お寺の掲示板

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穏やかに「枯れ木」のように

『大往生できる人 できない人』潔く、とらわれず、おまかせして生きる 田畑正久著 から
人は高齢になり、口から食べられなくなってくると、穏やかに、枯れ木が枯れるかのごとく亡くなっていきます。二週間くらいで、静かに命を終えるのです。

一方食べられなくなった時の「延命治療」として、鼻から管をいれたり、胃に穴を開け栄養を入れる胃瘻(いろう)があります。この治療をすると数ヶ月から数年生き続けることはできるものの、じわじわと体が弱っていきます。
本人の意思表示が無いと家族の希望と意思の倫理観で延命がなされることが多いですが、最近は、生命保険などを使うとき「回復の見込みがある」ことが前提になってきたようで、老化現象で口から食べれなくなった場合、不自然な延命は本人にとって生命の質がよくないと共通認識になりつつあります。

※老化現象を見極める一つとして口から食べれなくなるをあげるなら、人類のこれまでの歴史の中で、老化現象で亡くなられた方とそれ以外の原因で亡くなられた方はどちらが多いのだろう。生き物の「いのち」の終わりはさまざまであると思うけど、穏やかに死を望むのにも意思表示が必要な時代を生きている。

「集い(場)」が消えていく

「集い(場)」が消えていく
2月に入ってから、COVID-19(新型コロナウィルス感染症)の感染拡大で、「集い」の中止や延期のお知らせをいただいています。
お茶の稽古が月一回あります。寺院も、他の業種もそうですが、お茶の世界も、2月頃から大きな大会や献茶式・研究会・講習会などの行事など軒並みに中止や延期が続いています。今後の状況が見通すことができないので、生徒である私(住職)の一人稽古も今後中止になることがあります。

非常事態宣言中に、芸術や文化を語るのはどうなの(危機感がない)と思われるかも分かりません。芸術や文化は一人で楽しむこともできるけれど、同じ志がある多くの人と「集い」、心を一つにすることで、より豊かな心が創造されていくと思っています。今は、密閉・密集・密接を避ける期間ですので「集い」について制限が必要なことは分かっていますが、いつまで続くか分からないことが不安につながってしまいます。

茶道のお茶と言うと、多くの方が体験され思い描かれる、一碗に抹茶を点てたお茶(薄茶)をお菓子と共にいただくものと、一碗に練られた抹茶を何人かで飲み回す濃茶と言われるものがあります。濃茶の飲み回しの衛生面については、今回の非常時で2月に裏千家から「濃茶も1人づつ一碗で練るように」と連絡がありました。
私たちは「同じ釜の飯をくった仲間」と言う言葉の表現で連帯感を共有します。結婚式の三三九度の盃や宴会での返杯も同じ盃を通して連帯感を共有しています。私の限られた知識の中で、同じ器の中の同じ飲み物を飲み回し仲間との連帯表現として残っているのは、濃茶だけかなと思います。(そこには衛生面を超えた宗教性が含まれているのかなと私は勝手に解釈しています)

今の状況によって、これまでのような一つの場所に「集い」話を聞き、意見を交換することが制限されていますので、全国各地からインターネットの環境を使い、時間を共有して、話を聞き、意見交換する新しい「場」に参加することも増えています。最初はその環境に慣れていませんので戸惑うばかりですが、慣れてくると、一つの場所に「集う」ことが難しい状況でも、バーチャル空間で「集う」ことができます。しかし、このバーチャル空間の「集い」とこれまでのようなリアルな空間での「集い」では、違うことも分かっています。お寺の行事などで考えると、どのように、「集う(場)」を考えて行くのか試行錯誤は続きますが、選択肢が増えることは良いことと思います。

今回のCOVID-19(新型コロナウィルス感染症)の感染拡大で、これまでの私たちの生活規範が大きく変わると想像しています。密閉・密集・密接に関係する「集い(場)」が私たち日本人の行動がどのように変化していくか分かりませんが、公衆衛生面については更に敏感になるでしょうし、自分自身の行動にも更なる自覚が求められるようなことも感じます。
消えていく「集い(場)」が新たな「集い(場)」を生み出す時に立ち会うことができることを喜びたいと思っています。

新しい試み(お墓勤め)

新しい試み②お墓勤め
今年の秋で5年目に入るお寺のHPはインターネットを通じてお寺の今を伝え(発信し)ています。当初よりご覧いただく方も増えている気がします。ありがとうございます。
インターネットを通しての発信の方法は、時代とともに静止画から動画へそしてlive(オンライン)へと幅広くあります。全国のお寺からも動画発信などが始まっています。 私(住職)には、インターネットやPCの知識がありませんので、今のお寺のHPでの発信が精一杯ですが、少しトライしてみようと考える機会をいただきました。

