「不寛容」・「同調圧力」から「偏見と差別」

「不寛容」・「同調圧力」から「偏見と差別」
今、全世界の人々がCOVID-19(新型コロナウィルス感染症)の不安におののいています。
新しい生活様式の1つにマスクの着用があります。COVID-19(新型コロナウィルス感染症)が流行しだした頃から「マスク」の有効性も強調されていますので、これからも生活の中でも無くてはならない物ですが、夏場に向かう今、熱中症のことを考えると四六時中着用することが必要であるのか私の中では疑問符がついています。

私(住職)が家(お寺)に居るときは、これまで通りマスクを外して生活をしています。玄関での対応もおよそ2mは離れていますし、本堂のお勤めも、内陣(住職)と大間(参詣者)の間は2m以上離れています。お墓参りは距離が取れないのですが同じ列で同じ方向を向いています。境内地の掃除も1人ですし、お墓参りの方に会っても2m以上空いています。そのような生活をしながら、人混みがある場所、日常品を買いにスーパーに行ったり、緊急事態宣言が解除後、電車にのったり、デパートに行く場合や自宅でのお勤めで車で送り迎えしていただく時も、仏間に入る時もマスクはしています。人と人の距離が近いと気になります。
日常生活のある場面ではマスクを着用する私(住職)ですが、通夜・葬儀でセレモニーホールに1人で自家用車で行く場合は、マスクをしていません。お勤めの始まる前の六畳か八畳の控え室にぽつんと1人います。セレモニーホールで私がお勤めで着席する場所とご遺族や会葬者が着席する場所は2m以上離れていますし、同じ方向を向いています。何よりマスクをしてお勤めすることは私にはしんどくてできません。セレモニーホールの従業員さんもご遺族も会葬者も全てマスクをしている中で私(住職) 1人がマスクをしていない異様な光景です。
自分と他者が違うことに「寛容」か「不寛容」あるいは「同調圧力」を感じるかどうか人それぞれです。自分の中で勝手によかろうと思っているので、私はそれほど思っていませんが、マスクをしていない私のことを協調性のない輩とか非常識な僧侶と思っている人もいるでしょう。
そして、「不寛容」の気持ちが強い場合や「同調圧力」により、多くの人と違う状態を好ましく思わない場合に「偏見・差別」が生まれることもあります。
勿論これからも、マスクの着用をしながら、密閉・密集・密接は避けなければいけない時期が続くのだと思います。その中でマスクを着用していないことを取り上げて、「非難」や「偏見」「差別」することは避けたいと感じています。私と他者の違いを認める多様性を受け入れる心でありたいものです。

お寺の掲示板

お寺の掲示板
「臨終の言葉」を残すのは不可能だと心得ておく

『人は人を救えないが、「癒やす」ことはできる』 谷川洋三著から
著書は続いて、死の間際に伝える臨終の言葉ですが、末期がんの患者の場合に、その言葉を残すのはかなりむつかしいこと。伝えたいことは早めに伝えましょう。

「最期のとき」とはいつのことなのでしょう? 心臓が止まった時点からどのくらい前までをいうのか定かではありませんが、亡くなる数日前に話したことでも、臨終の言葉と表現できるでしょう。私が伝えたいこのは、臨終の言葉を残せる可能性は少ないのだから、伝えたいことはできるだけ早く伝えておきましょうということです。

※入院中の父の最期もそばに居ることができませんでした。それでも家に居るとき「ありがとうな。後はたのんだ」と言う言葉が、私(住職)への臨終の言葉と思っています。「頼まれた」ことが出来ているのかはわかりませんがいつも心から離れません。

