現世利益(げんぜりやく)和讃

現世利益(げんぜりやく)和讃

和讃をご紹介いたします。和讃について多くの参考書がありますが、『注解 国宝 三帖和讃』常磐井鸞猶著と『浄土和讃講話』川瀬和敬著より紹介します。
浄土和讃 現世利益和讃(国宝本では14首)(文明本では11首)

天神地祇はことごとく 善鬼神となづけたり
これらの善神みなともに 念仏のひとをまもるなり

天の神も地の神もすべて、仏法を守護するよい神々であるから善鬼神と呼ばれている。
これらの善き神々がみな一緒になって、念仏する人を護られる。

梵王帝釈四天王等が天神、堅牢地祇八大竜王等は地祇。
超人間的な力能を持つものを鬼神と言い、その力能によって仏法を保持し、国土を守護するものを善鬼神、これに反するものを悪鬼神とする。

※ 標題の「現世の利益和讃」の註解として
他力の信を得て念仏する者にはおのずからこの世の利益が法徳としてそなわる
ことを、主として金光明経に拠りつつ和讃する
以上 【注解 国宝 三帖和讃 常磐井鸞猶著より】

梵天・帝釈天・四天王などの天の神、堅牢地祇・八大竜王などの地の神はみなもろともに、不思議な能力を備えているから鬼神と呼ぶべきですが、仏法を守護しますから善鬼神と名づけます。これらの善神はみな一緒に、南無阿弥陀仏と称える人をお護りになります。

他の首の解説の中で、「現世利益和讃」といっても、「浄土和讃」の中に編入されているのだから、阿弥陀仏の称讃を離れていないのです。現世、この世といいつつ浄土よりのはるかな慈光を蒙る中に見い出されたものなのです。浄土に対して現世の存在を主張しているのではありせん。浄土があるからこの世はないがしろにするのでなく、浄土の光の中たしかな一歩をふみしめることができるのは、護りの力がはたらいていることをあらためて知るのです。
以上【浄土和讃講話 川瀬和敬著より】

国宝

国宝
「仏教する日本① 見えるものと見えざるもの」を拝読しながら感じました。
最澄の「山家学生式」の「六条式」に「国宝とは何物ぞ。宝とは道心なり。道心ある人を名づけて国宝となす。故に古人言く、『径寸十枚、これ国宝に非ず。照千一隅、これ則ち国宝なり』と」

私たちは、「国宝」と聞くと、文化的、学術的に価値の高いものと考えてしまいがちですが、本来は、人のことと知りました。

先ほどには、続く文面が、「古哲また云く、『能く言ひて行うこと能わざるは国の師なり。能く行いて言ふこと能わざるは国の用なり。能く行ひ言うは国宝なり』と」
議論はできるけど、実行力がない人は、国師である。実行力はあるけど論理的に明解にできない人は、国の用である。言説が理論的に正しく、かつ実際に実行できる人が、国の宝(トップ)である。

ここでは、比叡山の僧侶への言葉ですので、天台座主が国の宝であることを示されているようです。
国の宝としての判断基準は、「(他)人のために働くのでなければいけない」ことが、最澄が求めた菩薩=国宝のあり方のようです。
いきなり、「菩薩」の言葉が出てきますが、「仏道には、菩薩と称し、俗道には君子と号す」
仏道と俗道が同じ菩薩精神を持って、精神的な仕事と世俗的な仕事を分担してやっていく考えで、日本仏教のあり方として捉えることもできると感じます。

 

※中川個人の感想です。

「国宝(こくほう 、旧字体:國寶)とは、日本語の第1義には、国の宝[1][2]。第2義には、近代以降の日本において文化史的・学術的価値が極めて高いものとして法令に基づき指定された有形文化財を指し、具体的には、重要文化財のなかから特に価値の高いものとして指定した[3]建造物、美術工芸品などをいう[1][2]。」((https://ja.wikipedia.org/wiki/国宝 参照 2025年12月31日))

あなたは、何を思い出しますか

あなたは、何を思い出しますか。
過去
時間が過ぎ去ることで、私(住職)の過去(これまで)が増えていきます。多くなれば忘れてしまうこともあるのは当然です。高齢であれば、覚えていることは減っていくのが当たり前ですが、忘れることができないものもあります。それはどうしてでしょうか。

私(住職)は、うれしいこともあれば、悔しいことや悲しいことさまざまな忘れられない過去を振り返りながら生きてきたようにも思います。
年の瀬は新しい年を迎える準備で忙しいことですが、少しの時間静かに、この年を振り返ったり、自分のこれまでを振り返ったりして過ごすことも大切なように思います。

※中川個人の感想です。

 