お同行様の年忌法要で、遠方の家族がお越しいただくことができなくなり、お一人でお参りをされることになり、その時、来られない家族へ、時間的に短いですがお墓勤めをスマートフォンのテレビカメラ機能で見ていただくことができるのではないかと、先日参加した「インターネット法要・供養事例勉強会」の事例に出会ったからです。こちらの勉強会もインターネットを通じてのオンラインでしたので時間さえ共有できれば自坊にいても全国の仲間と一緒に参加できます。
インターネットをご覧いただく方には、動画配信の「YouTube」などもお楽しみいただいていらっしゃると思いますが、本格的な形はもっと先になると思いますが、今の私(住職)の知識でできることから初めてみようと思っています。

ただ、今回の試みも、お同行様の同意がなければできせんし、それぞれ違うインターネット環境ですので、その方のご負担にならないような配慮も必要になると思います。
私(住職)自身それほど詳しくはありませんので、若い世代の娘(衆徒)や、勉強会の仲間の意見を聞きながら、やってみようと考えています。

※12日、お墓勤めの初めてlive配信を、遠方のご家族のご協力で実践しました。私(住職)は、テレビカメラ機能を使うのは初めてでしたが、三脚を使いお墓を映して、お勤めしました。スマートフォンが自分から離れていますので音声が伝わるか心配でしたが伝わっていたようです。先方からもお勤めの声が聞こえてきましたのは思わぬことで嬉しく感じました。とても良い経験をさせていただき、ありがとうございました。

お寺の掲示板

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最期にできることは、自分の死を人に見せること

『人は人を救えないが、「癒やす」ことはできる』 谷川洋三著から
著書は続いて「いよいよ死ぬ間際になっても、人にはできることがあります。遺された人のためにできる、「最後の大仕事」ともいえるものです。

生き物は必ず死ぬわけですから誰も同じ道をたどっていくのです。先に経験する者として示してあげてほしいと思います。別に、いい見本になろうとか、かっこよく死のうとか思う必要はありません。騒いでも、泣いても、怖がってもいいのです。「ありのままの姿」を見せてあげるのが大事なのでしょう。
現在はどうしても死を隠す傾向にありますが、身近な人の死を見届けるということは、その人にとって苦しくもかけがえのない経験になるはずです。

※私(住職)は、お同行様の死に立ち会うと言いますが、厳密には、亡くなられてから立ち会うことになります。父(前住職)や祖父(前々住職)祖母(前々坊守)の死に際にも立ち会っていませんが、死にゆく過程は見ていました。苛立ったり、穏やかになったりするありのままの姿は、肩書きなど関係なく、限りある「いのち」を精一杯生きている姿と感じています。最期に私にもできることがあるのが嬉しいです。

新しい試み

新しい試み
現在、日本全国だけでなく世界で、新型肺炎の感染拡大で非常事態の状態です。
自分自身が感染していると思い、他者に感染をさせてはいけないとの行動が求められています。このような時、集まることがとても懸念されることになっています。
私たちの生活の中でこれまでとは違う、集まることへの配慮が必要になっています。
密閉空間で、人が密集し、密接な会話をすることが望まれない状態です。

このような非常時に、私(住職)として本堂でのお勤めをすることに工夫を試みます。
お寺の本堂は、昔からの木造建築で、今の建築物のような機密性は無く、冬の寒さ対策、近年では夏の暑さ対策も問題です。多くの方々が聞法(参詣)されるための大間は52畳敷で、昔の数え方では一畳に3名が座りますので、156名が満堂のお寺です。(隅には机などもありますので実際は100名も入れば満堂と言えるでしょう)
ここ最近は、聞法(参詣)されるため方への配慮として、座布団に座る形式から椅子に腰掛ける形式に変更しています。申し訳ないことですが、多くの方に椅子を用意できず35席ほど置いてありました。
今回、畳一畳に椅子を1席の形で18席ほどの対応を考えて見ました。
 ※お集まりいただく人数によって対応をさせていただきます。