お寺も窮状 布教伝道活動支援金

お寺も窮状

COVID-19(新型コロナウィルス感染症)の感染拡大防止の為、お寺の行事も中止を余儀なくされています。お寺は、アミダさんの「はたらき」を喜び合うことで、安心して1日1日を過ごさせていただくことを共に多くの皆さんが「集う場」として成立しているのだと思います。
一人でも喜ぶことはできますが、共に喜ぶことにより、更に喜びが増していくような「場」であるからです。
妙華寺でも、大切な「場」をCOVID-19(新型コロナウィルス感染症)の感染拡大の「場」にしてはいけない想いでお寺の行事である4月の「春千部会」(住職や法中のお勤めは例年通りしましたが、ご参詣いただくことをご遠慮いただきました)や5月の「お寺の講演会」を中止しました。
お寺の行事も、これからの新しい生活様式にかなった「集う場」を考えています。
「秋彼岸会」までには、参詣者の検温・手指の消毒や飛沫感染予防を取り入れて、参詣される皆様の「不安や心配」がない本堂の設営に取り組みます。

この取り組みには、高田派の共済会(高田派の一般寺院の拠出金で成立)から各寺院に給付されました「布教伝道活動支援金」を充当させていただきます。

安心と安全

安心と安全
最近、日常生活の中で「安心・安全」と言う言葉が気になります。
国語辞典で安心(あんしん)は、「気にかかる事がなく、またはなくなって、心が安らかなこと」「物事が安全・完全で、人に不安を感じさせないこと」
安全は、「危なくないこと」「物事が損傷・損害・危害を受けない、または受ける心配がないこと」とあり、私(住職)は「安心」は、精神的な面で「安全」は身体的な面で不安や心配を感じさせないことと捉えたいです。
この「安心」「安全」という言葉から私(住職)が、まず思い浮かべるのは医療機関です。 病気でまさしく「いのち」を預ける場所です。精神的にも身体的にも不安や心配を感じさせないことが一番の大切な場所です。先日、歯科医院に行った帰りに、「新型コロナウィルスに関して歯科受診者、歯科受診をご検討の皆様へ」というレジメをいただきました。その歯科医院の「安全・安心」の取り組みが書かれてあり、歯科医師他スタッフの健康管理は勿論のこと、治療の内容で不安や心配が生じることがないように説明されています。治療室の空気清浄機も、一般家庭のものでなく医療機関専用のものでウイルスのような浮遊物質も除去できるそうです。そして次に理髪店を思い浮かべます。ハサミやカミソリが私の肌に接していることはある面「いのち」を預けている状態と考えてしまいます。それなのに同じ理髪店に通い続けていると顔を剃っている間に眠ってしまったりすることもあります。
医療機関も理髪店も相手に「不安や心配」があれば成り立たない「場」であります。

そして、お寺は「安心な場(精神面で不安や心配を抱えながら、このままの私でよかったとうなづくことができる場)」であると私(僧侶)は思っていますが、はたして生活者の皆さんには、どう映っているのでしょうか。
「私の不安な心を、仏さんは、そのままでも大丈夫ですよ」と常にはたらきかけていらっしゃる「場」がお寺と思います。普通に生活されている皆様には、とっつきにくく、少し聞いただけではうなづくことが難しい「み教え」や「法話」の為、今の時代お寺は避けてしまう場所であったり、生活者には関心(関係)のない場所とも感じていらつしゃるのではないでしょうか。
お寺は、1人1人の「限りあるいのち」のあなたのままで、しっかりと「安心」してよいのですよとお伝えする「場」です。
お寺は敷居が高くて入りづらいとのお声もお聞きしますが、あなたが、もし少しの勇気を振り絞っていただくことができれば、あなたの不安や心配に対して、仏様のはたらきをお伝えして「安心」できる日々を喜ぶことができる「場」になります。今は、電話やメールもございますので、直接お寺に足をお運びいただくこともできない場合でも対応させていただくこともできます。
お寺に何を求められているかは、人それぞれです。お寺で対応できないこともある場合もございますが、あなたが求めることに真剣に耳を傾けています。

