嘆しています。
布教使は、どなたにもわかりやすくご法話をされますので、ご聴聞いただく時間があれば、どなたでもご参加できることをお伝えしました。

冬の寿司

冬の寿司
最近は、節分に恵方巻きを食することを聞きますが、私(住職)の若かった頃は、この地域では、そのようなことはありませんでした。江戸時代頃から大阪で商売繁盛を願って始まったと聞きます。全国的に広まったのはコンビニで取扱が始まってからとも言われています。
私(住職)は、寒い時の寿司として「蒸し寿司」が楽しみです。こちらも、江戸時代に関西(上方)で始まったと聞きますが、恵方巻きのように全国的にはなっていないようです。京都の寒い季節に食する「蒸し寿司」年に一度は楽しみたいのですが・・・
※中川個人の感想です。

【案内】「親あるあいだの語らいカフェ」を開催します

【案内】「親あるあいだの語らいカフェ」を開催します
02月07日(土)13時30分から16時 妙華寺 本堂

お寺と教会の親なきあと相談室津市妙華寺支部では、令和5年5月13日にキックオフ講演会を開催しました。
その後、令和5年10月7日から年3回(2月・6月・10月第1土曜日)に開催しています。
今回で4年目になります。1年目(令和5年10月から令和6年6月)は、手探り状態でした。
2年目を迎えた令和6年10月頃から集まる方の「場」として整ってきたように感じています。
引き続き、集まっていたただく方の心地良い「場」になるよう努力していきます。

妙華寺の「親あるあいだの語らいカフェ」は、(一社)みえ円満相続支援センター様にもご賛同いただいています。また、「傾聴僧の会」の宗教者のお力添えいただきます。

「親あるあいだの語らいカフェ」津市妙華寺支部の約束
「親あるあいだの語らいカフェ」が安心安全な「場」となるよう①~④を約束します
①布教はしません
②あなたのことを尊重します
③生き方や考え方を押し付けません
④入退室は自由です

また、みなさまと一緒に安心安全な「場」をつくるため、⑤から⑧をお願いします
⑤当日、話された内容は、この場限りで、他者には話しません
⑥ご自身の悩んでいることや辛いことをお話する
⑦他の方が話されている時は、割り込まず、最後まで聞きます
⑧お互いの悩みや「おもい」を評価したり比較したりしません

似たような境遇であっても感じ方やとらえ方は、人それぞれ異なります。
それぞれの気持ちを大切に、一期一会の時間をお過ごしください。

必要な方に届きますように

真宗入門講座

真宗入門講座
今期の真宗入門講座は、高田本山専修寺の「一光三尊仏絵伝」の紹介です。
一光三尊仏は、善光寺のご本尊(秘仏)として有名であります。その由来が描かれた「善光寺如来絵伝」も有名です。
真宗寺院でも高田派の本寺の如来堂のご本尊は、一光三尊仏です。三河(愛知県)の初期真宗寺院には、古い「善光寺如来絵伝」を大切にされている寺院も複数あります。
親鸞聖人と善光寺との関係についても諸説ありますが、高田派では、善光寺聖の1人として、「一光三尊仏」を感得されたのが本寺の「一光三尊仏」と伝承されています。
高田本山専修寺に伝わる「一光三尊仏絵伝」は、三河の妙眼寺の「善光寺如来絵伝」(3幅)に親鸞の高田建立譚を加え4幅仕立ての絵伝と紹介されました。
4年後に、本寺の一光三尊仏の御開扉があります。それまでに「一光三尊仏絵伝」について学びたいと思っています。
※中川個人の感想です。

【案内】2月の日曜学校は1日午前7時30分からです

【案内】2月の日曜学校は、1日朝7時30分からです
今年もよろしくお願い申し上げます。
2月の入ると暦の上では立春になりますが、まだまだ寒い時期です。
2月の日曜学校は1日です。朝7時30分から8時頃までです。
ご家庭での平素の夕時のお勤め(歎仏偈・文類偈・5首和讃)を一緒にお勤めいたします。輪(りん)の鳴らし方や、念珠の持ち方もご一緒にしますので自然と覚えます。

また、ご参加いただきますと念珠の一珠をお渡しして、24珠で単念珠が、108珠で二連念珠ができるようにご用意しています。(親珠には「妙華寺」の寺院名が刻印されています)

茶道のある生き方

茶道のある生き方
今年古希を迎えます。およそ40年間、お茶を楽しんできました。
昨年の6月に変形性膝関節症を患い、座ることができずに、お茶の稽古も休んでいます。
残念な事ですが、稽古の再開は難しいようです。
これまで、茶道から学んだことを振り返ってみようと思いました。
「にじり口」
草庵(小間)の茶室の、客の入り口は、「にじり口」がほとんどです。
茶室と外(俗世界)の結界とも言われます。また、茶室では、誰もが身分の上下なく集う場であることに関係がありそうです。
茶室は、いろんなことに気を遣いながらの日常生活から離れた空間で、亭主は、茶道具を介して正客に思いを伝えたり、客は、亭主の思いを馳せて、双方が思いやる一座から、限られた時間ではありますが、私(住職)はとても豊かな関係を築くことができる場への「入り口」なんだと感じています。頭をたれることによって教えていただくことです。
ただ、「入り口」があるということは、「出口」があり、その場(茶室)から、必ず日常へ戻ることが決まっていますので、茶室での時間は、貴重な時間であるのだと思っています。
※中川個人の感想です。


日本文化の中で「道」がつく習い事が多くあります。茶道・華道・香道・書道・武道など、私(住職)は、そこに「続ける」ことで、技術を習得することと、人間形成も含まれているように感じています。仏教も江戸時代までは、仏道と表記されていたと思いますが、修行期間も含めて、仏の「教え」の道を歩んでいく姿が大切なのではないのでしょうか。
日本仏教は、険しい道を歩む仏道も、容易く歩む仏道も、示され、選択(せんじゃく)することができるのですが、選択は私がするのでしょうか。
この道を歩むことしかできないと仏様から示された道であるのではないでしょうか。
※中川個人の感想です。

【浄土真宗辞典】
道  梵語マールガの意訳。さとりに至るべきみちのことで、仏教の究極的な目的に至るための修行過程を指す。

中道 両極端を離れた中正の道。仏教の根本的立場。釈尊は苦行主義と快楽主義のいずれにもよらない中道の実践によってさとりを得たといわれる。龍樹は『中論』で一切を縁起・空と見ることを中道とする。(以下省略)