お寺の掲示板

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「悪」を転じて「徳」とする

『大往生できる人 できない人』潔く、とらわれず、おまかせして生きる 田畑正久著 から
仏教の智慧では、「悪」を転じて「徳」とするという展開があります。この場合の「悪」とは、私にとって都合の悪いものという意味です。
やり直しをしたいと思った悲しかったこと、寂しかったこと、失敗したことも、「いや、あれがなければ、今日の私が大切なことに気づく『ご縁』には、ならなかったんだなあ」と思うと、悲しかったことも、失敗したことも「私にとっては、貴重なご縁であった、よかったなあ」と受けとめられる。仏の教えでは、「私は私でよかった」と、いつの間にか納得できるようになっていきます。

※「悪」を転じて「徳」となることの「転じる」とはアミダさんの「はたらき」によるもので、私(住職)としては、お聞かせいただくこと(聞法)しかないと感じています。
著者の田畑正久先生には、この5月に開催する予定でした「お寺の講演会」の講師のお一人でした。COVID-19(新型コロナウィルス感染症)の感染拡大防止の為、やむなく中止いたしました。これまでのような講演会の環境が整えば改めてお招きしたいと思っています。

距離

新しい試み④
距離
COVID-19(新型コロナウィルス感染症)の感染拡大防止の為、新しい日常生活でソーシャルディスタンス(社会的距離)と言う言葉を聞くようになりました。公衆衛生での用語として疫病の感染防止の為、意図的に人と人の物理的距離を保つこと。疫病の飛沫感染の距離がくしゃみで3m 咳で2mといわれているため、2mの距離を取りなさいと言われています。

そのような中、「集う」場合も距離を考えるようになり、スーパーや郵便局・ATMなどで並ぶ場所にも人が待つ位置に印がつくようになりました。
このような状況は、人類がCOVID-19(新型コロナウィルス感染症)をコントロールできる状況まで公共の場では必要とされるのだろと考えています。

今、お寺の本堂も、一畳に1席から、二畳に1席への配置を試みています。
※お集まりいただく人数によって対応をさせていただきます。

私たちは、これまで親しくなればパーソナルスペースと呼ばれる対人距離が近づき、そして他者との関係を対人距離に応じて感じたりしていましたが、今は、親しくても近づけない距離で、他者との関係を考えていかなければなりません。

少し距離を取りながらも、心の不安を少しでも取り除けるよう考えていきます。

(注意)社会用語の特定の個人やグループを排除する意味とは区別する必要があります。
※フィジカルディスタンス(身体的距離)と呼ぶことも推奨されています。

これまでのブログでも記載しましたが、
お寺の本堂出入り口に手指の消毒をしていただくアルコール消毒液も以前から用意はしてありますが、今年の2月から注目されご利用いただいています。
また、うがい・手洗い場所として本堂左手にあります給湯室をお使いください。
多くの方が触れる出入り口のアルコール消毒もできる限りしています。
お寺に訪れる皆様にできるだけ不安な心をならないように考えています。
とはいえ、決して不安や不満を抱えながらお越しいただくことではありません。
どうかご無理ない範囲でご検討をいただきますよう、よろしくお願いいたします。

また、私(住職)の健康管理として、3月に入ってから一日に3度の検温と、これまでにない入念な手洗いをしています。

私たちの新しい生活規範の中で公衆衛生の概念がより強くなるように思います。

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世話になることに「申し訳ない」と思わなくてもいい

『人は人を救えないが、「癒やす」ことはできる』 谷川洋三著から
著書は続いて 病気になると、人の世話を受けなければならない場面が多くなります。
申し訳ないと思う気持ちはわかりますが、素直に援助を受けることが大切です。

一方的に世話をしてもらうのが嫌ということでしたら、人はどんな状態になってもできることがたくさんあるのを思い出してください。目に見えない形でも、たくさん返しているのです。申し訳ないと思ったとしても、自分はちゃんと恩返しできているのだと考えてほしいです。たとえ死の間際になっても、誰もが通「死」という道を、先輩として示しているわけですから、それだけでも十分だといえます。

※私(住職)も他者に世話になることに素直になれないのですが、そんなことお構いなく他者にお世話になっていることを忘れているだけなんです。どうして忘れているのだろうと考えると、ヘンな自尊心があるからです。少し考えたらわかることなのに。

額装の修復

額装の修復
今年の1月から2月にかけて本堂附属の東楽(がく)の間の改修をしていました時、「発祥」の額装が傷んでいました。高田本山の第21世堯煕上人の筆でありました。改めて額装を修理しました。改修をしました東楽の間に掲示する予定です。

