供養(くよう)と恭敬(くぎょう)

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茶筅供養
(一社)茶道裏千家淡交会三重北支部津南班様の行事として茶筅供養のお勤めをいたしました。
会員の方々が日頃使われています茶筅も何度も使用すると茶筅の穂先が折れたり、すり減ったりしてお茶を点てることが難しくなります。そうなりますと工夫して他の用途で台所などで使用したりしますがそれも難しくなりお役目ごめんとなる茶筅を持ち寄り「茶筅供養」としてお勤めをしてから焚きます。真宗では焚く為の仏具がありませんので、天台真盛宗で使われます仏具を境内にお持ちいただき、茶筅を炊きあげます。茶筅供養の他にも人形供養とか針供養などこれまで十分お役に立っていたものがその役目を終える時に感謝しながらお別れする行事であるように思います。
真宗では「供養」の言葉はあまり使いませんが、同じ意味であります「恭敬」(くぎょう)の言葉があります。
供養(くよう)と恭敬(くぎょう)
供養(くよう)
敬いの心をもって奉仕すること。三宝や父母・師長などに身・口・意の三業をもって供物をささげること。
恭敬(くぎょう)
つつしみ尊敬する意『涅槃経』には「懺愧」あるがゆえに、すなはちよく父母・師長を恭敬す」『高僧和讃』に「恭敬の心に執持して 弥陀の名号称すべし」
高田派でよくお勤めする『高僧和讃』の龍樹讃の6首目の「恭敬の心に執持して 弥陀の名号称すべし」
の「恭敬」の【左訓】に「つつしみ・うやまう」「小乗おば供養という、大乗おば恭敬という」とあります。
恭は、自分を謙遜すること、敬は法を尊敬すること、これによって機を信じ法を信じる信心のすがたとみます。
このことから高田派の先生から、「小乗の法をもって衆生を教化するを供養という、(中略)大乗の法をもって衆生を教化するを名づけて恭敬となす」とお教えいただいています。
 【左訓】(さくん)
聖教本文に対する註記の一種で、説明対象となる本文の左傍に、語句の説明や漢字読みなどを記したもの。和讃など親鸞聖人のご著書や書写本に多く見られる。
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寺報に見る住職の10年の歩み 平成18年

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寺報に見る住職の10年の歩み 平成18年
私(住職)の住職拝命は平成18年10月10日でした。あれから10年、私(住職)はどのように歩んでいるのか、「寺報」から振り返りたいと思います。
平成18年は、平成12年から始まりました高田本山専修寺の御影(みえい)堂の平成大修理中で御影(みえい)堂の屋根の瓦葺きが終わり、素屋根が撤去され、4月から堂内の修復が始まる年でした。私(住職)は高田本山専修寺御影堂平成大修理事務局に勤めながら、お寺の住職として歩み始めた年であります。今思うのは、それができたのも前住職がまだまだ元気であったからだと思います。
 【寺報25号平成18,年12月発行】
 『去る(平成18年)10月10日高田派ご法主様より住職拝命の辞令を受け法苑院妙華寺第12世の法灯を継承いたしました。顧みれば昭和45年に得度して以来36年多くの方々のお育てを受けてまいりました皆様のご恩に対しまして改めて甚々の謝意を表するものであります。しかしながら未だ若輩ゆえ住職という重責を担うには未熟に過ぎることは充分承知致しております。今後とも倍旧のご指導ご鞭撻を賜りますようお願い申し上げる次第です。右(寺報は縦書き)略儀ながら寺報をかりご挨拶申し上げます。 住職 中川 和則』
寺報に初めて私(住職)の言葉が掲載されました。私(住職)の文章の前に時の住職が住職交代をする挨拶文があります。今改めて、私(住職)の文章を見ますと、気負っている姿と、文章に恥じ入る気持ちです。
10月10日高田本山で住職拝命の辞令をいただく前(私は1年前)に、住職補任研修を受けました。当時は、お寺の総代様も研修を受ける為に高田青少年会館(現高田会館の前身)に宿泊していただきました。住職拝命まで1年ほどの時間がありましたのでこれまで前住職が全てしていたお寺の法人としての経理面を少し知ることができました。改めて10月10日の住職拝命式には、時の住職と総代様にも出席していただきました。その後、高田青少年会館で食事をし、時の住職も当時の私と同じ年齢で住職を拝命したことを知りました。
10月は12月発行の寺報の原稿を10月初旬に印刷屋へ原稿を入れ2度ほどの校正で11月中旬に刷り上がり12月の報恩講の案内に同封しています。
また、秋千部会の案内の宛名を手書きでしています。案内文は印刷ですがせめて宛名は下手な字ですが心を入れて書いています。
※寺報に見る住職の10年の歩みは、毎月10日頃に掲載いたします。