※仏教では、安心(あんじん)は、「心を一処に安置して不動なこと。安定した心のこと」

6月の聞法

6月は、これまで中止が続いていました聞法会が再開されました。そして、オンラインの講座に参加させていただきました。

オンライン勉強会 bラーニング 「遺品整理」
最近の話題として、一人暮らしの方の孤独死が取り上げられる中で「遺品整理」の勉強会でした。
「死後事務委任」の中では「遺品整理」について聞くことはあまりないと思うのは私だけでしょうか。
年間46,000人にのぼる孤独死の多くは、周辺に異臭が漂って発見される場合が多いと聞きました。講師先生から講義の初めに「離れている家族にいつ連絡をとりましたか」と問われたとき母を想い何か切なさを感じました。孤独死の部屋を清掃することの大変さは分かっているつもりでしたが現場の写真や、映像では伝わってこない臭いを考えると、専門的な知識や装備が必要で、素人の遺族がすることは難しい状態だと改めて教えていただきました。そこに遺された遺品を整理(処分)することは遺族が立ち会えば良いと考えますが、やはり難しいこともありそうです。
遺品整理をするにあたっての資格があることは知りませんでした。また、処分する家財などを廃棄することや古物としてリユースする場合もあり知っておくべき法律などたくさんあるようです。
そのような中で、「遺品整理」をされている第三者(他者)が、亡くなられた方と遺族をつなげる想いを、遺された物から伝えることには、大変なご苦労があることを感じました。 私(住職)は、生前から関係を持っている一人暮らしの檀信徒様が亡くなられてもその方の想いは、言葉だったり行動だと考えていて、その方の生活空間にある品物から想いを馳せることはこれまでありませんでした。他者から見ると普通の品物でも、亡くなられた方や遺族にとっては大切な想いがつまっていたりする伝えたい品物があることを知り、生きている間にもう少し伝える時間を作ることができればと感じました。
また、孤独死する前に一人暮らしの方を見守る関係を築くのに地域の僧侶が関わることができることをお聞きして考えてみたいと思っています。
講師先生の熱い想いをお聞かせいただいた貴重な時間でした。
※中川個人の感想です。

 


4ヶ月ぶり紫雲会
COVID-19(新型コロナウィルス感染症)感染防止で3月から中止されていた紫雲会が開催されました。梅雨に入りましたが晴天で爽やかな風が、本堂を吹き抜ける一日でした。これまでより人との距離をとっての開催です。ご講師は、貴島信行師で昨年から始まった「12のひかり」として讃阿弥陀仏偈和讃からのお話です。先生も3月に「庄松」さんの150回忌法要の時の出講から5月まですべてがキャンセルになって今回、県境を越えて紫雲会でのお話が初めてだそうです。
今回は、阿弥陀如来を12の光の中の「無辺光」と「無碍光」として仰ぐことをご自身の言葉でお聞かせいただきました。光と闇を「明来暗去」の言葉で、「有無の見」を蓮如上人の「他力無我」の言葉でお聞かせいただきました。「かたちがないものを、かたちあるものを通して伝えていく」中で「おまけ(御負け)」の姿勢をお聞かせいただきました。
そして、講師先生の「安心」と「安全」についてCOVID-19(新型コロナウィルス感染症)の自粛期間を通しての気づきが響いてきました。
余談の部分ではありましたが講師先生のお母様がいつも口にしていた「お育て頂いています」の言葉が、自分(お母様)のことであったと後になって気づいたことや、真宗では、「行」は「大行」ですが、「汗をかいて聞法すること」「身を削って聴聞すること」今の時代では時代遅れととらえてしまいがちのお話も、久しぶりにご法話をお聞かせいただく場では強く心に迫るものがありました。オンラインと違い、会の始めの勤行と最後の「恩徳讃」で他の参加者と共にお勤めできることも「集う場」があることとして、改めてうれしく感じました。
※中川個人の感想です。

 


