新年の準備

新年の準備

お寺の行事は、毎年同じようでありますが、その時1度限りの一期一会です。
毎年最後のお勤めは大晦日の午後5時に歳末会としてお勤めしています。1年間の仏恩を報謝します。
一週間ほど前から新年の準備をします。
お堂の西余間に妙華寺の初代住職の像を中心に歴代住職の位牌を敬置します。また7代住職から11代住職の絵像の掛軸がありますのでお掛けします。
ご本尊前にお同行様からのお供えを披露します。
新しい年の年回繰出表を用意します。
続いて、修正会(しゅしょうえ)の準備ですが、普段あまりお勤めをしない「現世利益和讃」を15首拝読しますのでその用意をいたしました。お屠蘇の用意も年1度のことです。本堂に空調設備が整いましたのでこれまでより温かいと思いますが午前5時30分からの修正会のお勤めは、道中寒い中お越し頂くことになりますので温かくしてお越し下さい。 ※高田本山のお七夜のお非時券を修正会の終了後配布いたします。
枚数に限りがありますので必要な方はお申し出ください。

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尚、修正会は本堂でお勤めしますが、1月から2月の年忌法会などのお勤めは、本堂東楽の間の改修の関係で、妙華寺会館を本堂として使用します。
 春彼岸会は、本堂にてお勤めします。

12月の聞法

12月の聞法

3日は、龍谷大学大宮学舎で宗学院公開講座で「死んだら終わりですか?」~臨床仏教ということ~の講題で、大谷大学学長の木超康師のお話をお聞きできました。「臨床仏教」とは、鷲田清一氏の『「聴く」ことの力-臨床哲学試論-』から臨床を「場」として捉えることから、仏教や真宗(学)も、「理(論)」から「(現)場」を中心に捉え直そうとされています。きっかくは、東日本大震災の現地でのボランティア活動から、子どもさんを津波でなくされたお母さんの「死んだら終わりですか?」の言葉だったそうです。その言葉の奥にある心情を考えることから、教学の近代化でもれていった「人のココロ」を見据えた「臨床仏教」としての仏教学や真宗学を提唱されています。これまでもそうですが東日本大震災の頃、真宗の僧侶の中でボランティア活動について、親鸞聖人のみ教え(教学)からどうなのか議論が沸き起こっていました。そのような中で木越先生は『ボランティアは親鸞の教えに反するか?』を著されたのだと思います。

17日の第816回の紫雲会に伺うことができました。今回は、京都の若手僧侶の法話勉強会「コンパス」に所属され、研鑽され、社会人としても活躍されている20代・30代の4人のご法話でした。それぞれのお味わいと阿弥陀様の讃嘆に、久しぶりにゆっくり法話をお聞かせいただく時間でした。ご法話の中で各人の祖父・祖母のことが語られ、私(住職)自身も祖父・祖母のことを思い出しながらの聞法でありました。不確かな私が不確かな世界を生きているのですが、身内の死を通してこの私が阿弥陀様の願いに遇うことになるまでの経験を聞きながらあたたかい気持ちになりました。また、『仏説阿弥陀経』(お経)にある「倶会一処」のことも、お念仏に出遇わなければうなづくことができない世界なのかと感じたりしました。明日を頼みにするわけでないけれど、後10年前後で、祖父・祖母の50回忌です。その時、私(住職)はどのような状態で、報恩感謝のお念仏に包まれているのでしょうか。
※「コンパス」さんは、3年前の春、妙華寺で法話大会・茶話会を開催していただき主管されていらっしゃる中西正導師とうれしい再会でした。また、中西正導師の法話が掲載されている冊子などもいただき帰ってから拝読させていたたきました。

2019(令和元)年のアーカイブ

2019(令和元)年のアーカイブ

① 山号額
昨年(2018年)12月にご法主殿のご染筆の山号額ができあがり、今年(2019年)1月中旬に本堂に掲げました。掲げる場所にいつも掃除できない髙い部分ですのでできるだけきれいにしました。これまでの、山号額は、庫裡(くり)玄関に掲げてあります。

