お寺の掲示板

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最期にできることは、自分の死を人に見せること

『人は人を救えないが、「癒やす」ことはできる』 谷川洋三著から
著書は続いて「いよいよ死ぬ間際になっても、人にはできることがあります。遺された人のためにできる、「最後の大仕事」ともいえるものです。

生き物は必ず死ぬわけですから誰も同じ道をたどっていくのです。先に経験する者として示してあげてほしいと思います。別に、いい見本になろうとか、かっこよく死のうとか思う必要はありません。騒いでも、泣いても、怖がってもいいのです。「ありのままの姿」を見せてあげるのが大事なのでしょう。
現在はどうしても死を隠す傾向にありますが、身近な人の死を見届けるということは、その人にとって苦しくもかけがえのない経験になるはずです。

※私(住職)は、お同行様の死に立ち会うと言いますが、厳密には、亡くなられてから立ち会うことになります。父(前住職)や祖父(前々住職)祖母(前々坊守)の死に際にも立ち会っていませんが、死にゆく過程は見ていました。苛立ったり、穏やかになったりするありのままの姿は、肩書きなど関係なく、限りある「いのち」を精一杯生きている姿と感じています。最期に私にもできることがあるのが嬉しいです。

新しい試み

新しい試み
現在、日本全国だけでなく世界で、新型肺炎の感染拡大で非常事態の状態です。
自分自身が感染していると思い、他者に感染をさせてはいけないとの行動が求められています。このような時、集まることがとても懸念されることになっています。
私たちの生活の中でこれまでとは違う、集まることへの配慮が必要になっています。
密閉空間で、人が密集し、密接な会話をすることが望まれない状態です。

このような非常時に、私(住職)として本堂でのお勤めをすることに工夫を試みます。
お寺の本堂は、昔からの木造建築で、今の建築物のような機密性は無く、冬の寒さ対策、近年では夏の暑さ対策も問題です。多くの方々が聞法(参詣)されるための大間は52畳敷で、昔の数え方では一畳に3名が座りますので、156名が満堂のお寺です。(隅には机などもありますので実際は100名も入れば満堂と言えるでしょう)
ここ最近は、聞法(参詣)されるため方への配慮として、座布団に座る形式から椅子に腰掛ける形式に変更しています。申し訳ないことですが、多くの方に椅子を用意できず35席ほど置いてありました。
今回、畳一畳に椅子を1席の形で18席ほどの対応を考えて見ました。
 ※お集まりいただく人数によって対応をさせていただきます。

また、お寺の行事や年回法要のお勤めの時にお茶をお出ししています。以前に比べこの数年お茶を召し上がれる方が少なくなる傾向ですが、2月から3月にかけて、お茶を召し上がられる方がこれまで以上少なくなっています。(多くの方々がマスクをされていることも理由の1つと考えられます)
ここで、お寺からお茶をお出しすることを一旦休止を試みます。
水分補給は大切ですので、ウォーターサーバーを用意しました。温水・冷水が選べます。
喉が渇いたり、口を潤したい場合お使いください。
また、お申し出いただきましたらこれまで通りのお茶の接待もさせていただきます。

これまでのブログでも記載しましたが、
お寺の本堂出入り口に手指の消毒をしていただくアルコール消毒液も以前から用意はしてありますが、今年の2月から注目されご利用いただいています。
また、うがい・手洗い場所として本堂左手にあります洗い場をお使いください。
多くの方が触れる出入り口のアルコール消毒もできる限りしています。
お寺に訪れる皆様にできるだけ不安な心をならないように考えています。
とはいえ、決して不安や不満を抱えながらお越しいただくことではありません。
どうかご無理ない範囲でご検討をいただきますよう、よろしくお願いいたします。

また、私(住職)の健康管理として、3月に入ってから一日に2度~3度の検温と、これまでにない入念な手洗いをしています。いつまで続くか分からないですが、私たちの新しい生活規範の中で公衆衛生の概念がより強くなるように思います。

3月の聞法

3月の聞法

新型肺炎の感染拡大防止で、集い・集まる機会が少なくなっています。妙華寺で開催しました春彼岸会でも、開催にあたり、風邪症状の方への参加を控えていただく事や、手指の消毒・うがい、手洗いの場所の確保・マスクの準備・会場の換気・接触場所のアルコール消毒など、出来ることをさせていただきました。

