御書

御書
高田派の歴代法主が発せられる書簡体の法語を「御書(ごしょ)」と称しています。
高田派で御書を積極的に取り入れたのは、10世真慧上人ですが、同時代に本願寺8世蓮如上人が「御文(おふみ)」による伝道に成果があったことに倣われたようです。
その後、高田派で「御書」が定着するのは、14世堯秀上人が、明暦3年(1657)に『御書4巻』を開版された以来のことのようです。【真宗高田派聖典】

本堂で年忌法要のお勤めは、お経・文類偈・三重念仏和讃で最後に、御書を拝読しています。御書は、高田派歴代上人の手紙形式の法語で、親鸞聖人の「み教え」をわかりやすく語っていただいています。
以前、お勤めをしていましたら、前住職が、灰葬の時、拝読した「御書」がとても心に響いたことをお聞かせいただきました。わかりやすいと言っても、古い形態の手紙形式で、古文の知識も必要と思えるのですが、耳から聴くことが、とても心に響いたそうです。
真宗は、聞法集団とも称して、「聴く」ことを大切にしてきました。布教使が、「み教え」を伝えることが、布教の基本であることを改めて感じました。
現在は、動画や書物などの情報の方がわかりやすいと感じますが、耳から入る情報に集中して自分のなかで消化していくことが大切なんだと改めて感じました。

※中川個人の感想です。

【案内】佛涅槃図

【案内】佛涅槃図を荘厳します
佛涅槃図は、釈迦(しゃか)の入涅槃の場面を描いたもので、釈迦が亡くなられた2月15日の涅槃会で本尊とされます。
平成24年から、妙華寺では、2月15日から1ヶ月間、本堂西余間(むかって左側)に涅槃図をお掛けしています。
妙華寺所蔵の佛涅槃図は、江戸時代の久居の大火で焼失しました。
今お掛けしていますのは、平成23年の親鸞聖人750回御遠忌の記念として高田本山より京都別院の佛涅槃図の複製が配布されましたものです。
京都別院の佛涅槃図は、室町時代の兆殿司筆で、大きさは、縦151.2cm 横128.7cmです。
本堂にお上がりいただきお詣りください。

※また、高田本山では、3月15日頃に如来堂にて佛涅槃図がかかります。(詳細は高田本山のHPでご確認ください)

骨董

骨董
骨董の定義をしっかりと知らないけれど、美術的であったり、技法などに価値がある古いものと思っています。国宝や重要文化財とは違う、身近なものであったり、手に取って鑑賞できるものとも感じます。

私(住職)が、骨董に興味を持ち始めたのは、お寺に伝わる法宝物からです。
寺院には、骨董と呼ぶのは適切ではありませんが、法宝物と呼ばれる大切に伝えてきたものがあります。多くは、本堂の荘厳としてありますが、それ以外にも、書物や掛軸など保管しています。

大切なものをどのように伝えてきたのか。これからどのように伝えていくのか。
扱い方を含めて、多くの事を専門家からお教えいただいて今の私(住職)の知識があります。

寺院の法宝物以外でも、骨董品が大切に扱われている茶道を学んだこともより興味をもつことの一因になっているようにも感じます。

※中川個人の感想です。


鬼は、疫病や災害、不幸など悪い力の象徴として、邪気を払い、福を招くものとして伝わっているのが節分の豆まきのようです。

親鸞聖人の「愚禿悲歎述懐」の和讃の中で、「悪性さらにやめがたし こころは蠍蛇のごとくなり 修善も雑毒なるゆえに 虚仮の行とぞなづけたる」【3首】があります。
末法を生きる自分自身を厳しく見つめていらっしゃる言葉です。
「こころ」は、蛇(毒蛇)蠍(猛毒を持ったさそり)=悪性のたとえとして、わが心を見つめている姿に、私(住職)は、本当の自分の姿を自覚ができているか。と問われると思います。
「煩悩多い心であっても、どこか他者の役にたっている」なんて思ってしまうのが私(住職)なんだと思ってしまう自分がいます。

私の心の蠍蛇(邪気)を払うことができないことを自覚して、阿弥陀さんのはたらきに「まかせて」いくことは、阿弥陀さんが私の仏道修行をすべてしていただいてあるからのこと。
そのようなことを感じて過ごしています。
※中川個人の感想です。

MATCHA

MATCHA
2月6日は「抹茶の日」とTVで紹介されていました。茶道具の風炉(ふろ=26)から「抹茶の日」と制定されたそうです。近年は、世界で抹茶ブームです。また、飲料としてでなく、抹茶を豊富に使うスィーツも数多くあり、抹茶生産が追いつかず販売価格が以前に比べて2倍ほどになっています。
昨年(HP2025-05-17)にも掲載しましたが、抹茶(薄茶)を愛飲している私(住職)にとって、MATCHAブームは、うれしさと同時に驚くばかりです。

私(住職)は、「抹茶」と聞くと、短絡的かもわかりませんが、「茶道」を思い浮かべます。
一服のお茶(抹茶)をおいしくいただいてもらうことを目的として、「もてなす」日本文化でもあります。茶道は、とても奥深く生涯続ける中で得られる境地は特別なもののように感じるのは私(住職)だけではないと思っています。
そのような茶道に関心を持ち、学び続ける方は減少しています。
茶道の「道」は、続けることだと思います。今の時代は、「続けること」が難しく思われているようです。