疑う心

疑う心 悲しい話
私(住職)が小学生に入った頃は、「知らない人に道を尋ねられたら、教えてあげなさい」と「善意」は大切なことと学校で教わった。今の時代も「善意」が大切なことは変わらないが、私の子どもが小学生に入った頃は、「知らない人に道を尋ねられても、ついて行かないこと」と親も、学校も注意していた。
前々住職や住職が健在だった頃は、今より少し寂しげなお墓でお墓参りをしている方のカバンを狙う人がいた。本堂の賽銭箱から賽銭を取る人もいた。本堂で大きな社葬の時、遺族や会社関係者にまぎれて葬儀中に僧侶へのお布施を盗られたこともあった(この時は、法中さんにお布施をお渡しできなかった)、今ほど戸締まりもちゃんしていなかったこともあり、家人が知らないうちに庫裡にお金を盗みに入った人もあり、警察には何度も駆けつけていただいた。
社会が変化したと言えばそうだけど、対人関係も、まず「疑って」かからないと、危険がおよぶと感じてしまう難しい時代である。
そのよう時でも、お寺に居ると、お同行様が作られた季節の野菜をいただいたり、花をいただいたり、お菓子が届いたり、以前から境内の掃除のご奉仕をされる方がいらっしゃるなど多くの「善意」の中でお育ていただいている。
昔から、性善説と性悪説が語られる。そうであっても、疑う心から始める人間関係ってどうなんだろう。
今のCOVID-19(新型コロナウィルス感染症)の感染拡大の中、私たちの「疑う心」が偏見や差別を生み出していないかもう一度省みたい。

こどもの日に

こどもの日に 「いのち」の成長
私が幼かったとき、私の成長を楽しみにしていた家族がいました。私と関係ない他者は当たり前だけどそのようなことは思ってもいません。他者との関係性に気づかず、自分1人で大きくなった気持ちになっていた時もあります。生まれた時の記憶も無く、ただただ泣くだけの赤子だった私が多くの他者の支えによって生きていることに気づけず生きていました。「独りだけで生きているんじゃないよ」と教えてもらったのは大切な家族が亡くなった時だったかもしれない。限りある命であることは、頭の中で観念的に分かっていたつりもでも、間近に関係性のある他者の「死」の様相を見て実感することになりますが、本当の「いのち」について向き合う事はいつだっただろう。

私は、お寺で生まれお育ていただいていたので、宗祖(親鸞聖人)の教えが身近であったと感じていました。仏教(真宗)の教えを知識として得ることも大切でありますが、何度もお聞かせいただく場で、聞法することが、「いのち」について考えさせられ向き合うことができているのだと今は感じます。
同じ話を何度聞いてもその時まで忘れていて、新鮮に聞こえてくることがとても有難い。

その時その時一瞬であるが自分が「いのち」と向き合うこと。他のことを考えずに向き合うことは難しくしんどいけれど、落ちこぼれの自分には、聞法しかないのではないかと
自然に思うようになりました。

自分ではどうすることもできない私の「いのち」を「必ず救う・まかせよ」と誓ってくださる「はたらき」に出遇えたことが本当の「いのち」に出遇うことなんだと感じる。

出遇ったとしても、これまでと何一つ変わらない私自身であるが、同じ日常がこれまでと違って見えたり、感じたりする。

このままの自分を他者と共に受け入れることに気づけよと「はたらき」かけられたことを喜び、讃嘆できることになるのなら生きていることがこんな有難いことはない。
5月の爽やかな風が人の成長を応援していると思う。人生を四季にたとえることもあるけれど、季節のように繰り返すことはない一度きりの「いのち」だ。

4月のおてらおやつクラブ

4月のおてらおやつクラブ
今月は、少し遅れましたが、先月同様3つの支援団体様へ24日に1団体、27日に2団体へ「お供え」を「おすそ分け」させていただきました。
4月に入り新型コロナウィルスの感染防止の為、非常事態宣言が全国にだされました。
子ども達も学校に行くことができない状態が続いて、多くの家庭に影響がでてきています。おてらおやつクラブの活動が一助にでもなれば有難いです。

また、年2度回収の古本勧進での古本も募集しています。
今回は8月末までに集まった古本を寄付させていただきます。
不要になりました古本がありましたらいつでもお寺にお持ち込みください。
対象の本は、裏表紙にバーコードのあります文庫本・新書本・単行本です。
申し訳ございませんが、週刊誌・雑誌・百科事典・全集は対象外です。
本以外、書き損じのハガキ・不要なCDも受け付けています。

