5月の日曜学校は5月7日です。朝7時30分から8時頃までです。
ご家庭での平素の朝時のお勤め(重誓偈・正信偈・5首和讃)を一緒にお勤めいたします。輪(りん)の鳴らし方や、念珠の持ち方もご一緒にしますので自然と覚えます。
また、ご参加いただきますと念珠の一珠をお渡しして、24珠で単念珠が、108珠で二連念珠ができるようにご用意しています。(親珠には「妙華寺」の寺院名が刻印されています)
6月の日曜学校は、第1日曜日が高田本山派婦人連合大会につき第二日曜日の6月11日に開催させていただきます。勝手を申しますがよろしくお願いします。
投稿者: myokeji-editor
春千部会お勤めいたしました
春千部会は、ゴールデンウィークの初日で暖かい日でした。ご法話の最中に急に強い風が吹き出し、唐戸が動いた大きな音に驚きました。ご参詣いただきました皆様には、ご焼香・ご聴聞いただきありがとうございました。春の千部会のご法話は義明寺の高藤英光師です。今回は『大経』の五眼(ごげん)を通して阿弥陀様のはたらきをお話していただきました。
お勤めが終わり次第、住職(私)もご聴聞されている皆様と一緒にご法話を聴聞できるように心がけていますが、出勤されましたご法中(ほっちゅう)様への挨拶などで最初から最後までお聞かせいただく時間をとるのが難しいのが現実です。ご法話をどうして聴聞したいのかは、やはり自分のことを改めて見つめる時間となると思うからです。阿弥陀のはたらきでしか、私が迷いの中にいることがうなづくことができないからです。また同じようなご法話と感じる時も、今聞くことは、私の人生の中で今(一度)だけですのでこの機会を逃すことはとても残念に感じます。
妙華寺でご法話を聴聞できるのは、年5回の行事の時だけです。仕事におわれる時代ですが、お時間を創っていただき、ご一緒にご聴聞いたしましょう。
また、お寺の行事の時は、ご聴聞されるお同行の皆様と共に、行事のお手伝いをしていただく方々でなりたっています。お勤めが始まる合図として梵鐘をついていただきます。それによって住職や出勤法中(ほっちゅう)は、衣体(えたい)を着替えます。お堂にお入りいただいた所の帳場ではお同行の皆様方が仏様へお供えいただきましたご懇志を各行事ごとに懇志帳に全て記帳していただいております会計担当のお同行様がいらっしゃいます。皆様のご懇志は、妙華寺にお預かりさせていただき、今後の妙華寺の護持、阿弥陀仏の「み教え」を伝える一助にさせていただいています。
境内墓地の通路整備の報告(4月)
生活の中の仏教のことば
4月のおてらおやつクラブ
地元の中日新聞の宗教欄に2週に渡り「おてらおやつクラブ」について掲載されました。提唱されました奈良県の浄土宗安養寺の松島住職が、始めたきっかけから今に至ることを語られています。妙華寺も賛同して三年目になります。今は宗派を超えて多くの賛同寺院が全国が活動されています。見えにくい貧困にお寺のお供えがお役に立てることがとても素晴らしいと感じています。
来月(5月)24日(水)には、奈良市の東大寺でおてらおやつクラブの報告会が開催されると、おてらおやつクラブ事務局さんから告知がありました。賛同する一寺院としてとても楽しみでもあります。

4月は、昨年もご寄付いただきました「神戸スイーツ学会」からのバウムクーヘンのご寄付がおてらおやつクラブ事務局様に届くようです。
・本企画は、普段洋菓子を食べる機会のない子どもたちに、美味しい洋菓子を食べてほしいというものです。お渡しするのは「子ども」限定とありました。
こうした企画が企業からおてらおやつクラブに持ち込まれるのは非常に有り難く、いつにも増して子どもたちに笑顔を届けることができると思います。
このようなおてらおやつクラブの活動に賛同いただける企業様が増えることも大切なことと思っています。
妙華寺にもバウムクーヘンが届きましたのでお寺のお供えと共におすそ分けしました。
ひとくち法話
親鸞聖人のご生涯をとおして
【第5回】青年僧『範宴(はんねん)』の懊悩
私たち凡人(ぼんぶ)の悩みは何かと問われたら、年齢はとりたくないとか、病気が早く治ってほしいとか、苦しまずにうまく死にたいとか、もっとお金があったらとかいう類(たぐい)のものです。
青年僧「範宴(得度時の親鸞聖人の名)」さんの比叡山時代の悩みはそんなものではなく、もっと奥深いものでした。いくら勉強しても修業をしても、内からむらむらと湧きだしてくる貪欲心(とんよくしん)を消そうとしても消せない人間としての悩みでした。たとえまた、自分自身は修業して救われたとしても、比叡山の麓の大原の百姓たちは如来さまの救いにあえるのだろうか、琵琶湖で網を投げる漁師たちはどうだろうか、西陣で機を織る女たちはどうだろうか、荷物を担いで物を売り歩く商人たちは救われるのだろうかと悩み続けられたのでした。
当時の比叡山に登って学問をし修業ができるのは、ごく限られた貴族等特権階級の子弟だけしか許されない時代です。純粋に思惟する範宴さんは山で研鑚し続けられなくなって、今の言葉でいえば強いストレスにとらわれ、山の内外を放浪して、何とか「誰でもが仏に会い救われる法」はないものかと、観音さんの化身である聖徳太子を祀ってある大和の寺々を訪ねて歩かれたのでした。
