見送る側と見送られる側

見送る側と見送られる側
同級生が亡くなったことを後で知りました。私(住職)は、地元に住んでいますが、最近は小中高の同級生と久しく会っていません。年賀状のやりとりも、年と共に少なくなり、今はご無沙汰がちになり、若かった頃いつも遊んでいた友も、結婚し家庭ができると会う機会は、同窓会や忘年会などに限られてきます。開催日が日曜日などで法務があることが多く、参加していないと次第に連絡も来なくなり同級生の情報も知ることがなくなります。

私(住職)は、お同行のどなたかがお亡くなりになると連絡をいただき、お見送り(葬儀式)をさせていただいています。そこにはお寺の住職としての一面もありますが、これまでの私(住職)とその方の関係には、お同行様としてだけではなく、ご縁をいただいた一人の人間としての思い出の方もあります。でもそれも「アミダ様のはたらき」があってのことです。
人との出会いもアミダ様のはたらきで出遇うことになるように思うことです。

見送る側からいずれ見送られる側になるのですが、私が見送られる時、何を想って見送ってくださるのかはそれぞれです。限られたいのちのある今生のご縁を大切にしていきたいと思っています。

亡くなった同級生の初盆には、君の実家が梨農園で、若い頃いつもいただいた梨の想い出を胸に、お悔やみに行こう。