春彼岸会 法話 浄泉寺 戸田栄信師のご法話は、「今、ここで 安心(あんじん)の人生を歩む」と題されてお話されました。

讃題に、
「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし 
 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる」 浄土和讃 弥陀経意 第1首
を拝読され、この和讃を、高田派の前ご法主は「全宇宙の中の念仏する人々を照覧なさって、その人々を救い取って決して捨て去ることがないから、その仏の名を阿弥陀とお呼び申し上げる」と注釈されています。
また、私自身をどのように捉えるか、親鸞聖人ご自身が述懐された和讃として
「浄土真宗に帰すれども 真実の心(しん)はありがたし
 虚仮不実のこのみにて 清浄の心(しん)もさらになし」
正像末法和讃 愚禿悲歎述懐第1首を示して私のあり方(姿)を示されました。
この和讃の意訳として「浄土真宗に帰依したおかげで、私に真実の心がなかったということが、知らされてまいりました」『正像末法和讃講話』(川瀬和敬著 法蔵館)を私(住職)は思い浮かべました。
仏教の教えは、「苦」がベースにあり、その「苦」を転じていくことで「安心」とし人生を歩むことができるのです。私の本当の姿を、 阿弥陀様が既に見通し、全て阿弥陀様が領解して「まかせよ」と誓われているのですから、私が安心の人生を歩むことができるのです。
今、私たちは、新型肺炎のことで「死」について不安な心が大きくなっていますが、「限りあるいのち」しかない私たちは生まれてきてから既に不安な心で生きているのだということを改めて感じました。、
お同行様にしっかり聞法してくださることが大切ですと申していながら、細かなことにとらわれて、自坊の本堂に座ってお聞かせいただくことができず残念です。

パンデミックからの問いかけ

パンデミックからの問いかけ 生活規範の変化
感染症の世界的流行で混乱している中、私たちの生活が否が応でも見直すことになるように思えます。先日、法務の間に視聴した僧侶向け「体験講座」での一コマ。
人類は今回のパンデミックやこれまでのパンデミックも医学や科学の力で時間はかかるかも分からないが必ず克服していくことは考えられます。しかし克服されたから、私たちの生活がこれまで通りになるとは思えません。世界で新しい生活規範が作られていくようなことを感じます。
そのような観点で改めて、お寺の存在はどうなっていくのだろうか?考えていく時間をいただいたように思っています。
私(住職)も3月に入って毎日2度から3度の検温と入念な手洗いをするようになりました。見えないウイルスが気になり人混みさえ気になる感覚になっています。今回のパンデミックが終われば、忘れてしまうこともあるかもわかりません。でも毎日の習慣として続いていくものもありそうです。
3月09日のブログでも記載しましたが、私の「不安な心」に向き合う中で、「安心」や「安全」な心(気持ち)になるのに、神仏の「み教え」が対応できるのだろうか?
これまでの生きていくことが困難な時代に、多くの人々の苦しみを「安心」にかえる「はたらき」を宗教が担ってきた事実が、現在も宗教が存続しているのだけど、以前ほど人々は宗教に重きを置いているわけではないことも現実と思います。
これからの生活規範を見直す中で
あなたにとってお寺はどのような存在なのですか?
あなたにとって僧侶はどのような存在なのでしょう。
と問われているような時間です。

3月のおてらおやつクラブ

3月のおてらおやつクラブ
今月は、先月同様3つの支援団体様へ18日に1団体、24日に2団体へ「お供え」を「おすそ分け」させていただきました。
2月末から新型コロナウィルスの感染防止の一環で小中学校が一斉休校になり、多くの家庭に影響がでてきています。おてらおやつクラブの活動が一助にでもなれば有難いです。

また、年2度回収の古本勧進での古本も募集しています。
今回は8月末までに集まった古本を寄付させていただきます。
不要になりました古本がありましたらいつでもお寺にお持ち込みください。
対象の本は、裏表紙にバーコードのあります文庫本・新書本・単行本です。
申し訳ございませんが、週刊誌・雑誌・百科事典・全集は対象外です。
本以外、書き損じのハガキ・不要なCDも受け付けています。

お寺の掲示板

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「死を見せること」は、次世代への遺産

『大往生できる人 できない人』潔く、とらわれず、おまかせして生きる 田畑正久著 から

著書では、「死にゆく場に立ち会うということは、「見送ってあげる」と同時に大事なこと 人は必ず死ぬ存在であること、生きていることのありがたさ を教えてもらっている場面でもあります」と述べています。
※「死を見せる」ことは、私のはからうことでなく、自分の「都合の悪い姿」が暴き出される時でもあります。『人間とは、縁次第でどんな心の持ち方にでもなるんだ』ということに気づく場でもあるようです。そこに仏の「はたらき」として私に届けられれば、「死に方」を思い通りにしたいと思う心にとらわれことなく「死を見せること」が大切なことになるのだと思います。

春分の日と彼岸

春分の日と彼岸
「自然をたたえ 生物をいつくしむ」 祝日法の春分の日の趣旨

【春分の日(しゅんぶんのひ)】は、日本の国民の祝日の一つであり、祝日法により天文観測による春分が起こる春分日が選定され休日とされる。通例、3月20日から3月21日ごろのいずれか1日。
しばしば昼が長くなって「昼と夜の長さが等しくなる日」といわれるが、実際は昼の方が少し長い。

少しずつ温かい日の中で、自然のうつろいや虫たちの活動が気になる頃です。

【彼岸(ひがん)】は、雑節の一つで、春分・秋分を中日とし、前後各3日を合わせた各7日間(1年で計14日間)である。この期間に行う仏事を彼岸会(ひがんえ)と呼ぶ。
最初の日を「彼岸の入り」、最後の日を「彼岸明け」