② 宮殿のステンドグラス
6月中旬に長年思っていたことで宮殿後ろ面にステンドグラスを取り入れました。
こちらも昨年末にステンドグラスを作成していただくご縁をいただく会社が見つかり、 仏様の後光48本の光を表す図案を依頼して完成しました。
光源も工夫して宮殿が輝いてみえます。

③ 本堂下の改修
昨年来、久居の中心街の家屋にもアライグマやハクビシンなどが侵入することを聞きました。郊外のお寺でハクビシンなどに本堂が荒らされ被害があることも以前から聞いており、大切な本堂に影響が及ばないように本堂下に金網を整備しました。

※高田本山のお七夜(1月9日から16日)の「非時券」を、妙華寺の修正会から配布します。数に限りがありますが、ご希望の場合、お寺にお申し出ください。

※本堂東楽の間の改修を1月から2月末にかけて行います。その間本堂が使用できません。ご迷惑をおかけしますが、妙華寺会館を本堂として使用します。

お寺の掲示板

お寺の掲示板
「毎日、死の練習をしている」

『大往生できる人 できない人』潔く、とらわれず、おまかせして生きる 田畑正久著 から
「いのちの意味」を考える章で、生物学的には、1日3,000億~4,000億個の細胞が「死んでは生まれる」を繰り返しています。「見た目」は変わりなくとも、私たちの体の細胞は「生まれては死に、生まれては死に」を繰り返し、その事実の上に私たちは生きています。つまり、「生きている」とは、ある意味で死と裏表だということです。
死の練習を毎日している  このことが本当にうなづけるようになれば、「私は今生きている、生かされていることを精一杯、生きていきます」となります。

※若い時に生物学的な話を聞きながら、「今の私は今しかいない」とか「未完でありながら今は完結している」などわかったつもりのことを言っていたことを思い出してちょっと恥ずかしい。

12月のおてらおやつクラブ

12月のおてらおやつクラブ
今月は、先月同様3つの支援団体様へ11日に「お供え」を「おすそ分け」させていただきました。1つの支援団体様へは果物をお届けしました。
また、支援団体の1つに12月の報恩講のお非時(ひじ)の時に、「子ども食堂」を併設してご奉仕していただきありがとうございました。今年もカレーが多くの方に好評で良かったです。

また、年2度回収の古本勧進での古本も募集しています。
今回は来年1月末までに集まった古本を寄付させていただきます。
不要になりました古本がありましたらいつでもお寺にお持ち込みください。
対象の本は、裏表紙にバーコードのあります文庫本・新書本・単行本です。
申し訳ございませんが、週刊誌・雑誌・百科事典・全集は対象外です。
本以外、書き損じのハガキ・不要なCDも受け付けています。

お寺の掲示板

お寺の掲示板
「穏やかな死」だけが、理想的な死に方とは限らない

『人は人を救えないが、「癒やす」ことはできる』 谷川洋三著から
著書は続けて、人の死に「良い」も「悪い」もありません。誰にでも理想の死はあるかもしれませんが、それにとらわれず、後悔のない生き方を考えていきましょう。

人の死に良いも悪いもなく、あるとするなら、「穏やかな死」と「そうでない死」というくらいの、客観的な印象にすぎないでしょう。できるだけ理想の形で死にたいという気持ちはわかりますし、そのためいろいろと準備をしたり、家族に伝えておいたりすることは必要だと思います。
しかし、人はいつ、どんな形で死ぬかわかりません。死の瞬間のシチュエーションばかりにとらわれず、自分の人生に後悔のないように、また、遺された人に対して何ができるかを考えて行動してほしいと思います。