オンライン講義 KOKOROアカデミー
東京の築地本願寺の講座に参加できました。COVID-19(新型コロナウィルス感染症)感染防止で中止していた講座がオンラインで開催する試みに参加させていただきました。
本来ですと、東京の会場に足を運ばなければ聴講することができない講座ですが、今の時期だから可能なことで貴重な体験でした。
「釈尊にまなぶ仏教の初歩」として連続講座を開催されている一コマでした。ご講師は、丘山願海師で私はオンラインで初めての参加ですが、これまで続けて参加されている皆様との再会を大変喜ばれていました。今回のテーマは、①「コロナ禍」で何を感じ、考えたか②宗派からのメッセージを通して、宗教者の思いをお話されました。③「諸法無我」と「法灯明・自灯明」についてお聞かせいただきました。
「コロナ禍」での問題として、疫病から派生する「差別・偏見」が顕在し、人と人の「つながり」が問われているように感じました。 今こそ「つながり」を再確認していく時だと感じました。また、私たち宗教者からの発言(発信)はどうなのか。大きな社会問題の度に問われることです。言い訳に聞こえてしまうかわかりませんが、日本の仏教会や宗教者も何もしていないのではなく、情報発信が上手でないことで反省するばかりです。私(住職)の技量では難しいのですが、仏教の智慧を仏教語(専門用語)を使わず、社会に発言(発信)していくことの工夫を考えていかなければいけないと感じています。
※中川個人の感想です。

6月のおてらおやつクラブ

6月のおてらおやつクラブ
今月も、先月同様3つの支援団体様へ21日に2団体、22日に1団体へ「お供え」を「おすそ分け」させていただきました。
6月に入り全国で新型コロナウィルスの感染防止の新しい生活様式を求め自己が自衛するような形に変わってきています。社会生活も徐々にではありますが、新しい生活様式をふまえて、制限が少なくなってきました。
戻りつつある中でまだまだ多くの家庭では影響が残っています。おてらおやつクラブの活動が一助にでもなれば有難いです。

また、年2度回収の古本勧進での古本も募集しています。
今回は8月末までに集まった古本を寄付させていただきます。
不要になりました古本がありましたらいつでもお寺にお持ち込みください。
対象の本は、裏表紙にバーコードのあります文庫本・新書本・単行本です。
申し訳ございませんが、週刊誌・雑誌・百科事典・全集は対象外です。
本以外、書き損じのハガキ・不要なCDも受け付けています。

※今月は、古本をご持参いただきありがとうございます。

お寺の掲示板

お寺の掲示板
「苦い経験」が人を謙虚にする

『大往生できる人 できない人』潔く、とらわれず、おまかせして生きる 田畑正久著 から

外科医の手術では、「うまくいった、うまくいかなかった」という結果が、すぐに出ることが多いものです。外科医は、もちろん全力で手術にあたるのですが、手術の結果が思わしくない時は、もっとよい選択肢があったのではないかと、自分の力不足や医療の限界を思い知らされることがあります。
仏教では、「人は、『縁』次第では、どんな人殺しをするかもしれないし、どんな素晴らしいことをするかもしれない」と教えています。その教えがあったから、私もこれまで外科医としてヒヤリとする体験、肩を落とす体験を重ねながらも、いつも初心にもどり、医学知識、技術の習得に努力し、患者さんに迷惑をかけることを少なくするよう心がけて、続けてこられたと思わされるのです。
どこまで手術ができるのか その試行錯誤を先輩たちは繰り返してきたわけです。私たちは「名医」だとか、「神の手を持つ執刀医」などと、医師を賞賛することがありますが、それは苦い経験を次の糧としたから、そうなれたわけです。

※これまで歩んできた私の人生には、恥じることもたくさんあるのですが、そのことに向き合い今を歩んでいることに後悔はありません。

Temple Morningは6月21日(日)午前8時から

今年前半最後のTemple Morningは、6月21日(日)午前8時からです
Temple Morning お寺の朝(テンプルモーニング)はじめます
いつもと違う朝 気持ちを整えて集中できる時間を創りませんか

年8回 第3日曜日午前8時から1時間【1月・2月・7月・8月は休会・雨天中止】
3月15日・4月19日・5月17日・6月21日・
9月20日・10月18日・ 11月15日・12月20日
清々しい朝の1時間 お寺で過ごしませんか

予定 お勤め(10分)・境内の掃除(30分)・お話(10分)・茶話会(自由参加)
※非常事態宣言が出ている期間は、お勤め・お話・茶話会は中止します
掃除道具は貸し出します。途中出入り自由です。雨天は中止です。

