【案内】高田本山の報恩講(お七夜)

【案内】高田本山の報恩講(お七夜)
親鸞聖人のご遷化が、今の暦で正月16日です。高田本山の報恩講は毎年ご正忌をご縁として正月9日から16日までお勤めされています。
七昼夜、親鸞聖人のご遺徳をしのび、ご恩を喜び報謝させていただきますので、「お七夜」と親しまれて呼ばれています。
昭和の時代ですと、お正月が過ぎ、年明けの仕事が始まっていますが、お七夜に参詣して本格的に仕事に取り組まれるということをお聞きしたこともあります。

期間中は、多くのイベントが山内を中心に行われますが、宝物館(燈炬殿)では、お七夜特別展観の「高田のはじまり ふたつの専修寺」展(1月9日から2月15日)が開催されます。
寒い時間ですが、16時30分から19時閉門(15日は23時30分閉門)「竹あかり」が境内で開催されます。
ご関心・ご興味がありましたら是非お立ち寄りください。

 

縁起

縁起
「縁起」は、仏教語でありますが、日常的に使用する場合、「良いこと・悪いことの前兆」という意味で使われているようです。

随分前のことで、私(住職)の聞き違いかもあるかもわかりませんが、一休さんが、お正月に、「親死ぬ・子死ぬ・孫死ぬ」と話したら、「縁起でも無い」と言われたそうで、続いて「孫死ぬ・子死ぬ・親死ぬ」とさらに話したという逸話を聞いたことがあります。
確かに、お正月早々、「死ぬ」話題は避けたいと思うのは誰でもそうだと思います。
一休さんは、順縁と逆縁を譬えとして話そうとしたと思いますが、皆さんには伝わりましたか。
しかし、よく考えると、「死」は誰にでもあることで避けて通れないことです。
日常での、「善し悪し」で、はかることはできないものだと思います。
※中川個人の感想です。

縁起 梵語プラティーヤ・サムトゥパータの意訳。因縁と同義。「縁って起こること」「縁って起こっている状態」の意。存在に関する普遍的な原理のことで、物事は必ず何らかの原因(因)があり条件(縁)にあって生じ存在していることをいう。
【浄土真宗辞典】

現世利益(げんぜりやく)和讃

現世利益(げんぜりやく)和讃

和讃をご紹介いたします。和讃について多くの参考書がありますが、『注解 国宝 三帖和讃』常磐井鸞猶著と『浄土和讃講話』川瀬和敬著より紹介します。
浄土和讃 現世利益和讃(国宝本では14首)(文明本では11首)

天神地祇はことごとく 善鬼神となづけたり
これらの善神みなともに 念仏のひとをまもるなり

天の神も地の神もすべて、仏法を守護するよい神々であるから善鬼神と呼ばれている。
これらの善き神々がみな一緒になって、念仏する人を護られる。

梵王帝釈四天王等が天神、堅牢地祇八大竜王等は地祇。
超人間的な力能を持つものを鬼神と言い、その力能によって仏法を保持し、国土を守護するものを善鬼神、これに反するものを悪鬼神とする。

※ 標題の「現世の利益和讃」の註解として
他力の信を得て念仏する者にはおのずからこの世の利益が法徳としてそなわる
ことを、主として金光明経に拠りつつ和讃する
以上 【注解 国宝 三帖和讃 常磐井鸞猶著より】

梵天・帝釈天・四天王などの天の神、堅牢地祇・八大竜王などの地の神はみなもろともに、不思議な能力を備えているから鬼神と呼ぶべきですが、仏法を守護しますから善鬼神と名づけます。これらの善神はみな一緒に、南無阿弥陀仏と称える人をお護りになります。

他の首の解説の中で、「現世利益和讃」といっても、「浄土和讃」の中に編入されているのだから、阿弥陀仏の称讃を離れていないのです。現世、この世といいつつ浄土よりのはるかな慈光を蒙る中に見い出されたものなのです。浄土に対して現世の存在を主張しているのではありせん。浄土があるからこの世はないがしろにするのでなく、浄土の光の中たしかな一歩をふみしめることができるのは、護りの力がはたらいていることをあらためて知るのです。
以上【浄土和讃講話 川瀬和敬著より】

【報告】修正会

【報告】修正会
元日午前10時から修正会のお勤めをしました。これまでと時間を変更してのお勤めでした。
新しい年の安穏を願うことも大切ですが、この1年をどのように歩んでいくかを考えていきたいです。
修正会で拝読する繙(ひももとき)の御書に、月日が過ぎるのは早く、生活に追われている私たちに、仏法を要として生きることが肝要と説かれています。
私(住職)自身は、古希を迎えます。「これまでできていたことができなくなる」を経験し、それが増えていくことも感じます。若い頃はぼんやりとしていた「死」についても、以前より身近なことであるように思うのですが、皆様はどう思われますか。
人生の晩年をうろたえず生きていくことも素晴らしいですが、「今」の私を肯定できる生きる意味を見出すことが必要ではないのかと感じます。
それは、何も宗教が一番であるとは申しませんが、損得などのものさしとは違うものさし(見方)があれば有難いと私(住職)は思います。
今年も、皆様と一緒にお勤めできたことに感謝申し上げます。
※中川個人の感想です。

国宝

国宝
「仏教する日本① 見えるものと見えざるもの」を拝読しながら感じました。
最澄の「山家学生式」の「六条式」に「国宝とは何物ぞ。宝とは道心なり。道心ある人を名づけて国宝となす。故に古人言く、『径寸十枚、これ国宝に非ず。照千一隅、これ則ち国宝なり』と」

私たちは、「国宝」と聞くと、文化的、学術的に価値の高いものと考えてしまいがちですが、本来は、人のことと知りました。

先ほどには、続く文面が、「古哲また云く、『能く言ひて行うこと能わざるは国の師なり。能く行いて言ふこと能わざるは国の用なり。能く行ひ言うは国宝なり』と」
議論はできるけど、実行力がない人は、国師である。実行力はあるけど論理的に明解にできない人は、国の用である。言説が理論的に正しく、かつ実際に実行できる人が、国の宝(トップ)である。

ここでは、比叡山の僧侶への言葉ですので、天台座主が国の宝であることを示されているようです。
国の宝としての判断基準は、「(他)人のために働くのでなければいけない」ことが、最澄が求めた菩薩=国宝のあり方のようです。
いきなり、「菩薩」の言葉が出てきますが、「仏道には、菩薩と称し、俗道には君子と号す」
仏道と俗道が同じ菩薩精神を持って、精神的な仕事と世俗的な仕事を分担してやっていく考えで、日本仏教のあり方として捉えることもできると感じます。

 

※中川個人の感想です。

「国宝(こくほう 、旧字体:國寶)とは、日本語の第1義には、国の宝[1][2]。第2義には、近代以降の日本において文化史的・学術的価値が極めて高いものとして法令に基づき指定された有形文化財を指し、具体的には、重要文化財のなかから特に価値の高いものとして指定した[3]建造物、美術工芸品などをいう[1][2]。」((https://ja.wikipedia.org/wiki/国宝 参照 2025年12月31日))