「看脚下」

「看脚下」千玄室著 淡交社
今年8月14日に102歳で永眠された裏千家15代家元の令和5年百寿の時の書き下ろされた1冊。今年12月に発刊されました。青年期に学徒動員され、終戦を迎えられた中、多くの戦友が戦死したことを生涯忘れず、茶道家元として、「平和を祈願」される姿は、世界各国からも認められ、茶道家元の枠を越えた人格者だと感じました。
また、日本人の心のあり方にも共鳴することもあり、素直な気持ちで読み終えました。
書名の「看脚下」は、禅語で知られていますが、自分の足もとを見ることから、自分自身をしっかり見つめ、自身のあり方を問い直していくことを、自ら実践された生涯であったと思います。
私(住職)自身も、古希を迎える歳に、自分自身を見つめなおしていこうと思っています。
※中川個人の感想です。

2025(令和7年)のアーカイブ②

2025(令和7年)のアーカイブ

②報恩講
真宗寺院で一番大切な行事の報恩講もこれまで通り行うことは難しくなってきたと感じています。報恩講の時だけですが、お非時(ひじ)を用意しています。このお非時も以前に比べると喜ばれる方が少なくなっています。また、本堂の荘厳(しょうごん=荘つけ)
も他の行事に比べて大変です。重ね餅も10年ほど前から近くのお店が廃業して5㎞ほど離れたお店に前日取りに行くようになりました。今年は、落雁をお願いしていましたお店が休業でできなくなりました。時代の流れと言えばそれまでですが、「報恩講」の意義だけはこれまで通り伝えていきたいと思っています。

2025(令和7年)のアーカイブ

2025(令和7年)のアーカイブ

①喪失感
6月に変形性膝関節症になり、座ることができません。当初は、しゃがむことも(痛みを伴い)できず、身も心も本当に立ち尽くすだけでした。半年経過しましたが座ることはできずにいます。「今までできていたことが、できなくなる」ことは生きていくなかでは当たり前のことと、他者に言っていた私(住職)が、自分がそのようになってうろたえている姿があります。「僧侶は座るのができないと、お勤めが不自由ですね」とねぎらっていただくのですが、近年は、本堂のお勤めをイス式にしましたのでそれほどの不自由はありませんが、ご自宅でのお勤めの時にイスをお借りすることになりご迷惑をおかけしています。
また、茶道の稽古を続けていましたが6月から休止しています。イス式の茶道も普及していますが、点前を考えると今の畳の茶室では難しいです。(水屋の仕事も基本が座ってするものですので難しいです)
とても大きな喪失感を味わっています。

仏教する日本① 見えるものと見えざるもの

「仏教する日本1」見えるものと見えざるもの 春秋社
近江ARSの活動の柱の「仏教を通して日本を読む」中で、末木文美士を迎えての講演と対談をまとめた著書のようです。
私(住職)は「見えるもの見えざるもの」の言葉に反応して(末木文美士氏の著書でも語られていて以前にも拝読したこともあり)興味を持ち手にした1冊です。
これから年末年始に入り、少し時間が取れそうです。積読(つんどく)にしないで読み始めたいと思っています。

紫雲会

紫雲会
12月17日 津市正覚寺で開催されています聞法会に参加できました。
講師は、今年の妙華寺の報恩講で出講していただきました本願寺布教使の葛野洋明先生でした。「浄土真宗の救いのよろこび」(古本『拝読 浄土真宗のみ教え』)からの仏徳讃嘆についての法話でした。仏教は、私が仏になる教えであることを要として、聞法しなければいけないことや、『観阿弥陀経』の韋提希の嘆きは私自身の嘆きであることも押さえていかないといけないこと。他力回向によりいただく安心(あんじん)から私に起こる行いは「仏徳讃嘆」しかないのではお話されました。
最後に、親鸞聖人と恵信尼の関係が素晴らし関係であったことを喜ばれました。
今の私(住職)も、もう一度初心に戻り、これからも、聞法しようと勇気をいただいた思いです。
※中川個人の感想です。

未来の法友

未来の法友
彼が私のお寺にやって来たのは16年前の10月でした。その年の3月に前の犬が亡くなってもう飼わないと誓っていたのに、愛くるしい姿を見て飼うようになっていました。今、ペットを外で飼っていると「虐待」と思う方もいらっしゃるかもわかりませんが、「番犬」として育てていました。一度、TV番組で紹介された時は、県外からも彼に会いたいと訪れる家族が何組かいらっしゃいました。今年の夏は例年になく厳しく長かった頃はとてもバテていましたがその季節を乗り越えた10月(16年を迎えた)頃から、散歩の距離も減りだし、多分、目も耳も臭覚も衰えてきたようで食事も時間をかけてするようになっています。近い将来分かれることを考えている中、彼はどうなるのか。こんなに私(住職)や家族に優しい気持ちにさせる存在で、家族の一員のような彼は。
多くの安らぎを与える彼は、次に人間界に生まれ変わり、仏法を聴く中で周囲をこれまで以上に安らぎを与える存在として往生すると思っています。未来の法友の誕生を喜ぼしく念じています。
※中川個人の感想です。