死後について

死後について
人口減少・既存の家族観の限界など、お寺を取り巻く環境も大きく変化しようとしています。新しい技術のAI故人も出現してきたそうです。

死後について考えると、身近な方の死も「二人称の死」から「三人称の死」に遠ざかるようなことも考えられます。一人称の私から離れた「三人称の死」は、寂しいことだけど、どこか人ごとのようなイメージです。そこに、戦争や自然災害での「死」であれば、不条理の死として、少し、感情移入できるかもわからりませんが、「二人称の死」のような感情がたかぶることはないように思うのは、私(住職)だけでしょうか。見えない「死者」の死後についてどのように捉えようとしていくのか問われているようにも感じます。
※中川個人の感想です。

何を見ている

何を見ている
私たちは、同じ景色を見て、「きれいだ」と思っても、「きれい」な対象は違う場合がほとんどです。心に響く(感じる)ものは人それぞれであることを理解しながら時間を共有しています。心に響くものが、自分の人生の支えになるものであるかはわかりませんが、自分の人生を支えるものに出遇うことで、より豊かな人生を歩む糧になることは確かです。

高田派では、17年に一度、栃木県本寺(専修寺)のご本尊の一光三尊佛の御開扉があります。法苑院妙華寺では、前回7回目の出開帳をお受けしました。私(住職)が生まれてからですと昭和43年(12歳)、昭和59年(28歳)、平成11年(43歳)、平成26年(58歳)に遇う機会がありました。12歳の頃のことは覚えていません(お稚児さんの1人として参加したと聞いています)28歳・43歳の時は、父が住職として、迎えました。前回58歳の時、当時の総代・お世話方と共に、住職としてお迎えしました。その時その時で、一光三尊佛をお迎えして、見ているもの(一光三尊佛)は同じでも、感じるものは違います。
次は、令和12年(2030年)どのような出遇いができるのでしょうか。

皆様にとって、一光三尊佛とは、どのような存在でしょうか。

※17年に一度、栃木県の本寺(専修寺)のご本尊(秘仏)が、高田本山で出開帳されます。数え年で17年と申していますので、16年に一度です。また、4月1日から2年間、高田本山に滞在され、その間に各寺院に出開帳されます。

覚えていますか?

覚えていますか
11年前の今(5月24日・25日)、妙華寺では、一光三尊佛御開扉法会を厳修していました。
高田本山では5年後に次の一光三尊佛をお迎えします。
その時、妙華寺でお迎えできるかどうかこれから皆さんと共に考えていきたいと思っています。

【下記の文章は、11年前のものです】

一光三尊仏の由来について

栃木県の本寺に伝わる一光三尊仏は、親鸞聖人が自ら善光寺よりお迎えされ、親しく御恭敬されました尊像であり、真宗高田派のご本尊であります。
この尊像は、中央に阿弥陀如来、脇侍(わきじ)として向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩が一つの光背(こうせ)におさめられいますので、一光三尊仏と言われています。
一光三尊仏の伝来については、かつて印度の月蓋(がっかい)長者が釈迦如来に懇請し、閻浮檀金(白金)で造られ、中国・百済(朝鮮)に渡り、欽明天皇の時代に百済の聖明王より、朝廷に献上された我が国で仏教伝来の最古の尊像であります。
当時、仏教に反した物部の守屋大臣が、この尊像を7日7夜「ふいご」でふき、三日三夜鉄板上で打ち砕こうとしたが失敗し、ついに万策つきて難波の堀江に棄てたと言われます。堀江に沈んで18年、推古天皇の8年に信濃国の本田善光という者が縁あってすくい上げて、郷里の信濃国にお伴し、自宅の臼の上に祀っていたが、多くの人々の信仰が厚くなり、やがて、勅命(天皇の命)により、長野に善光寺が建てられ善光寺の本尊となった。
嘉禄元年(1225)関東各地を教化されておられた親鸞聖人が、下野国高田にお寺を建てようとせられた時「速やかに信濃国善光寺に来るべし、我が身を分かち与うべし」と夢のお告げがあり、善光寺に赴き、一光三尊仏の一体分身の尊像を感得せられ、笈(おい)に納めて背負って高田へ帰り、専修寺の本尊としてあがめられました。
高田本山の第10世真慧(しんね)上人の時に、本山は伊勢国一身田に移されたが、下野の高田にそのまま一光三尊仏が安置され、善光寺にならって長く秘仏とされてまいりました。第17世円猷(えんゆう)上人は、伊勢をはじめ各地の御同行にも、尊像を拝ませたいと思し召し、出開帳をお許しになられ、それ以来17年目ごとに勝縁に遇うことができるようになりました。
王室においては、桜町天皇、後桃園天皇、後桜町天皇、光格天皇、仁孝天皇、明治天皇から御親拝あった尊像でもあります。
これらのことから、三国伝来の一光三尊仏、天拝一光三尊仏ともいわれます。
親鸞聖人の御和讃に
「弥陀 観音 大勢至  大願の船に乗じてぞ
生死の海にうかびつつ 衆生をよぼうてのせたまう」
とあります。私たちの救われて行く姿を如実に現して頂いている尊像に深く感激された一首でしょう。
当妙華寺としては、大正7年12月12日より5日間御開扉申し上げましたのが始まりで、平成26年5月24日・25日の御開扉は実に7回目のご勝縁でありました。
次回の高田本山での一光三尊仏御開扉は、13年後の西暦2030年です。

