源空上人(げんくうしょうにん)
源空上人は法然上人(ほうねんしょうにん)の名で親しまれています。
上人は平安時代の末、崇徳天皇(すとくてんのう)の長承2年(1133年)4月、美作(みまさか)の国(現在の岡山県久米南町)でお生まれになりました。親鸞聖人より40年前のことでした。
ご幼名は勢至丸(せいしまる)と申されましたが、勢至菩薩(せいしぼさつ)に似て、よほど智慧のすぐれたお方だったのでしょう。御父君は明石の代官の夜襲を受けて、亡くなられたのですが、その時、枕元に勢至丸を呼んで「父の恨みで代官を『敵討ち』してはならぬ。次はお前も敵対されて、これが代々続いて永遠に恨みとけないものであるぞ」とさとされました。
この遺言が法然上人を仏道に向かわされたと伝えられています。
上人の御事績は数多くありますが、中でも特筆すべきことは『選択本願念仏集(せんじゃくほんがんねんぶつしゅう)』を著されたことでしょう。ここで老若男女や身分の上下に関係なく、お念仏一つでまちがいなくお浄土まいりができると説かれたのでした。
比叡山を去り東山の吉水(よしみず)を拠点に説法される法然上人の許には、庶民も含めて群衆が門前市をなすようでした。ここへ親鸞聖人も観音菩薩の夢告をうけて馳せ参じられました。親鸞聖人は『教行証文類(きょうぎょうしょうもんるい)』の中の「正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)」に
本師源空明仏教(ほんじげんくうみょうぶっきょう) 憐愍善悪凡夫人(れんみんぜんなくぼんぶにん)
真宗教証興片州(しんしゅうきょうしょうこうへんしゅう) 選択本願弘悪世(せんじゃくほんがんぐあくせ)
と讃歎されたのでした。わが師法然上人がこの世に現れなかったら、浄土の真宗の教えを、庶民に届けることもできなかったと、上人の徳を称讃されたのでした。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より