国宝
「仏教する日本① 見えるものと見えざるもの」を拝読しながら感じました。
最澄の「山家学生式」の「六条式」に「国宝とは何物ぞ。宝とは道心なり。道心ある人を名づけて国宝となす。故に古人言く、『径寸十枚、これ国宝に非ず。照千一隅、これ則ち国宝なり』と」
私たちは、「国宝」と聞くと、文化的、学術的に価値の高いものと考えてしまいがちですが、本来は、人のことと知りました。
先ほどには、続く文面が、「古哲また云く、『能く言ひて行うこと能わざるは国の師なり。能く行いて言ふこと能わざるは国の用なり。能く行ひ言うは国宝なり』と」
議論はできるけど、実行力がない人は、国師である。実行力はあるけど論理的に明解にできない人は、国の用である。言説が理論的に正しく、かつ実際に実行できる人が、国の宝(トップ)である。
ここでは、比叡山の僧侶への言葉ですので、天台座主が国の宝であることを示されているようです。
国の宝としての判断基準は、「(他)人のために働くのでなければいけない」ことが、最澄が求めた菩薩=国宝のあり方のようです。
いきなり、「菩薩」の言葉が出てきますが、「仏道には、菩薩と称し、俗道には君子と号す」
仏道と俗道が同じ菩薩精神を持って、精神的な仕事と世俗的な仕事を分担してやっていく考えで、日本仏教のあり方として捉えることもできると感じます。
※中川個人の感想です。
「国宝(こくほう 、旧字体:國寶)とは、日本語の第1義には、国の宝[1][2]。第2義には、近代以降の日本において文化史的・学術的価値が極めて高いものとして法令に基づき指定された有形文化財を指し、具体的には、重要文化財のなかから特に価値の高いものとして指定した[3]建造物、美術工芸品などをいう[1][2]。」((https://ja.wikipedia.org/wiki/国宝 参照 2025年12月31日))