 

妙華寺の2つの碑

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妙華寺の2つの碑
本堂の向かって右側に2つ碑があります。
1つは「戦没者慰霊碑」です。この碑は昭和27年4月28日當山同行建立とあります。碑の裏側に86名のお同行様のお名前と発願しました当時の住職や世話人のお名前が記載されています。また、この碑は松阪の田端石材店が造られたようです。昭和27年4月28日に戦没者追弔会が始まり、「戦没者慰霊碑」の前で毎年お勤めをしていました。当時は「戦没者慰霊碑」の前で「阿弥陀経」をお勤めして、ご遺族様やお世話方様の焼香があり、続いて本堂で、「文類偈」・「5首和讃」のお勤めをしていました。次の日から2日間(現在は29日のみ)春の千部会が勤まっています。年々ご遺族様の参詣が少なくなり、平成6年終戦49年目に50回忌をお勤めして戦没者追弔会としてのお勤めは最後になりました。
 もう1つの碑は、「浄土三部石経塚」とあります。隣の「戦没者慰霊碑」と土台が同じ形態ですので建立は昭和27年と思っていましたが碑の裏側に大正10年にあった碑が損害甚だしく昭和12年1月に修繕し直したとありました。この「浄土三部石経塚」の碑は、大変信仰の篤いお同行様が、妙華寺の敷地の小石に浄土三(部)経2万6千6百12文字を書き碑の下に埋めたとあります。また。「浄土三部石経塚」の碑の彫字の元は、法隆寺の管長の佐伯定胤猊下の真筆とあります。
 私(住職)は、この「浄土三部石経塚」とはどのようなものであるかわかりませんでしたが、2016年09月25日の京都新聞のHPで【「一石一字経」復活へ 京都帝釈天、全国から募集】の記事を目にしました。記事によりますと、江戸時代に石に経典の文字を1つ記して土に埋める「一石一字経」というものがあったそうで、紙に書く写経と違い河原などで集めた丸い小石に一字ずつ墨で「お経」の一字を書き写すことが全国的に広まっていたようです。
当時は一人か数人で1つの「お経」を完成させてその場に碑を建てるようでした。多大な労力と費用が必要だったようで近年はほとんど行われていないようです。
 また、今の「浄土三部石経塚」の以前のものと思われる小さな「浄土三部経石塚」の碑もあります(側面にこの碑が造られたのが天明●●年5月5日とあり天明年間の彫字が磨滅して判別できませんが江戸時代に小石に浄土三部経の文字を書いていたご奇特なお同行様がいらっしゃったのでしょう)、今ある「浄土三部石経塚」の碑の場所かどこか違う場所にあった小さな「浄土三部経石塚」の碑を大正10年に新たな信仰の篤いお同行様が、小石に浄土三部経の文字を書かれて碑を造られましたが損傷しましたので昭和12年に今の碑に修復されました。昭和27年に、「浄土三部石経塚」の隣に同じ形で「戦没者慰霊」碑を建立したようです。
※尚以前の小さな「浄土三部経石塚」の碑は、現在、樹木の元でのお墓の中心に据えられています。
【参考】佐伯 定胤(さえき じょういん)慶応3年6月25日(1867年7月26日) – 昭和27年(1952年)11月23日)は、日本の法相宗・聖徳宗の僧侶、仏教学者。
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七高僧 天親菩薩

