法事

法事
お寺のHP2025-05-05に私(住職)の感じている法事について記しました。
今回、(一社)お寺の未来の井出さんが、「まいてら」のHP「まいてら新聞2025年7月14日付」に「法事を重ねる中で見えること。息子の13回忌を終えて」の記事が掲載されています。
生活者からの「法事」の視点がとても詳細に語られています。
私(住職)が、井出さんの記事を拝読して感じるのは、これまでの社会で、当たり前のようにお勤めしていた「法事」の意義を、しっかりと継承しておられると感じました。
これまでの「法事」を別の視点から捉えると、例え関係性が深い親戚であっても他者を呼ぶことが家族の負担と考えることで、縮小していく葬祭の行事も、本当の意義を知ることで、「法事」を負担として捉えるのでなく、故人と共につながりながら歩む人生の豊かな時間と感じるのだと思います。
私(住職)も父母・祖父祖母の年忌法要を通して、今の自分と故人の関係を結び直しているつもりです。
タイパやコスパが重要視されている日常生活ですが、心の分野にも効率が求められるのは少し違うように感じています。私の大切な方の「いのち」を通して、関係する他者との対話を重ね、私自身の「いのち」について向き合う時間となるように感じます。
「法事」については、諸事情で、これまでのようにお勤めが難しい場合もあると思いますが、大切な方とのつながりとして改めて考えてみませんか。
皆様も一度「まいてら」の井出さんの記事を拝読していただければうれしいです。
※ 中川個人の感想です。

セミ

セミ
子どもの頃から、セミの鳴声を聞くと夏を実感します。夏休み境内でセミ取りをしていた時に、「セミは、幼虫時、地中に長い年月とどまり、成虫としての活動は一週間ほどのいのちだよ」と教えられました。夏と共に終わる、はかない「いのち」から何を学ぶでしょうか。

仏教を学びはじめてから、「蟪蛄(けいこ=セミ)は春秋を識(し)らず」の言葉を知りました。後ほど知ったのは、この言葉の後に「この虫(むし)あに朱陽(しゅよう)の節(せつ)を知(し)らんや。知るものこれをいふのみ」と続きます。
「セミは夏しか生きられないので、春とか秋を知らない。夏以外の季節があることを知っているものが、セミは夏しか生きられないと言えるのだ」という意味です。
このことから、感じるものは人それぞれです。

私(住職)は、「私たち人間のいのちも、はかなく短いもので、四季は知っているけど、生まれて、死ぬまでのことしかわからない「いのち」であること。そのことを、煩悩具足の愚かな私として捉えることを学び、今の「いのち」をどう生きるか問われている」ように味わいました。

※中川個人の感想です。

『地獄へようこそ』

『地獄へようこそ』三重県総合博物館企画展(7月26日から9月23日)
地獄と聞くと思い出すのは何ですか。私(住職)が幼少の頃、「悪いことをしたら地獄に落ちる」「嘘をつくと閻魔さんに舌を切られる」など、「生き方への」忠告のように、大人から諭されました。夏には、お化けの話と共に、地獄の有様を聞いたこともありました。
仏教を学ぶ中で、「六道輪廻」から抜け出す世界があることを知ることになりました。

三重県総合博物館の『地獄へようこそ』の企画展は、三重県内の寺社に伝わる法宝物から「地獄」と共に「浄土」の紹介をされています。身近な寺院の法宝物を拝見できることも魅力の1つです。
同時期に、高田本山の宝物館「燈炬殿」では、「阿弥陀さまの世界へようこそ」の特別展(7月18日から8月31日)も開催されています。併せて鑑賞することもお勧めです。

8年前地獄をテーマにした展覧会『地獄絵ワンダーランド』がありました。その時は、水木しげる氏の「水木少年とのんのんばあの地獄めぐり」もあり現代にも伝わる地獄絵を楽しみました。もちろんこの展覧会でも「浄土」に関する法宝物も展示されていました。

※中川個人の感想です。

外面評価と内面評価

外見評価と内面評価
「ルッキズム」 外見に基づいて人を評価したり、差別する考え方や社会現象。
私は、外見で人を評価しているのか。内面の評価が正しいのか。難しい問題です。
「あなたの好みの人はどんな人」なんて聞かれた時、どう回答しますか。

私(住職)は学生時代俳優の岡崎友紀のファンクラブに入っていました。
50年以上のことで、ファンとタレントの距離は今に比べてとても離れていましたが、今で言う「推し」になるのでしょうか。 いつしか、ファンクラブも退会していました。

人と関わる中で、ずーと友達付き合いをしていたのに、その人の内面(本心)を垣間見る時もあります。そして、距離を取ってしまうことも経験しました。
ただ、私の都合でのことかもわかりません。
本当の内面(本心)など他者にわかるはずがないのではとも思っています。

「学生として」「社会人として」「●●として」のイメージは、全て私の中の「学生」「社会人」「●●」のあり方があり、それと比較しながら「今の学生」「あの社会人」「●●らしくない」など判断してしまう私がいます。
対面して話をする時も、外見を評価し、内面も自分に都合の良い評価する私がいます。

仏教では、あらゆる「いのち」は平等と説かれています。外見や内面を気にする私(住職)にあらゆる「いのち」を平等と捉えることができるのかとても考えさせられます。

※中川個人の感想です。

仏徳讃嘆

仏徳讃嘆

何時の時代でも、争い事が絶えません。それぞれの主張は正義であっても、対する立場から見れば、正義では無く争うことになるのだと感じます。冷静に、落ち着いてと言っても、双方が他者の立場を理解できなければ、かわることはないように思います。
私が生きていく上の欲望は無くなることはありません。