また、お寺の行事や年回法要のお勤めの時にお茶をお出ししています。以前に比べこの数年お茶を召し上がれる方が少なくなる傾向ですが、2月から3月にかけて、お茶を召し上がられる方がこれまで以上少なくなっています。(多くの方々がマスクをされていることも理由の1つと考えられます)
ここで、お寺からお茶をお出しすることを一旦休止を試みます。
水分補給は大切ですので、ウォーターサーバーを用意しました。温水・冷水が選べます。
喉が渇いたり、口を潤したい場合お使いください。
また、お申し出いただきましたらこれまで通りのお茶の接待もさせていただきます。

これまでのブログでも記載しましたが、
お寺の本堂出入り口に手指の消毒をしていただくアルコール消毒液も以前から用意はしてありますが、今年の2月から注目されご利用いただいています。
また、うがい・手洗い場所として本堂左手にあります洗い場をお使いください。
多くの方が触れる出入り口のアルコール消毒もできる限りしています。
お寺に訪れる皆様にできるだけ不安な心をならないように考えています。
とはいえ、決して不安や不満を抱えながらお越しいただくことではありません。
どうかご無理ない範囲でご検討をいただきますよう、よろしくお願いいたします。

また、私(住職)の健康管理として、3月に入ってから一日に2度~3度の検温と、これまでにない入念な手洗いをしています。いつまで続くか分からないですが、私たちの新しい生活規範の中で公衆衛生の概念がより強くなるように思います。

3月の聞法

3月の聞法

新型肺炎の感染拡大防止で、集い・集まる機会が少なくなっています。妙華寺で開催しました春彼岸会でも、開催にあたり、風邪症状の方への参加を控えていただく事や、手指の消毒・うがい、手洗いの場所の確保・マスクの準備・会場の換気・接触場所のアルコール消毒など、出来ることをさせていただきました。

春彼岸会 法話 浄泉寺 戸田栄信師のご法話は、「今、ここで 安心(あんじん)の人生を歩む」と題されてお話されました。

讃題に、
「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし 
 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる」 浄土和讃 弥陀経意 第1首
を拝読され、この和讃を、高田派の前ご法主は「全宇宙の中の念仏する人々を照覧なさって、その人々を救い取って決して捨て去ることがないから、その仏の名を阿弥陀とお呼び申し上げる」と注釈されています。
また、私自身をどのように捉えるか、親鸞聖人ご自身が述懐された和讃として
「浄土真宗に帰すれども 真実の心(しん)はありがたし
 虚仮不実のこのみにて 清浄の心(しん)もさらになし」
正像末法和讃 愚禿悲歎述懐第1首を示して私のあり方(姿)を示されました。
この和讃の意訳として「浄土真宗に帰依したおかげで、私に真実の心がなかったということが、知らされてまいりました」『正像末法和讃講話』(川瀬和敬著 法蔵館)を私(住職)は思い浮かべました。
仏教の教えは、「苦」がベースにあり、その「苦」を転じていくことで「安心」とし人生を歩むことができるのです。私の本当の姿を、 阿弥陀様が既に見通し、全て阿弥陀様が領解して「まかせよ」と誓われているのですから、私が安心の人生を歩むことができるのです。
今、私たちは、新型肺炎のことで「死」について不安な心が大きくなっていますが、「限りあるいのち」しかない私たちは生まれてきてから既に不安な心で生きているのだということを改めて感じました。、
お同行様にしっかり聞法してくださることが大切ですと申していながら、細かなことにとらわれて、自坊の本堂に座ってお聞かせいただくことができず残念です。

パンデミックからの問いかけ

パンデミックからの問いかけ 生活規範の変化
感染症の世界的流行で混乱している中、私たちの生活が否が応でも見直すことになるように思えます。先日、法務の間に視聴した僧侶向け「体験講座」での一コマ。
人類は今回のパンデミックやこれまでのパンデミックも医学や科学の力で時間はかかるかも分からないが必ず克服していくことは考えられます。しかし克服されたから、私たちの生活がこれまで通りになるとは思えません。世界で新しい生活規範が作られていくようなことを感じます。
そのような観点で改めて、お寺の存在はどうなっていくのだろうか?考えていく時間をいただいたように思っています。
私(住職)も3月に入って毎日2度から3度の検温と入念な手洗いをするようになりました。見えないウイルスが気になり人混みさえ気になる感覚になっています。今回のパンデミックが終われば、忘れてしまうこともあるかもわかりません。でも毎日の習慣として続いていくものもありそうです。
3月09日のブログでも記載しましたが、私の「不安な心」に向き合う中で、「安心」や「安全」な心(気持ち)になるのに、神仏の「み教え」が対応できるのだろうか?
これまでの生きていくことが困難な時代に、多くの人々の苦しみを「安心」にかえる「はたらき」を宗教が担ってきた事実が、現在も宗教が存続しているのだけど、以前ほど人々は宗教に重きを置いているわけではないことも現実と思います。
これからの生活規範を見直す中で
あなたにとってお寺はどのような存在なのですか?
あなたにとって僧侶はどのような存在なのでしょう。
と問われているような時間です。

