真宗入門講座

真宗入門講座
今期の真宗入門講座は、高田本山専修寺の「一光三尊仏絵伝」の紹介です。
一光三尊仏は、善光寺のご本尊(秘仏)として有名であります。その由来が描かれた「善光寺如来絵伝」も有名です。
真宗寺院でも高田派の本寺の如来堂のご本尊は、一光三尊仏です。三河(愛知県)の初期真宗寺院には、古い「善光寺如来絵伝」を大切にされている寺院も複数あります。
親鸞聖人と善光寺との関係についても諸説ありますが、高田派では、善光寺聖の1人として、「一光三尊仏」を感得されたのが本寺の「一光三尊仏」と伝承されています。
高田本山専修寺に伝わる「一光三尊仏絵伝」は、三河の妙眼寺の「善光寺如来絵伝」(3幅)に親鸞の高田建立譚を加え4幅仕立ての絵伝と紹介されました。
4年後に、本寺の一光三尊仏の御開扉があります。それまでに「一光三尊仏絵伝」について学びたいと思っています。
※中川個人の感想です。

茶道のある生き方

茶道のある生き方
今年古希を迎えます。およそ40年間、お茶を楽しんできました。
昨年の6月に変形性膝関節症を患い、座ることができずに、お茶の稽古も休んでいます。
残念な事ですが、稽古の再開は難しいようです。
これまで、茶道から学んだことを振り返ってみようと思いました。
「にじり口」
草庵(小間)の茶室の、客の入り口は、「にじり口」がほとんどです。
茶室と外(俗世界)の結界とも言われます。また、茶室では、誰もが身分の上下なく集う場であることに関係がありそうです。
茶室は、いろんなことに気を遣いながらの日常生活から離れた空間で、亭主は、茶道具を介して正客に思いを伝えたり、客は、亭主の思いを馳せて、双方が思いやる一座から、限られた時間ではありますが、私(住職)はとても豊かな関係を築くことができる場への「入り口」なんだと感じています。頭をたれることによって教えていただくことです。
ただ、「入り口」があるということは、「出口」があり、その場(茶室)から、必ず日常へ戻ることが決まっていますので、茶室での時間は、貴重な時間であるのだと思っています。
※中川個人の感想です。


日本文化の中で「道」がつく習い事が多くあります。茶道・華道・香道・書道・武道など、私(住職)は、そこに「続ける」ことで、技術を習得することと、人間形成も含まれているように感じています。仏教も江戸時代までは、仏道と表記されていたと思いますが、修行期間も含めて、仏の「教え」の道を歩んでいく姿が大切なのではないのでしょうか。
日本仏教は、険しい道を歩む仏道も、容易く歩む仏道も、示され、選択(せんじゃく)することができるのですが、選択は私がするのでしょうか。
この道を歩むことしかできないと仏様から示された道であるのではないでしょうか。
※中川個人の感想です。

【浄土真宗辞典】
道  梵語マールガの意訳。さとりに至るべきみちのことで、仏教の究極的な目的に至るための修行過程を指す。

中道 両極端を離れた中正の道。仏教の根本的立場。釈尊は苦行主義と快楽主義のいずれにもよらない中道の実践によってさとりを得たといわれる。龍樹は『中論』で一切を縁起・空と見ることを中道とする。(以下省略)

テレホン法話

テレフォン法話
電話を通して、法話を伝える「テレフォン法話」誰が思いついたのだろう。
全国でたくさんあると思います。テレフォン法話(伝道)活動をされている親戚寺院から、法話集をお送りいだきました。聴くことと読むことは少し違いますが、わかりやすい言葉で、親鸞聖人や仏教のことを伝える姿がとてもすてきです。今では、動画を使っての伝道もあり、法話会に参加できない方も、居ながらにして法話に親しめる時代ですが、これまで続いている、文書伝道やテレフォン法話(伝道)も心が安まります。
※中川個人の感想です。

葬祭の簡素化

葬祭の簡素化
葬祭について簡素化が進んでいます。もちろんこれまでどおり、大切な方とのお別れを丁寧にされる方の割合は多いですが、枕勤めも、通夜・葬儀もしないお別れも経験しました。年忌法要も、親御さんのそれほど遠くない年忌も勤めない方もいらっしゃいます。簡素化と言う言葉には、これまでの地域コミュニティや親族コミュニティが今とは違うほど豊かであったことは含まれてはいません。
更に、生前、墓じまいをされる方も増えています。それぞれに事情があるのはわかっているつもりですが、時代のせいにはしたくありません。
この考えを推し進めていくと、生きている時も生き方の簡素化が進んでいくのではないかと思っています。自立して生きていくことができず、他者の助けが必要になった時、簡素化と言うだけで、「いのち」の選別が始まっていくのかもわかりません。