昨日HPで、高田本山のひとくち法話の紹介で、7高僧についての「ひとくち法話」が始まりました。妙華寺の日曜学校でも以前7高僧について紹介しましたことも続けて掲載させていただきます。
七高僧とは、親鸞聖人が浄土教の祖師として尊崇した、インド・中国・日本の七人の高僧を示します。龍樹(りゅうじゅ)菩薩・天親(または世親)菩薩【インド】、曇鸞(どんらん)大師・道綽(どうしゃく)禅師・善導(ぜんどう)大師【中国】、源信(げんじん)和尚・源空(げんくう)上人【日本】の七人で、それぞれの著書の中で真宗で大切にしているものを「七祖聖教」(しちそしょうぎょう)という。
龍樹の『十住毘婆沙論』の「易行品」
天親の『無量寿経優婆提舎願生偈』(浄土論あるいは、往生論と略する)
曇鸞の『無量寿経優婆提舎願生偈註』(往生論註あるいは、浄土論註、単に論註と略する)
と『讃阿弥陀仏偈』
道綽の『安楽集』
善導の『観無量寿経疏』 と『法事讃』と『観念法門』と『往生礼讃』と『般舟讃』
源信の『往生要集』
源空の『選択本願念仏集』
②天親は『無量寿経優婆提舎願生偈』(浄土論あるいは、往生論と略する)という96句の 詩句と三千字足らずの散文の書物を著した。「浄土三部経」(大経・観経・小経)に説 かれている無量寿佛(阿弥陀佛)について論議し、西方に生まれたいと願うこころを 語っている。詩句部では、天親の阿弥陀佛への帰依と願生浄土の思いを表明し、浄土 のすばらしさについて、国土・阿弥陀佛・菩薩の三点から計29種で讃えている。散文 部では、この浄土へ往生するための行として、礼拝・讃嘆・作願・観察・廻向の五念 門行を語り、その行の結果として、往生のすがたを近門(ごくもん)・大会衆門(だい えしゅもん)・宅門(たくもん)・屋門(おくもん)・園林遊戯地門(おんりんゆげじ もん)の五果門で説明している。天親が七高僧の一人として注目されるのは、「世尊、 われ一心に尽十方無碍光如来に帰依したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず」という 表明を最初にしているからである。尽十方無碍光如来すなわち阿弥陀如来に帰依する こと、浄土往生を一心に願っていることが重要で「一心」こそが信心に他ならない。
五念門行はこの一心にそなわる功徳であると考えられていく。
天親は、一心(信心)を明らかにのべひろげた点で功績とされている。
『親鸞読み解き事典』から
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9月のおてらおやつクラブ

9月のおてらおやつクラブ

お彼岸が終わり今月もおすそ分けさせていただきました。
1支援団体様では、12月23日にクリスマス会を予定されています。その時には子ども達にいつも以上の笑顔になっていただければと思い。地域のまだ「おてらおやつクラブ」をご存知でないお寺様にも呼びかけることができればと思案中です。

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「古本勧進」も8月末に毎回お同行様がお寺にお持ちいただく不要になった古本を些少ではありますがお送りしました。次にお送りするのは、来年1月の末です。ご家庭で不要になりました本がありましたらお寺にお持ちください。
対象の本は、裏表紙にバーコードのあります文庫本・新書本・単行本です。
申し訳ございませんが、週刊誌・雑誌・百科事典・全集は対象外です。
本以外、書き損じのハガキ・不要なCDも受け付けています。

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私の一盌

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私の一盌
今秋、京都の茶道資料館で開催されています『私の一碗』展では、60数名の著名な方々のかけがえのない思い入れがある一碗(茶碗)を拝見できるようです。
お茶を愛好する方々には一人一人かけがえのない思い入れの一碗があると思います。
私(住職)の一盌と尋ねられれば、妙華寺の親鸞聖人750年御遠忌を勤めた時に記念の品として岐阜県土岐市の陽山窯の水野雅之氏に依頼した志野茶碗を取り上げます。30盌造り、お勤めいただいた組内のご住職様やお手伝いいただいたお寺のご住職様などにお渡しさせていただきました。行事の1年前に、茶陶の水野雅之さんに相談し、お茶碗の構想を練って頂きました。半年ほどして、窯場に来て茶碗に何か書くよう連絡があり訪れました。素焼きされた茶碗が並んでいて、一碗一碗に筆で書き入れるのですが、大変難しく同じ字を書くのですがどれひとつ同じ形にならず貴重な体験をさせていただきました。後日、桐箱に記念行事の名称を入れていただきお送り頂きました。水野雅之さんとは以前に裏千家茶道の東海ブロックの青年部活動で知り合い親しくさせていただいています。日本の古陶の美濃(土岐)で茶陶の陽山窯の三代目(当主)として精進されています。