俗に、中日に先祖に感謝し、残る6日は、悟りの境地に達するのに必要な6つの徳目「六波羅蜜」を1日に1つずつ修める日とされている。
語源
サンスクリットのpāram(パーラム)の意訳であり、仏教用語としては、「波羅蜜」(Pāramitā パーラミター)の意訳「至彼岸」に由来する。
Pāramitāをpāram(彼岸に)+ita(到った)、つまり、「彼岸」という場所に至ることと解釈している。悟りに至るために越えるべき迷いや煩悩を川に例え(三途川とは無関係)、その向こう岸に涅槃があるとする。
ただし、「波羅蜜」の解釈については異説が有力である。
由来
浄土思想でいう「極楽浄土」(阿弥陀如来が治める浄土の一種、西方浄土)は西方にあり、春分と秋分は、太陽が真東から昇り、真西に沈むので、西方に沈む太陽を礼拝し、遙か彼方の極楽浄土に思いをはせたのが彼岸の始まりである。現在ではこのように仏教行事として説明される場合が多い。それがやがて、祖先供養の行事へと趣旨が変わって定着した。
しかし、彼岸の行事は日本独自のものでインドや中国の仏教にはないことから、民俗学では、元は日本古来の土俗的な祖霊信仰が起源だろうと推定されている。五来重は彼岸という言葉は「日願(ひがん)」から来ており、仏教語の「彼岸」は後から結びついたものであるという。
歴史
806年(大同元年)、日本で初めて彼岸会が行われた。このとき崇道天皇(早良親王)のために諸国の国分寺の僧に命じて「七日金剛般若経を読まわしむ」と『日本後紀』に記述されている。

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話せるうちに、「ありがとう」を伝える

『人は人を救えないが、「癒やす」ことはできる』 谷川洋三著から
続けて著書では、「直接、言葉で感謝の気持ちを伝えることは、話せるうちにしかできないことです。その日が来る前に、後悔しないためにも、早めに伝えてほしいものです」

最後に、「なかなか素直になれない、照れくさくて言えないという気持ちはわかりますが、感謝も謝罪も、口が動かなくなったり、意識がなくなったりすればできなくなってしまいます。心に引っかかっていることは、ぜひ口に出して伝えましょう」とまとめてあります。

※私(住職)は、何年か前に母に感謝の手紙を書きました。当時今より元気でしたが、病気で入院をしたり老いていく姿を見ていました。マインドフルネスの「感謝を伝える」講座で、手紙を書くことを勧められました。私(住職)も照れくさや、恥ずかしさが先に立ち「感謝」を伝えることは躊躇していました。それでもこれまでの母のことを思い出し、文字にすることは私(住職)の心がとても落ち着くようで私(住職)自身が救われたような気持ちです。 その後も、入退院を繰り返し今は老健施設で元気にしていますがあの時に伝えていて良かったと思います。

不安な心

 

不安な心
新型コロナウィルスのニュースが毎日報道されています。知らない事への恐怖もあり、さまざまな情報に惑わされないよう心がけていても、いろんな不安が頭の中を巡っています。ウィルスとの戦いの中、利己主義な考え方が幅をきかせているようにも思えます。

市内の商業施設の入り口に設置されていた消毒液が容器ごと盗られたことが映像に映っていることで全国ニュースで報じられことに驚きながら、全国各地でもこのような被害は多くあることも想像して、お寺の本堂に設置している消毒液の容器についてそのままでよいのだろうかと家族で話になった。
1月中旬までは店頭にあったものが、今は陳列棚から姿を消して、何時入荷するかわからないことで、私の心がイライラしている。自分に必要な(欲しい)ものがすぐ手に入らない状況が続いている中で、いつしか爆発してしまう私の心が存在する。

「神さまや仏さまがあなたを見ています」と言葉にしても、今の時代、呼びかける相手の心に、「神仏」の存在がなければ通じないのだろう。

不安な世の中で、何にすがれば良いのか、多くの選択肢はあると思うけど、そこに争いごとを好まない「仏教の教え」は含まれているのだろうか。

 

見送り

見送り

11月に続いて、1人でお住まいのお同行様が亡くなられました。この方も一般社団法人のお一人さまを「見守る」制度の会員になっていらっしゃり、死後までのことを委任されていたようです。亡くなられてから連絡をいただき、枕元でのお勤めにいきました。
20年以上前に施設に入られていましたので私(住職)の知っている面影は残っていませんでした。
以前は、1人でお住まいの方も、亡くなられた方を見送ることは、葬式組などと呼ばれる共同体としての地域の方々や遠縁の親族の方が中心でしたが、今はそのような共同体や親族の関係性が失われて、1人でお住まいの方は、生前に専門家と契約をすることが必要になってきたのでしょうか。
死後事務委任を託された方(法人)が、しっかりお寺へ連絡され、枕元でのお勤め・通夜・火葬・納骨まで見送りされました。