一身田の高田本山では、親鸞聖人が往生され760年以上になりますが、1月9日から16日まで、「お七夜」と呼ばれる親鸞聖人の報恩講が勤まりました。以前よりは、参詣者も少なくなっていると言われていますが、毎年の報恩講に遇うことがうれしいと仰る方も私(住職)の周りには、たくさんいらっしゃいます。私(住職)もその1人です。遙か昔の方の報恩講(祥月命日)を有難く思う気持ちはどこからくるのでしょうか。

大切な方の祥月命日のお勤めを何年も続けられているお同行様も複数いらっしゃいます。寂しさや悲しみもあると思われますが、続けていく中で、亡き人を通して、今の自分と関係を結び直しているようにも感じることがあります。そこには、自分だけの思いから他者への思いを馳せる豊かな気持ちを感じることがあります。
※中川個人の感想です。

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【案内】選択本願念仏集の掛軸

【案内】選択本願念仏集の掛軸
今年も本堂西余間に「選択本願念仏集」の 掛軸を荘厳します。(2月10日まで)
令和3年に修復しました「選択本願念仏集」の掛軸を、法然聖人のご命日(1月25日)に、ちなみ本堂西余間に披露します。ご興味のある方は、ご覧下さい。
法務などがありますので、事前にご連絡いただけますようお願い申し上げます。
※本堂でお勤めなどがある場合は、ご覧いただけませんのでご了承ください。

選択本願念仏集 掛軸 3幅 妙華寺所蔵
紙本 着色 表具縦194cm横97.5cm 本紙縦142cm横77.5cm

法然聖人の『選択本願念仏集』の内容を絵画で著している3幅の掛け軸。
1幅目から3幅目全て下から上へ6段に分かれ、3幅目の最後(上)の段は「選択本願念仏集終」と書かれています。
法然聖人の吉水の草庵に九条兼実が訪れた場面から初まり、法然聖人が弟子7名(内1名が祐筆)に話をされている。次に『選択本願念仏集』の名札「第1章」から「第16章」が3幅に、その内容が描かれています。

妙華寺が所蔵している「選択本願念仏集」の掛軸について、令和元年から青巖寺の清水谷正尊師に調査を依頼していました。令和3(2021)年12月24日に掛軸を撮影し、12月27日にこれまでにわかったことを報告していただきました。

「選択本願念仏集」は法然聖人が著した漢文の書物で、称名一行の専修を主張した、浄土宗の独立を宣言した立教開宗の書物でもあります。親鸞聖人は、29歳で法然聖人に帰依し33歳の時、書写を許され、その喜びを「顕浄土真実教行証文類」で述べています。その教えを自分の言葉で晩年まで多くの人々に伝えています。

漢文の「選択本願念仏集」が、江戸時代には、その教えを広める中でより多くの形態の1つとして絵画化が生まれてきたと思われます。

「選択本願念仏集」を最初に絵画として描いたのは、高田敬輔の「選択集十六章之図」です。この絵画を元として「通俗絵図選択本願念仏集」の挿絵が作製されたようです。 また、同時期に「図画和字選択集」を関通が開版し、その挿絵を和風で描いたのが忍海と言われる浄土宗の画僧です。

調査された清水谷師は「図画和字選択集」の挿絵の部分に注目し、挿絵を妙華寺の「選択本願念仏集絵伝」に合わせてみると一致したことで、「透(すき)写し」と言う手法で描き、配置を決めて掛軸の紙に写した後、着色したと報告していただきました。

挿絵と同じ構図でありますが、詳細な部分で違いがみられる部分もあります。当初、絵画が精密でなく、絵師の卵が描いたのではないかと感じもしていましたが、掛軸に至る作業としてはとても根気がいる仕事だったと感じられます。

報告を受けながら、3幅の選択本願念仏集の掛軸が、妙華寺の西余間に掛けるサイズですので、そこに荘厳し、法然聖人の「選択本願念仏集」を多くの方にわかりやすく伝えていた時期もあったのだと想像しています。

継承・承継・伝承

継承・承継・伝承
「家の代を継ぐ」「跡取り」「代替わり」などの言葉はあまり使われなくなってきたように感じでいます。今の時代 代々受け継がれる家は少なくなっています。生活する場(家)が移動することも少なくありません。
そのような世の中でも、受け継がれる老舗のお店や、日本文化でのいろいろな家元、寺社もあります。そこには次の代への「継承」が大きな課題でもあります。多くの場合、同じ場所で●年も続いていますので、その地域が大切な場ですし、根本の意義は変わらなくても、ふるくからのしきたりなどをその時代に合わせた解釈や工夫が必要な場合もあります。そして、何よりも、継いでいく覚悟をもった次代がいることだと思います。 私(住職)は、随分昔に、受け継ぐ(代を継ぐ)ことは、その家の「リリーフピッチャー」と例えられた言葉が強く印象に残っています。指名を受ければ、状況を見極めて、全力投球して、次に託していくことなんだと思っています。
私(住職)も、お寺の住職を拝命して今年で20年目になります。次の代への指名もそう遠くではありません。
※中川個人の感想です。

 