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父(前住職)はお茶を喫茶することにそれほど興味はありませんでしたが、高田本山の青少年会館で陶芸教室が開催されていて15年ほど参加して作陶を楽しんでいました。
電気窯でしたが柔らかい土の楽焼きの作品を造っていました。ある会の賞もいただいたことがありましたが、本人は月に二度ほど教室で、茶碗や花入れ、香合・香炉・菓子器など造って年に2度焼き上がった作品を知り合いの僧侶やお同行の方、友人に差し上げて楽しんでいました。毎年お盆のお勤めの時に前住職の造った花入れに、ノボタンをいれて迎えていただくお同行様がいます。

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 祖父(前々住職)は、お茶(薄茶)が好きで毎日居間で、自分で点てていただいていた姿を思い出します。茶碗は、いつも楽茶碗(黒)でした。祖父が往生してから、その茶碗の箱を拝見すると「一元写黒 銘 不老門 比老斎(藪内家6代)玉水焼」とあり由緒のある茶碗で毎日お薄を楽しんでいたことを知りました。
喜寿の時は、自祝いとして、万古茶碗に筆で自分の干支を書かれた茶碗が残っています。また茶友の僧侶から贈られたお茶碗や、祖父が旅行先で出会った茶碗などが茶室へ続く廊下の棚に並んでいました。祖父だったか祖父の年代の方から、以前は「組内の報恩講にお勤めに行くと、各お寺で毎年同じお菓子とお茶碗でおもてなしをしていただくことが楽しみであった」となつかしそうにお話しいただきましたことを思い出します。
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 お寺(妙華寺)にはお茶道具がいくつかあります。禅宗のお寺ではないですが、お茶は僧侶をもてなすことの大切な1つであったと思います。妙華寺の8代の実言上人は松尾流のお茶を教えていたようです。また内室として嫁がれた方のお寺から持参されたお茶道具も残っています。お同行の方の中には、ご往生されました方の形見としてお譲りいただくこともあります。また、高田本山から本山の行事の記念の品としてお茶碗をお贈りいただくこともあります。高田本山に伝わる宗旦古流の家元(ご法主)が銘をつけられたお道具も残っていて大切に伝えなければいけないと思っています。
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伝わる法話 「み教え」は法話で伝わっている?