3月のおてらおやつクラブ

3月のおてらおやつクラブ
今月は、先月同様3つの支援団体様へ18日に1団体、24日に2団体へ「お供え」を「おすそ分け」させていただきました。
2月末から新型コロナウィルスの感染防止の一環で小中学校が一斉休校になり、多くの家庭に影響がでてきています。おてらおやつクラブの活動が一助にでもなれば有難いです。

また、年2度回収の古本勧進での古本も募集しています。
今回は8月末までに集まった古本を寄付させていただきます。
不要になりました古本がありましたらいつでもお寺にお持ち込みください。
対象の本は、裏表紙にバーコードのあります文庫本・新書本・単行本です。
申し訳ございませんが、週刊誌・雑誌・百科事典・全集は対象外です。
本以外、書き損じのハガキ・不要なCDも受け付けています。

お寺の掲示板

お寺の掲示板
「死を見せること」は、次世代への遺産

『大往生できる人 できない人』潔く、とらわれず、おまかせして生きる 田畑正久著 から

著書では、「死にゆく場に立ち会うということは、「見送ってあげる」と同時に大事なこと 人は必ず死ぬ存在であること、生きていることのありがたさ を教えてもらっている場面でもあります」と述べています。
※「死を見せる」ことは、私のはからうことでなく、自分の「都合の悪い姿」が暴き出される時でもあります。『人間とは、縁次第でどんな心の持ち方にでもなるんだ』ということに気づく場でもあるようです。そこに仏の「はたらき」として私に届けられれば、「死に方」を思い通りにしたいと思う心にとらわれことなく「死を見せること」が大切なことになるのだと思います。

春分の日と彼岸

春分の日と彼岸
「自然をたたえ 生物をいつくしむ」 祝日法の春分の日の趣旨

【春分の日(しゅんぶんのひ)】は、日本の国民の祝日の一つであり、祝日法により天文観測による春分が起こる春分日が選定され休日とされる。通例、3月20日から3月21日ごろのいずれか1日。
しばしば昼が長くなって「昼と夜の長さが等しくなる日」といわれるが、実際は昼の方が少し長い。

少しずつ温かい日の中で、自然のうつろいや虫たちの活動が気になる頃です。

【彼岸(ひがん)】は、雑節の一つで、春分・秋分を中日とし、前後各3日を合わせた各7日間(1年で計14日間)である。この期間に行う仏事を彼岸会(ひがんえ)と呼ぶ。
最初の日を「彼岸の入り」、最後の日を「彼岸明け」

俗に、中日に先祖に感謝し、残る6日は、悟りの境地に達するのに必要な6つの徳目「六波羅蜜」を1日に1つずつ修める日とされている。
語源
サンスクリットのpāram(パーラム)の意訳であり、仏教用語としては、「波羅蜜」(Pāramitā パーラミター)の意訳「至彼岸」に由来する。
Pāramitāをpāram(彼岸に)+ita(到った)、つまり、「彼岸」という場所に至ることと解釈している。悟りに至るために越えるべき迷いや煩悩を川に例え(三途川とは無関係)、その向こう岸に涅槃があるとする。
ただし、「波羅蜜」の解釈については異説が有力である。
由来
浄土思想でいう「極楽浄土」(阿弥陀如来が治める浄土の一種、西方浄土)は西方にあり、春分と秋分は、太陽が真東から昇り、真西に沈むので、西方に沈む太陽を礼拝し、遙か彼方の極楽浄土に思いをはせたのが彼岸の始まりである。現在ではこのように仏教行事として説明される場合が多い。それがやがて、祖先供養の行事へと趣旨が変わって定着した。
しかし、彼岸の行事は日本独自のものでインドや中国の仏教にはないことから、民俗学では、元は日本古来の土俗的な祖霊信仰が起源だろうと推定されている。五来重は彼岸という言葉は「日願(ひがん)」から来ており、仏教語の「彼岸」は後から結びついたものであるという。
歴史
806年(大同元年)、日本で初めて彼岸会が行われた。このとき崇道天皇(早良親王)のために諸国の国分寺の僧に命じて「七日金剛般若経を読まわしむ」と『日本後紀』に記述されている。