MATCHAブームと、「茶道」を一緒に語るのは筋違いと思いますが、ブームは一過性のものだから、「そんなものだよね」と言ってしまえばそれまですが、その世界(茶道)に身を置く者としては残念でなりません。

文化を「川の流れ」として見ると、上流から下流へ続く大きな流れに見えますが、川の流れがとどまることも、痩せ細ることもあることも事実です。そのような時代をこれまでの先人は、どのように乗り越えてきたのか。また、いつしか痩せ細り途絶えてしまうのか。考えさせられます。

※中川個人の感想

お寺の行事

お寺の行事
先月、「檀家ではないが、お寺の行事に参加することができるか」生活者の方から問合せがありました。
妙華寺のお寺の行事は、春秋の彼岸会・春秋の千部会・報恩講があります。それぞれ一日一座の法会ですが、お勤めの後に、布教使の法話があります。
妙華寺は、真宗高田派の寺院ですので、親鸞聖人が示した阿弥陀さまのはたらきの法話です。必ず救われる私の「いのち」を通して、仏徳讃嘆しています。
布教使は、どなたにもわかりやすくご法話をされますので、ご聴聞いただく時間があれば、どなたでもご参加できることをお伝えしました。

冬の寿司

冬の寿司
最近は、節分に恵方巻きを食することを聞きますが、私(住職)の若かった頃は、この地域では、そのようなことはありませんでした。江戸時代頃から大阪で商売繁盛を願って始まったと聞きます。全国的に広まったのはコンビニで取扱が始まってからとも言われています。
私(住職)は、寒い時の寿司として「蒸し寿司」が楽しみです。こちらも、江戸時代に関西(上方)で始まったと聞きますが、恵方巻きのように全国的にはなっていないようです。京都の寒い季節に食する「蒸し寿司」年に一度は楽しみたいのですが・・・
※中川個人の感想です。

真宗入門講座

真宗入門講座
今期の真宗入門講座は、高田本山専修寺の「一光三尊仏絵伝」の紹介です。
一光三尊仏は、善光寺のご本尊(秘仏)として有名であります。その由来が描かれた「善光寺如来絵伝」も有名です。
真宗寺院でも高田派の本寺の如来堂のご本尊は、一光三尊仏です。三河(愛知県)の初期真宗寺院には、古い「善光寺如来絵伝」を大切にされている寺院も複数あります。
親鸞聖人と善光寺との関係についても諸説ありますが、高田派では、善光寺聖の1人として、「一光三尊仏」を感得されたのが本寺の「一光三尊仏」と伝承されています。
高田本山専修寺に伝わる「一光三尊仏絵伝」は、三河の妙眼寺の「善光寺如来絵伝」(3幅)に親鸞の高田建立譚を加え4幅仕立ての絵伝と紹介されました。
4年後に、本寺の一光三尊仏の御開扉があります。それまでに「一光三尊仏絵伝」について学びたいと思っています。
※中川個人の感想です。

茶道のある生き方

茶道のある生き方
今年古希を迎えます。およそ40年間、お茶を楽しんできました。
昨年の6月に変形性膝関節症を患い、座ることができずに、お茶の稽古も休んでいます。
残念な事ですが、稽古の再開は難しいようです。
これまで、茶道から学んだことを振り返ってみようと思いました。
「にじり口」
草庵(小間)の茶室の、客の入り口は、「にじり口」がほとんどです。
茶室と外(俗世界)の結界とも言われます。また、茶室では、誰もが身分の上下なく集う場であることに関係がありそうです。
茶室は、いろんなことに気を遣いながらの日常生活から離れた空間で、亭主は、茶道具を介して正客に思いを伝えたり、客は、亭主の思いを馳せて、双方が思いやる一座から、限られた時間ではありますが、私(住職)はとても豊かな関係を築くことができる場への「入り口」なんだと感じています。頭をたれることによって教えていただくことです。
ただ、「入り口」があるということは、「出口」があり、その場(茶室)から、必ず日常へ戻ることが決まっていますので、茶室での時間は、貴重な時間であるのだと思っています。
※中川個人の感想です。


日本文化の中で「道」がつく習い事が多くあります。茶道・華道・香道・書道・武道など、私(住職)は、そこに「続ける」ことで、技術を習得することと、人間形成も含まれているように感じています。仏教も江戸時代までは、仏道と表記されていたと思いますが、修行期間も含めて、仏の「教え」の道を歩んでいく姿が大切なのではないのでしょうか。
日本仏教は、険しい道を歩む仏道も、容易く歩む仏道も、示され、選択(せんじゃく)することができるのですが、選択は私がするのでしょうか。
この道を歩むことしかできないと仏様から示された道であるのではないでしょうか。
※中川個人の感想です。

【浄土真宗辞典】
道  梵語マールガの意訳。さとりに至るべきみちのことで、仏教の究極的な目的に至るための修行過程を指す。

中道 両極端を離れた中正の道。仏教の根本的立場。釈尊は苦行主義と快楽主義のいずれにもよらない中道の実践によってさとりを得たといわれる。龍樹は『中論』で一切を縁起・空と見ることを中道とする。(以下省略)