伝わる法話 「み教え」は法話で伝わってるか?
真宗は「お聴聞」が基本です。私が阿弥陀仏のはたらきに気づかせていただくことを布教使様から何度もお聞かせくださいます。
布教使様からお聞かせ頂くお話しを、「お取り次ぎ」・「お説教」・「ご法話」と総称していますが、この「お取り次ぎ」・「お説教」・「ご法話」が、お聴聞されている方々に伝わっているのか?
お伝えする側から考えますと、妙華寺でお聴聞できる場は、お寺の5つの行事(春秋の彼岸会・春秋の千部会・報恩講)のご法話の時間だけです。その場に立つときは、布教使として、初心者であろうが、経験豊かな者であろうが、その時の聴衆へ私(布教使)が阿弥陀仏のはたらきに気づかされことをその時の聴衆と共に讃嘆できるようなお話しを心がけているのでしょうが中々そのようにはならないのが現実であります。ご法話はこの私が阿弥陀仏のはたらきに気づかされた物語です。その物語をお伝えするには自分の経験や学びを交えてですが、表現力も必要でしょうし、その物語自体の構成も大事だと思います。ご法話の後あれもこれもダメだったと反省しきりの布教使でありますが、お聴聞くださる方々は、批判や反論を言うわけでもなく、これまでお聴聞されてきたご法話の中からやご自身のご領解(りょうげ)で、今日のご法話を補いながらご自身の物語としてご法話をお聴聞してお帰りになります。とても温かく優しく布教使をお育てをしてくださっている背景には同じ物語を共有する世界があり仲間(同行)であるからだと思います。
現代の多様な価値観を認める一般社会の常識から見ると不思議な光景なのかもわかりません。また、真宗では自分の愚に気づいて翻っていく世界でありますが、愚に気づくことが、今の時代の考え方の中では否定的(マイナス)に感じ(見)てしまうようで、伝わりにくい事であるのかもわかりません。これまでも長い間、指摘されてきたことですが、ご法話の内容が初めてお聴聞される方々には伝わらないので、お寺の行事への参加者も少なくなり、お寺が以前より閑散として衰退していき、仏教自体が一般社会から見限られていく一因だと言われています。
今後は、これまでのような僧侶(布教使)とお同行様を共にお育てをいただく場がなくなり、ご法話いただく場には、阿弥陀様と畳と柱しかいない日が来るのだと思います。それでもご法話をよりどころとして「み教え」を伝える覚悟を問われるところです。覚悟だけで今のお寺の問題が解消するわけではありませんが・・・伝わる法話に精進していかなければならないのでしょう。
また違う言葉で言えば、法話は法施と考えても良いと思います。法施とは布施の1つで、「布施とは梵語ダーナの意訳 檀那・檀と音訳する。他に与えること、施しの意。財物を施すことを財施、法を説くことを法施、無畏(おそれなき心)を施すことを無畏施といい、総称して三施という」とあります。
私の法話(法施)がお同行の皆様にちゃんと伝わっているのか省みながら精進していきたいものです。
 住職としては、このような時代でありますが、ご法話をご聴聞くださる皆様がここ妙華寺にいてくださることが大変有難いことであります。阿弥陀仏のはたらきに気づかせていただくご縁を大切にして、皆様と共に聴聞させていただきます。

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七高僧 龍樹菩薩

昨日HPで、高田本山のひとくち法話の紹介で、7高僧についての「ひとくち法話」が始まりました。妙華寺の日曜学校でも以前7高僧について紹介しましたことも続けて掲載させていただきます。
七高僧とは、親鸞聖人が浄土教の祖師として尊崇した、インド・中国・日本の七人の高僧を示します。龍樹(りゅうじゅ)菩薩・天親(または世親)菩薩【インド】、曇鸞(どんらん)大師・道綽(どうしゃく)禅師・善導(ぜんどう)大師【中国】、源信(げんじん)和尚・源空(げんくう)上人【日本】の七人で、それぞれの著書の中で真宗で大切にしているものを「七祖聖教」(しちそしょうぎょう)という。
龍樹の『十住毘婆沙論』の「易行品」
天親の『無量寿経優婆提舎願生偈』(浄土論あるいは、往生論と略する)
曇鸞の『無量寿経優婆提舎願生偈註』(往生論註あるいは、浄土論註、単に論註と略する)
と『讃阿弥陀仏偈』
道綽の『安楽集』
善導の『観無量寿経疏』 と『法事讃』と『観念法門』と『往生礼讃』と『般舟讃』
源信の『往生要集』
源空の『選択本願念仏集』
①龍樹は、『華厳経』の「十地品」を註釈した書物『十住毘婆沙論』の第九章「易行品」
の中で、仏道を難行道と易行道に分けた。陸路を徒歩で歩いてゆくのにたとえられる 困難な修行の道と、船に乗って水上を進むのにたとえられるやさしい道である。易行 道すなわちやさしい道こそ求め願われるべき方向で「信方便の易行」という名で出て くるが、「信心を内容とする称名」のことである。
すなわち、阿弥陀佛など諸仏諸菩薩の名号(みょうごう)を称える行が易行道であっ て、龍樹は、阿弥陀佛の信仰を表明し、称名行によって不退転地にいたることを教え た。「易行品」においては、必ずしも弥陀一佛への称名行だけが説かれているわけでは ないが、親鸞聖人は、意識的な読み替えにより、阿弥陀佛に対する称名易行にとりき っていった。このようなことから最初に阿弥陀佛信仰に生きた先輩として龍樹が位置 づけられ七高僧の第一に入れられた。
『親鸞読み解き事典』から
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仏旗をご存知ですか?