【岩波国語辞典】
「継承」受け継ぐこと
「承継」受け継ぐこと
「伝承」古くからの(制度・風習・信仰・言い伝えなどの)しきたりを、受けついで、
伝えていくこと。また、伝えられた事柄。

「「継承」は財産や権利を引き継ぐことを指し、「承継」は精神や文化、事業などを引き継ぐことを指します。
継承(けいしょう)は、主に財産や権利、義務などの具体的な物を引き継ぐことを意味します。例えば、遺産相続や契約上の権利の移転などがこれに該当します。具体的な例としては、親が亡くなった後に子供が遺産を相続することが挙げられます。この場合、物理的な財産や法的な権利が次の世代に渡されることを指します。www.weblio.jp+1
承継(しょうけい)は、主に文化や伝統、精神的な価値観を引き継ぐことを指します。これは、形のないものや抽象的なものを次の世代に受け渡す際に使われます。例えば、家族の伝統や企業の理念、地域の祭りなどがこれに該当します。承継は、他人の意図や考えを受け入れて続けるというニュアンスが含まれています。
使い分けのポイント具体的な物の引き継ぎ: 財産や権利、義務などの具体的なものを引き継ぐ場合は「継承」を使用します。精神的・文化的な引き継ぎ: 伝統や文化、理念などの無形のものを引き継ぐ場合は「承継」を使用します。このように、「継承」と「承継」はどちらも何かを受け継ぐ行為を表していますが、対象とするものや使われる場面が異なります。正確な言葉の使い分けを理解することで、より効果的なコミュニケーションが可能になります。」((https://www.bing.com/search?q=継承と承継の違い&form=ANSPH1&refig=6965631275334d39a0f6282f6b82817a&pc=NMTS&pq=継承&pqlth=2&assgl=8&sgcn=継承と承継の違い&qs=SC&sgtpv=SC&smvpcn=0&swbcn=10&sctcn=0&sc=10-2&sp=2&ghc=0&cvid=6965631275334d39a0f6282f6b82817a&clckatsg=1&hsmssg=0 参照 2026年1月13日))

「一身田の歴史と文化」一身田寺内町の館20周年記念

「一身田の歴史と文化」一身田寺内町の館20周年記念
高田本山専修寺のある「一身田」を「いっしんでん」「いしんでん」どう発音しますか。 「一身田」にある高田中学に通った頃、友達と話していたことがありました。
志登茂川と毛無川に囲まれた農業集落の地としてあった場が、斎王の別勅使田(別名一身田)があり、地名の由来となった。その後、室町時代に、高田派の真慧上人の時、一宇(無量寿寺)を建立し、その後、本山専修寺として寺内町が形成される。
現代の一身田までの歴史と文化を豊富な写真や図表で解説されています。
「一身田」をとても大切にされている方々の手でつくられた1冊と伝わりました。
※中川個人の感想です。

【案内】高田本山の報恩講(お七夜)

【案内】高田本山の報恩講(お七夜)
親鸞聖人のご遷化が、今の暦で正月16日です。高田本山の報恩講は毎年ご正忌をご縁として正月9日から16日までお勤めされています。
七昼夜、親鸞聖人のご遺徳をしのび、ご恩を喜び報謝させていただきますので、「お七夜」と親しまれて呼ばれています。
昭和の時代ですと、お正月が過ぎ、年明けの仕事が始まっていますが、お七夜に参詣して本格的に仕事に取り組まれるということをお聞きしたこともあります。

期間中は、多くのイベントが山内を中心に行われますが、宝物館(燈炬殿)では、お七夜特別展観の「高田のはじまり ふたつの専修寺」展(1月9日から2月15日)が開催されます。
寒い時間ですが、16時30分から19時閉門(15日は23時30分閉門)「竹あかり」が境内で開催されます。
ご関心・ご興味がありましたら是非お立ち寄りください。

 

縁起

縁起
「縁起」は、仏教語でありますが、日常的に使用する場合、「良いこと・悪いことの前兆」という意味で使われているようです。

随分前のことで、私(住職)の聞き違いかもあるかもわかりませんが、一休さんが、お正月に、「親死ぬ・子死ぬ・孫死ぬ」と話したら、「縁起でも無い」と言われたそうで、続いて「孫死ぬ・子死ぬ・親死ぬ」とさらに話したという逸話を聞いたことがあります。
確かに、お正月早々、「死ぬ」話題は避けたいと思うのは誰でもそうだと思います。
一休さんは、順縁と逆縁を譬えとして話そうとしたと思いますが、皆さんには伝わりましたか。
しかし、よく考えると、「死」は誰にでもあることで避けて通れないことです。
日常での、「善し悪し」で、はかることはできないものだと思います。
※中川個人の感想です。

縁起 梵語プラティーヤ・サムトゥパータの意訳。因縁と同義。「縁って起こること」「縁って起こっている状態」の意。存在に関する普遍的な原理のことで、物事は必ず何らかの原因(因)があり条件(縁)にあって生じ存在していることをいう。
【浄土真宗辞典】