 

親鸞聖人降誕会(ごうたんえ)

親鸞聖人降誕会(ごうたんえ)
親鸞聖人の出自について覚如上人の『親鸞伝絵』に記されていますが、中世の史料には、聖人がいつどこで生まれたか具体的な記述がありません。
宗祖(しゅうそ)親鸞聖人は、承安3年(1173)に誕生されたことは、聖人のお手紙・書物に年齢が記されていますので判明しています。誕生の月日は、1月1日・2月上旬・4月1日、10月の諸説があります。これらは江戸時代に編集された聖人の伝記によるものです。その中で高田派の良空(りょうくう)の『高田開山親鸞聖人正統伝』に記された4月1日(太陽暦5月21日)説が有力になり、定着していき、場所については山城の日野の里に伝承があり今に至ります。また聖人の誕生日の行事として法会が勤まるのは明治に入ってからです。降誕会とは普通お釈迦様の誕生をお祝いする行事ですが、真宗では「親鸞聖人は阿弥陀如来の応現(おうげん)」と頂くところから聖人の誕生を降誕会と言いお祝いの行事をしています。

また、お同行の皆様の喜びの1つに親鸞聖人90歳のお年を「祖師寿(そしじゅ)」と言い90歳になられたお同行の皆様の仏縁を共にお喜び申し上げています。
男性は降誕会の5月21日に、女性は6月の最初の日曜日に開催されます高田派婦人連合大会の式典で表彰されます。このことを励みにされていらつしゃる方もたくさんいらっしゃるそうです。

抹茶ブーム

抹茶ブーム
5月は、新茶の季節でもあります。抹茶は、新茶を寝かせ(熟成させ)て、11月の開炉の時に味わいます。お寺では、お寺の行事や、身近な方との場で、薄茶でおもなす文化が続いています。
日常生活の中で、以前に比べ、抹茶を使ったお菓子が多くなりました。また、外国での需要もあり、国内での生産量は、それほど増えていませんので、これまで、抹茶(薄茶)を愛飲していた、茶道愛好家に届くことが、厳しくなっています。
いつも、抹茶を購入しているお店でも、以前は、製造元に発注すれば直ぐ送ってもらえる抹茶が今は、発注量がすぐ届くことはないそうで、お店に抹茶の在庫がある時と無い時があるそうです。
抹茶が世界的に認められ、需要が増えることは喜ばしいですが、手に入りにくくなるのは少し残念です。

なにか、生産システムの違いはありますが、今のお米騒動にも似ているような感じもします。※中川個人の感想です。

久居城下案内人の会

久居城下案内人の会
地域のボランテイア団体の1つに「久居城下案内人の会」があります。
妙華寺のHPでも何度か紹介していますが、久居城下の名所・史跡案内や講演・紙芝居・昔話など地域のボランテイア活動をされています。
「久居城下案内人の会」さんでは、妙華寺も、久居の名所・史跡案内の時に紹介をしていただいています。また、江戸時代の伝承として、妙華寺の本堂の屋根から空を飛ぶことを夢見た国友貢の飛行機の失敗の紙芝居を披露されたりしています。
会の地域をもり立てようとする思いは素晴らしく、私(住職)個人も応援をしています。