27組の報恩講

【27組の報恩講】

今年も10月27日から27組の報恩講が戸木の満誓寺様から始まりました。毎年、晴天で暖かな1日です。(これまでに一度大雨の年がありました)
今年も報恩講に出仕させていただくことができる身であることが有難いです。
例年通りのお勤めでありますが、今年最初ですので役割をちゃんとできるかいつも緊張します。また、高田本山の宗義会も終わり、組長(そちょう)会議も終わりっていますので、組長様から本山の今後の方針などを聞くことができ、貴重な情報交換の場にもなります。

11月09日は、新家(にのみ)の光蓮寺様の報恩講で今年から13時30分からの開始です。今日も快晴です。平素お寺に住職様がいらっしゃらないのですが、お同行の皆様が、境内や本堂をしっかりきれいにされています。少し長めのお勤めになり、足がしびれてきたのは、体重が増えたからか。ダイジェットをしなくては、また自坊の式文の稽古も始めないといけない時期です。

11月17日は、戸木の西向寺様の報恩講で、いつも境内が整然で見習わないといけないのですが中々難しいです。控室には親鸞聖人の掛軸が、僧侶に向かって迫ってきます。布教使様の地元の鯛焼きは、この地域で有名で中々口に入りませんが、差し入れで法中にもおすそ分けいただきました。

11月23日は、妙華寺から一番近い組内の小戸木の西林寺様の報恩講でしたが、急な法務により出仕できなく大変申し訳なく思っています。

11月24日は、蓮性寺様は妙華寺から一番離れた組内のお寺で報恩講に出仕することができました。
控室の床の間には高田本山の21世堯煕上人の名号が掛かっていました。また脇棚には立派な宮殿に入った鏡(硯)に親鸞聖人の像が記されているものを初めて拝見しました。伝来や由来を前住職からもお聞きしていないようで詳しいことは分かっていないそうです。

12月01日は、妙華寺の報恩講でした。
今年も、おてらおやつクラブのご縁でお非時のご奉仕を津市母子父子寡婦福祉会久居支部の皆様でしていただき3年目になります。
ごども食堂も兼ねていましたのでいつもよりお子さんの笑顔も拝見できました。昨年のカレーが好評で今年もお出しできました。子どもさんからお年寄りにも気に入っていただいたようです。次の日、会長様から反省点もお聞きしてました。来年に活かしていければと思います。また、こども食堂の開催にご賛同いただきました方からご寄付もいただき津市母子父子寡婦福祉会久居支部様へお渡しいたしました。次の日にお礼にいきましたおり、お寺の活動としてすばらしいことでこれからも続けてくださいと激励をいただきました。重ねてお礼申し上げます。

妙華寺の報恩講では、ずいぶん以前に組内で初夜のお勤めの稽古していました。それからお勤めは報恩講らしさを考えて、本山の初夜のお勤めをしています。今年は式文の三段を拝読させていただきました。お戸帳を外しての親鸞聖人のお姿は報恩講でしか拝むことができないことです。
布教使様は、衆徒の縁で西本願寺派布教使で龍谷大学大学院教授の葛野洋明(かどのようみよう)師の2年ぶりにのご法話でした。西本願寺のご本からですが「浄土真宗の救いのよろこび」を一緒に声に出して拝読して、「信心定まるとき 往生また定まるなり」の親鸞聖人のお言葉から、阿弥陀様の願いに救われている私が今ここにいることを有難く感じています。聴聞いただきましたお同行のお一人から「二席目に入ってとても引き込まれてお聞かせいただきました」と感想をいただきました。
私(住職)も葛野(かどの)先生のお話がすーと心に入っていくことにうれしさと有りがたさをいつも感じお聞かせいただいています。

葛野(かどの)先生のご法話が二席でしたので途中の休憩時間に、余間に掛かっています親鸞聖人絵伝を間近にみていただき簡単な説明をさせていただきしました。こちらも「中々、近くで絵伝を見ることができなかったですが良かったです」とお聞かせいただき、今後、聖人の絵伝をもっと親しんでいただけることができればと思っています。