お寺の掃除を今風に呼びかけるには、これまで妙華寺の境内(特にお墓)の草抜きなどの掃除は、古くは草抜きなどをされている方、そして現在は高齢者(シルバー)人材センター様に登録されている方にお願いをしていました。依頼していました方がご高齢になり、次の世代の方に草抜きを希望される方がいない状態になり今年の境内(墓)の掃除が難しくなったことが主たる要因です。境内(特にお墓)の清掃として1年の内おそよ8が月延べ160日(1日6時間労働)ほどこれまで高齢者(シルバー)人材センター様に登録されている方々に境内の清掃をしていただいていました。お寺側の身勝手な思いでありますが、お同行の皆様のお力をいただき境内(特にお墓)がこれまでのようにきれいな環境を保てることを願う行事です。
各位のそれぞれのご事情もありますが、お身体の状況をお考えていただきお時間が許しましたら一緒に境内をお掃除しませんか。
Temple Morningは、境内(外)の掃除に集中してすることで気持ちを整える時間です。
お一人お一人4mほど距離をとることは可能です。

※新型コロナウィルスの感染拡大防止の時期での開催について、様々な意見があることは重々承知しておりますが、最終的にはお寺の住職の判断で、開催を考えています。

本堂入口にアルコール消毒液を設置するなどして対策を講じます。
風邪の症状の方へはご参加をご遠慮していただく考えです。
そして健康である方も、不安を抱えながら参加する行事ではありません。
どうかご無理ない範囲でご検討をいただきますよう、よろしくお願いいたします。

お寺の掲示板

お寺の掲示板
「その苦しみには意味がある」と考えれば、「不幸」ではない

『人は人を救えないが、「癒やす」ことはできる』 谷川洋三著から
著書は続いて、苦しいこと、つらいことは誰でも嫌なものです。しかし死を前にして、何か得るものがあると考えられば、人生が充実することにつながります。

死について考えることは、縁起でもないと否定しまうのは簡単です。しかし、死を考えることで、生きることが充実するということもあります。人は必ず死ぬのですから、自分の人生を嫌なものにしないために、都合良く解釈していくことは有効な手段でしょう。
ただ気をつけたほうがいいのは、他の人と比べないことです。

※「死」=「縁起が悪い」と聞くこがあります。口に出すことで呼び寄せてしまうように感じることがあるのかも分かりません。身体的に苦痛を感じることで考えたくない気持ちになることも考えられます。それも私の「いのち」を護る1つの手段なのかも。でも「死」について真剣に考えることは大切なことと思います。「死」=「限られたいのち」の終わりのことでもあるのですから。

見送る側と見送られる側

見送る側と見送られる側
同級生が亡くなったことを後で知りました。私(住職)は、地元に住んでいますが、最近は小中高の同級生と久しく会っていません。年賀状のやりとりも、年と共に少なくなり、今はご無沙汰がちになり、若かった頃いつも遊んでいた友も、結婚し家庭ができると会う機会は、同窓会や忘年会などに限られてきます。開催日が日曜日などで法務があることが多く、参加していないと次第に連絡も来なくなり同級生の情報も知ることがなくなります。

私(住職)は、お同行のどなたかがお亡くなりになると連絡をいただき、お見送り(葬儀式)をさせていただいています。そこにはお寺の住職としての一面もありますが、これまでの私(住職)とその方の関係には、お同行様としてだけではなく、ご縁をいただいた一人の人間としての思い出の方もあります。でもそれも「アミダ様のはたらき」があってのことです。
人との出会いもアミダ様のはたらきで出遇うことになるように思うことです。

見送る側からいずれ見送られる側になるのですが、私が見送られる時、何を想って見送ってくださるのかはそれぞれです。限られたいのちのある今生のご縁を大切にしていきたいと思っています。

亡くなった同級生の初盆には、君の実家が梨農園で、若い頃いつもいただいた梨の想い出を胸に、お悔やみに行こう。