「待つ」こと

待つ
「待つ」にまつわる本を読んでいます。
私(住職)には、「待つ」って聞くと「待たされる」感じですが、「待たす」こともありますね。「待たす」と「待たされる」ことで言えば心理的には「待たされる」ことは緊張が高まることはありえます。せっかちでついつい早めに行動しないと気が気でない私(住職)は、好きで「待たされる」訳ではないけれど多くの場合この状態になります。相手は、決めた時間に間に合っているのに、なぜだか不機嫌になる自分がいます。

これまでの時代では「待つ」ことが当たり前だったことが、今は「待たず」にできることが多くなり、なんだか便利になったようだけれど、心の状態は、はたして「待たず」にできる状態が良いのかはわかりませんね。
本の中で「待つ」にいて書かれた書物がたくさん紹介されるのですが私(住職)は、どれ一つ手に取ったことがないものばかりで、紹介されたのもが全て消化できるわけでなくページをめくるのが疎かになります。

グリーフケアで「傾聴」の大切さを教えていただきました。宗教でも相手のことをお聞かせいただく「傾聴」は大切なことですが、「傾聴」として、聴くことは相手のお話を「待つ」ことで、相手から見ると何をいっても受け入れてもらえることですので、聴くことは、自覚して「待つ」ことができないと、傾聴にはなりません。 予測不能のことを「待つ」時、自分の心がふらついていると「傾聴」は難しいです。

みなさん おげんきですか

みなさん お元気ですか
COVID-19(新型コロナウィルス感染症)の感染拡大で非常事態宣言が発令されて、これまでと違う日常で、感染という恐怖に向き合う毎日ですが皆様いかがおすごしでしょうか。 今の状況を忘れることではありませんが、少し先(2年先)のことを、お伝えしたいと思います。既にご承知されていますが、高田本山では、令和5年5月に、親鸞聖人誕生850年・立教開宗800年奉讃法会行事などの特別法要を予定されています。

私たちの法苑院妙華寺では、2022(令和4)年の5月22日(日)に本山に先立ち、親鸞聖人誕生850年・立教開宗800年奉讃法会行事を考えています。

私たちは、日頃、観念的に「死」について考えていますが、今回のCOVID-19(新型コロナウィルス感染症)の感染拡大で、より現実的な「死」を身近に考えさせられることになったと感じています。私たちの「生死(しょうじ)」をそのまま「任せなさい」願われているアミダさまがいらっしゃいますが、その声が多くの皆様にお伝えできればありがたいと思っています。

法会は、平素(いつも)の報恩講のような日程で、午後一席のお勤めですが、【予定】として、浄土宗の井上広法師と高田派の清水谷正尊師のご講演と対談をお願いしています。
 私(住職)は、師匠の法然上人(聖人)の「み教え」が弟子の親鸞聖人に伝わったことを、師匠の側からと弟子の側からお話をいただくことを楽しみにしています。
また、妙華寺所蔵の妙華寺蔵の法然上人の「選択本願念仏集」の掛軸(3幅)が傷んでいましたので現在、表装し直し、当日は西余間に掲示を考えています。
 少し先ではありますが、皆様と一緒に讃嘆できることを楽しみにお待ちましょう。

※改修した本堂東楽の間から大正10年3月の聖徳太子御遠忌(1,300年忌)記念の戸帳が見つかりました。

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穏やかに「枯れ木」のように

『大往生できる人 できない人』潔く、とらわれず、おまかせして生きる 田畑正久著 から
人は高齢になり、口から食べられなくなってくると、穏やかに、枯れ木が枯れるかのごとく亡くなっていきます。二週間くらいで、静かに命を終えるのです。

一方食べられなくなった時の「延命治療」として、鼻から管をいれたり、胃に穴を開け栄養を入れる胃瘻(いろう)があります。この治療をすると数ヶ月から数年生き続けることはできるものの、じわじわと体が弱っていきます。
本人の意思表示が無いと家族の希望と意思の倫理観で延命がなされることが多いですが、最近は、生命保険などを使うとき「回復の見込みがある」ことが前提になってきたようで、老化現象で口から食べれなくなった場合、不自然な延命は本人にとって生命の質がよくないと共通認識になりつつあります。

※老化現象を見極める一つとして口から食べれなくなるをあげるなら、人類のこれまでの歴史の中で、老化現象で亡くなられた方とそれ以外の原因で亡くなられた方はどちらが多いのだろう。生き物の「いのち」の終わりはさまざまであると思うけど、穏やかに死を望むのにも意思表示が必要な時代を生きている。