現代の私たち真宗の同行は、本願念仏によって誰もが例外なく救われるということになっていますが、この真宗の教えが確立されるまでには、このような青年僧「範宴」さんの深くてまじめな悩みを経過して出来上がったことを忘れてはならないのです。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より
第1回お寺で体験
4月29日春千部会お勤めします
また、お勤めの後ご法話をお聴聞していただけます。
布教使は、義明寺の高藤英光師です。
ご法話をお聴聞していただきますと「法会参加票」に押印させていただきます。ご聴聞をお喜びするご縁となりますように、10回ご参加いただきますと記念の品をお渡ししています。
仏教用語禁止の法話
地方に居住する私(住職)には遠い存在でしたが、このイベントに登壇される僧侶に妙華寺の婦人会総会の日の行事でお越し頂いた僧侶がお二人いらっしゃったことで今回は時間の都合をとり上京しました。
お一人は、昨年お越しいただいた青江覚峰師てす。今回の会場寺院のご住職で「暗闇ごはん」でお馴染みですが、妙華寺では、食事を通してのご法話(お話し)は婦人会会員の皆様にとても反響がよかったです。もう一人は、一昨年にお越し頂いた浦上哲也師です。メディアでも数多く取り上げられています「死の体験旅行」を開催していただきました。私(住職)も死に行く体験がとても貴重なものとして今も残っています。お二人のお話をお聞きできることを楽しみにしていました。
来場した皆さんから任意の単語を頂戴し、それを1個でも全てでも、とにかく会場から出た単語を使って法話をすること。これがこれまでのルールでした。
今回はそこに「仏教用語を使うのは禁止」というルールが追加されます!(※一部例外単語もあります)
難しい専門用語でけむにまくのは禁止、日常使用する単語で伝えること。NGワードの判断は増田が行います。
(増田は仏教用語連発で登壇者を惑わすかもしれません(笑))
また、当日は法話の前後で皆様の幸せ度がどれだけ変化するか、最先端技術を用いたマシーンも登場するかもしれません(まだこのマシーンについては未確定です)】とあり、「仏教用語使用禁止の法話」にとても興味を持ちました。
聴聞する私たちからお題を5つ出して、それを使いながら、仏教用語禁止の10分の法話がスタートです。法話されるお坊さんは、仏教用語を使わないと言う点が、いつもと違い緊張があるようです。休憩を挟んで2回の法話は大変だったと思いますが会場は盛り上がっていました。「いつも読んでるあれ」で「お経」と分かるのはうれしいですね。また、4人お一人づづ法話として成り立っていながら、4人の法話がつながっていくような今まで感じたことがない法話を聴聞する機会を得たことはとても有難かったです。
終了後、「しあわせ」(幸福度)の解説があり会場がこんなに「しあわせ」に包まれている場は珍しいようと聞き、私(住職)もこんなに楽しく法話を聞いたことが無かったと思い会場を後にしました。
和讃
佛のみ名を聞く人は ながく不退にかなふなり
※みてらむ火は「満つ」という動詞に、完了助動詞「り」と、予想の助動詞「む」が添った形。直訳すれば「満ちていよう火」となる。
※不退は不退転の略。仏道から後退しない意であるが、聖人においては、正定聚の地位をしりぞかないこと。
※かなうは 適合する意。あてはまる。
以上 【注解 国宝 三帖和讃 常磐井鸞猶著より】
小千世界・中千世界・大千世界を総称して三千大世界といいます。われをおく世界を悉く尽くしているのです。たとい火が満ちようとも、と言ってありますが、さまざまの業火が燃えあがるのが世界の様相です。願わないけれどもわきおこる障害を火で代表します。火が迫ることがなければ、仏名を聞かんとおもいたつ時節が到来しません。火をのりこえて向こうから聞こえてくるものが仏名です。火を過ぎて仏名を聞けよ、聞くことのできたひとは、不退位にかなってながく退転しないというのです。『讃偈』の「また退かず」を自身の最も愛好される不退として受けとめられたのです。「不退にかなう」とは、不退転に住する道の閉じられたものに、聞名一つによって今や不退の位に住するに等しいとて、称賛されるめでたさです。
水火二河の譬喩というのがあります。善導の信心体験の実録です。行者が白道を一歩一歩踏みしめてゆくのに、決して無事平穏ではありません。青黒い荒波に足もとをすくわれ、一方からは猛火がふきつけます。この水火は貪瞋煩悩のことなのです。これを徹底して言い尽くされた一節が『一念多念文意』にあらわれます。「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとえにあらわれたり」と。この大いなる見通しに遇えば、煩悩とのたたかいのはての克服というような妄想は、ふっとびます。地獄の猛火、化して清涼の風となる力によらなければ、火は燃え続けます。
以上【浄土和讃講話 川瀬和敬著より】



