創建350年にむけて

法苑院妙華寺創建350年に向けて

久居(藩)は、藤堂高通が寛文10年(1670)に野辺野高台に造成した城下町です。城下東北の一角に寺町を設け、二ノ町と本町の北端に八幡宮(現久居神社)を設けました。高田派(当時は専修寺派と呼ばれる)の寺院(法苑院妙華寺)を設けることが実現し、藩主の菩提寺の西隣に、延宝8年(1680)に敷地が与えられ、福井県西光寺の僧自信を招き、寺院活動が初まりました。

久居藩の開藩350年は、令和2年(2020)に執り行われました。
法苑院妙華寺が創建され今年で345年 5年後に創建350年を迎えます。
どのように迎えるか、お同行様とともに考えたいと思います。

昭和53年に創建300年は、前々住職が同行の皆様とともに行事を執り行いました。

聞法

聞法
自坊のお寺の行事でお勤めのあと、布教使様に法話をお願いしています。
お同行様が熱心に聞法されている姿に頭がさがります。ただ、私(住職)は、お勤めのあと法中への接待や雑用でゆっくり、布教使様の法話を聞法することが難しく、後ほど録音した法話を聞くことが多く、反省することしきりです。

5月5日、薫風の中、奈良県田原本の本願寺派浄照寺様の報恩講に伺う機会がありました。布教使は葛野洋明先生で、妙華寺の報恩講でもご法話をお願いしています。
報恩講の初日の午前のお勤めは満堂で、引き続きのご法話でした。絵伝の法然聖人から親鸞聖人が「選択本願念仏集」の書写を許された場面から、真宗の要であります「他力本願」についての法話でした。仏の願いが私にとって、どれほどのものか。布教使様が育てられてきたことからのあたたかいエピソードを交えての法話でした。自坊とは違い、1人の聞法者としての時間はとてもありがたい時間でした。私(住職)にとって聞法できる時間を限られています。聞法の時間を大切にしていきたいと感じています。
※中川個人の感想です。

法事

法事
法事は、冠婚葬祭の一つで、日本仏教の寺院活動として、僧侶を招き、故人を偲び、供養するお勤めをすることとです。
私(住職)がお寺のお勤めの手伝いを始めた20代の頃(今から40年以上前)は、家の先祖の年忌(法事)では、自宅のお仏壇でお勤めする時、近所の方や親戚も集まり、家族と共にお勤めをしていました。お勤めが終わると、食事の席も設けられことも多く、亡くなられた方を偲びながらも、賑やかな時間でした。その為、法事をつとめることは、家族の負担も多かったと思います。今は、地域や親戚との関係性が希薄になってのことも関係すると思いますが、家族だけであったり、近い親戚とのお勤めが大多数です。

法事とは、故人の為か遺族の為にお勤めするのかと議論があります。私(住職)は、「法事」と言われるのは、信仰している仏(み教え=法)を伝え聞くことと感じますし、信仰している仏(み教え=法)への讃歎と捉えることもできると思います。
故人の命日(近く)に、遺族が、信仰して関係するお寺の僧侶を招き、故人を偲び、安穏を願うことで、信仰するみ教え(法)や仏を讃歎する場ではないかと感じています。

しかし、現実には、あまり寺院や「み教え(法)」について関心がなくても、家族が亡くなられた場合のお別れの場(葬儀)や遺骨をどうするか(埋葬する場所が確保されているか)を考えなければいけない時に、寺院や僧侶に関わる場合が出てくるのではないでしょうか。そう考えると、故人の思い出や関係性はあまり重要視されなくなり、故人の残ったお骨を埋葬する(預ける)先が、お寺や墓地と考える場合もでてくるのでしょう。
※中川個人の感想です。

※今後、超宗派のグループで「法事」について考える機会があるようです。関心をもって、議論を考えていければと思っています。

会記

会記
茶室で一服のお茶をお出しするとき、その一服がおいしくいただいてもらえるよう、お招きする正客がお茶に精通しているかどうか関係なく、掛軸や花など、季節のことや、もてなす正客のことを考えて、茶道具を考えます。
その時の覚えとして道具組を書きだしたものが自会記(じかいき)で、正客が覚えとして掻き出すのが茶会記と思います。
先月、遠方からお訪ねいただいた知人がいました。久しぶりの再会で、お茶一服差し上げました。茶室での会話は、季節のことや、道具のことが中心でありますが、そこに込められた亭主の想いや、亭主の想いを汲み取る正客の会話は、亭主(住職)と正客だけの特別な時間でとても豊かな時間になりました。最初で最後ではないと思いますが、一期一会の時間で、今を生きていることを実感します。
※中川個人の感想です。