取り巻く状況は同じでも、「私とは」と内面を省みることができるのであれば、もう少し、他者のことも考えることができるのではないかと希望的な思いがあります。

私は、仏(阿弥陀如来)が(私に成り代わり仏の修行をしてくださいました)徳で往生できる身になることができました。仏徳讃歎する生活を送ることが、心平穏になることとなりました。このような言葉を聞くと驚かれるかもわかりませんが、仏法を聴聞していくと、自分自身が変わっていくのだと思います。いつも、自分の「ものさし」からしか考えられない私が、仏様の「ものさし」によって変わっていくことができる。とても有難いことです。
このことから、真宗寺院では、お寺の行事や法要の場で仏徳讃嘆しています。
「おかげさま」であったり「有難い」の言葉は、仏の徳をいただいて初めて感じる世界ではないでしょうか。
※中川個人の感想です。

六曜

六曜
今もカレンダーに記されている「六曜」があります。
「六曜」を冠婚葬祭の日で気になさっていますか?

私が生まれた昭和の時代では、葬儀は「友引」にしないことが共通認識でした。その為、火葬場の休日であったり、僧侶の参加する会議などが、「友引」の日に設定されることが多かったような気もします。平成から令和の時代になると急速に「友引」に葬儀をしないことを、あまり気にされることではなくなってきました。今では、多死時代に入ったようで、火葬場も年末年始を除いて稼働しているところが多く、火葬の時間を決める(押さえる)ことから葬儀の日時が決まってくることも影響しているのかもわかりません。
もちろん「六曜」を気になる方もいらっしゃいますので、対応はしています。

冠婚の部門ではまだ「六曜」を気になさる方は多いように感じます。
※中川個人の感想です。

造花

造花
お仏壇やお墓の花を「造花でもよろしいですか」とおたずねが増えています。

造花について、調べると外国でも日本でも随分以前から考えられていたようです。
切り花は、育てるのに手間がかかるのと、愛でる時間が限られていること(はかなさ)から、手間がかからず、見た目も長い間良好であることが、技術的に可能になり今は手軽に楽しめることから増えてきているのだと思います。

また、切り花として栽培することも難しい植物は、造花は貴重な存在になっているのでしょう。

自宅や公共施設・ショッピングセンターなど多くの場所で観賞用として私たちの目を楽しませています。

私たち人間の願いから生まれてきたものです。

お仏壇やお墓の花もその延長上で考えれば、造花でも良いのではと個人的には思います。
ただ、お仏壇にお花を供える意味を考えるとどうでしょうか。
私たちの目を楽しませる為にお供えをしているのでしょうか。

お仏壇の荘厳の1つである花は、三具足の1つです。三具足は、燭台・香炉・花瓶で、燭台のローソクは、仏の智慧(光)・香炉は仏の教え・花瓶の花は仏の慈悲を象徴しています。私たちは、感覚として、仏様にローソクや香・花を手向けていますが、

本当は、仏様から私たちへ手向けられたものが三具足であります。
本来の意味を理解しながら、考えてみようと思います。
三具足の1つローソクも今は、電気式や電池式も多くなっていますね。
※中川個人の感想です。

高田本山からの連絡

大裏方様のご逝去
高田本山から連絡がありました。
7月7日に大裏方様がご逝去されました。
仮通夜は、7月10日午後6時からお対面所 密葬式は7月11日午前11時から如来堂にて執り行われます。

本葬儀につきましては、後日案内があります。

長年、高田本山専修寺のお裏方様として、高田派の婦人会、坊守会、小袖会などで活動されていらっしゃいました。また、学問への関心も高く、高田学報にも論文を発表されていました。専修寺に伝わる宗旦古流の歴史(伝来)や茶道具の保存にもお力添えをいただいてことが思い出されます。
※中川個人の感想です

学びなおし

学びなおし
一般的に、仏教について学ぶのは、高校の日本史だと思います。私(住職)も日本史で仏教が日本の中でどのように受容されてきたか学んだ記憶があり、それが私の仏教理解の根底にあるものだと思います。考えて見ると40年前の学びから、仏教理解が更新しているでしょうか。

当時「鎌倉新仏教」として、取り上げていた概念も今は違うようです。

『日本史を宗教で読み直す』山川出版社が手元に届きました。

学校の教科書は、学習指導要領の枠組みで、仏教は、日本史の中で説明されているようです。もう一度、教科書の「日本史」を宗教から読み直すことで、学生当時の仏教理解が更新されるような気持ちです。夏が近づいてきた今、学生時代の夏休みの課題のようにこの1冊を拝読できればと思っています。

※中川個人の感想です。

 

孤独

孤独
多くの友人がいて楽しく生活をしていても、「孤独」を感じる時はあります。
「孤独」は、対人関係ではなく、私の中にあるものだと思っています。

『佛説無量寿経』に「独生独死独去独来」(人は独りで生まれ独りで死に、独りで去り独りで来る)の言葉があります。人生における根源的な孤独を表して、生まれてくる時も死ぬ時も、誰にも代わってもらえないことです。また、他者に依存しないで、自分自身の足で人生を歩むことの大切さを示しています。
だからと言って、独りだけで生きていくことなんてできません。

「孤独死」の話題をよく耳にするこが増えてきました。
亡くなって何日もたってから亡くなっていたことがわかるとして、独居の課題としても取り上げられます。周囲との関係性を深めて「見守り」体制を十分機能させることの大切さも叫ばれます。
お寺にも、地域の方々やお同行の「見守り」ができる活動もあるようにも感じています。実現できる取り組みを考えていきたいと考えています。

※中川個人の感想です

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