12月08日は、27組最後の報恩講は、野村の浄徳寺様でした。お寺には野村地区の厄落としの観音様のお堂があり、3月の初午の日は賑やかだそうです。報恩講も、住職・副住職・衆徒(副住職の兄弟と息子)が出仕され賑々しくお勤めされました。いつもの控室に額装がありましたが、高田派22代堯猷上人の梵語でその場では分からなかったのですが、「イーティバフラム ジャガト」と書かれ、「一切世間 衆多病」と漢訳され「迷いの世界に生きる我々のこと」の事のようです。毎年報恩講に出仕しながら気づいていないことばかりです。

親鸞聖人絵伝③

親鸞聖人絵伝 1幅
高田派の親鸞聖人650回遠忌(明治45年4月)の記念の絵伝
場面は、10段あり、下の段(向かって)右側から(向かって)左側、
次に上の段(向かって)右側から(向かって)左側と進み20の場面から なる。絵師の署名が一番下の(向かって)右側の最初に記されているが、 絵師の詳細は分からない。

妙華寺に伝わる物は、井戸山地区の報恩講で宿の床の間に掛けられた掛軸 で、報恩講の宿勤めを廃止した時に、井戸山地区からお寺に寄贈された。

※古くから続くお同行様もお持ちされる方がいらっしゃいます。

親鸞聖人絵伝②

親鸞聖人絵伝 1幅
高田派の4幅の親鸞聖人絵伝の構図を1幅にまとめた掛軸
下(向かって)右側に一幅の図 上(向かって)右側に二幅の図
下(向かって)左側に三幅の図 上(向かって)左側に四幅の図
4幅目上段に法主の署名欄がありますが、この掛軸には署名がありません。
4幅の絵伝の4幅下段にある絵師の署名欄自体が無いが構図は4幅の
絵伝と同じですので絵師は4幅の絵伝と同じ高田派の絵師と思われます。

高田本山の境内にある御飯講(本山のお仏飯を毎日用意する講)の仏間に本山の報恩講の間、この掛け軸と同じ物で21代堯熙上人の署名がある絵伝が掲げられています。

親鸞聖人絵伝①

親鸞聖人絵伝 4幅
「親鸞伝絵」から図画の部分を抜き出し掛軸にしたものが「絵伝」で、場面は下から上へ順序よく配置され、各場面は「やすり霞」といわれる雲形で仕切っています。一般に4幅で一組です。

妙華寺の「絵伝」は、高田派第18世圓遵上人(1786年~1811年)の署名と花押が第4幅上段にあり、第4幅下段に絵師(御絵所)は藤原佐助とありますので、高田派の親鸞聖人絵伝と見られます。

 

親鸞聖人(1173-1263)真宗の開祖
藤原一族の日野有範の長男。「伝絵」によれば9歳の時に慈鎮和尚について出家、範宴(はんえん)と名乗る。約20年間比叡山で修学、常行三昧堂にて堂僧をつとめていたとみられる。29歳の時に比叡山を下りて、六角堂に参籠し、聖徳太子の夢告により法然を訪ね阿弥陀仏の本願に帰し、門弟になる。1205年『選択集』を附属され書写し、法然聖人の真影を図画。夢告により綽空から善信にあらためる。法然聖人のもとで学ぶ間に惠信尼と結婚したとみられる。承元の法難(1207)によって法然聖人らと処罰され流罪になり越後の国府に赴く。自らを非僧非俗とし愚禿(ぐとく)と称した。赦免されると妻子と関東へ移住し、茨城県の笠間市稲田を中心に伝道生活を送る。『教行証文類』を著し推敲を重ねる。62歳頃京都へ帰り、御消息によって関東の門弟を教化、交流する。『三帖和讃』をはじめ多くの著述を残した。
関東で法義理解の混乱が生じ、息男慈信房善鸞を遣わしたがかえって異義が生じ、建長8年(1256)に善鸞を義絶した。弘長2年11月28日(新暦で1月16日)弟尋有の坊舎で90年の生涯を終えた。