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仏旗(ぶっき)をご存知でしょうか?
お寺の行事の時にお堂の上がり口の柱に掲げています。仏旗のことを「六金色旗(ろっこんしょくき・ろっこんじきき)」と呼ぶことがあります。仏旗を見ると五色しかありませんが、六金色旗と言うのはどうしてか何も知りませんでしたので改めて確認しました。
「六金色旗(ろっこんしょくき・ろっこんじきき)」と言われるのは、ブッダの体から六色の光が放たれることからのものだそうです。
妙華寺の仏旗は「緑、黄、 赤、白、紫」の五色で、「青、黄、 赤、白、樺(橙)」と違いますが、「緑、黄、 赤、白、黒(紫)」の仏旗は旧来の仏旗のようです。
仏旗(ぶっき)については全日本仏教会のHPから紹介します。
Q.  仏旗とはなんですか?
A. 仏教徒が、仏教を開かれたお釈迦さま(仏陀)の教えを守り、仏の道を歩んでいく時の大いなる旗印となるものです。
Q. いつ定められたのですか?
A. かねてより多くの仏教国で掲げられていましたが、世界仏教徒連盟(WFB)が結成され、スリランカでの第一回世界仏教徒会議が開かれた1950年に、正式に「国際仏旗」として採択されました。さらに1954年、永平寺で開かれた第二回全日本仏教徒会議でも決められました。
Q. 仏旗の色と形にはどういう意味があるのですか?
A. 仏陀がそのすぐれた力をはたらかせる時、仏陀の体から青、黄、赤、白、樺及び輝きの六色の光を放つと『小部経典』というお経の中の「無礙解道」の項に説かれていることからこれらの色が使われています。このため仏旗は「六色仏旗」とも呼ばれています。また、次のようにも理解されています。
◦青は仏さまの髪の毛の色で、心乱さす力強く生き抜く力「定根(じょうこん)」を表します。
◦黄は燦然と輝く仏さまの身体で、豊かな姿で確固とした揺るぎない性質「金剛(こんごう)」を表します。
◦赤は仏さまの情熱ほとばしる血液の色で、大いなる慈悲の心で人々を救済することが止まることのない働き「精進(しょうじん)」を表します。
◦白は仏さまの説法される歯の色を表し、清純なお心で諸々の悪業や煩悩の苦しみを清める「清浄(しょうじょう)」を表します。
◦樺は仏さまの聖なる身体を包む袈裟の色で、あらゆる侮辱や迫害、誘惑などによく耐えて怒らぬ「忍辱(にんにく)」をあらわします。インド、タイ、ビルマ等のお坊さんがこの色の袈裟を身につけています。
この縦と横に重なり合う五色で表される仏さまのお姿と教えが、仏の道を進む私たちを励まして下さっているのです。
Q. 仏旗のデザインと色の目安について教えてください
A. デザインと色についての、目安は次の通りです。
◦デザインは縦に6本の同じ幅で左から青・黄・赤・白・樺で、一番右の列は上から青・黄・赤・白・樺です。ただし、縦の樺色と横の樺色の間には区切りがなく、英語のL字型で表示されます。
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※写真の妙華寺の仏旗のデザインで色の位置が、左からではなく右から「緑、黄、 赤、白、紫」で、一番左の列は上から「緑、黄、 赤、白、紫」になっています。仏旗の生地の表裏を見て撮影しましたが、デザインからすると逆のようです。
また、五色と上から「緑、黄、 赤、白、紫」が並んだ部分が、「輝き」を表す部分で、六色になるのだと知りました。しかし、「輝き」を示す部分が他の五色の部分より幅広なのも仏旗としてのデザインとしては間違っているみたいです。
※高田本山の山旗はご存知でしょうか? 高田派の旗章は、白地に赤い「一」です。行事がありますと山門に掲げられます。以前、どなたかに一身田の「一」と聞いたこともありますが真偽はわかりません。

葬儀について

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 葬儀について皆様はどのようにお考えでしょうか? 多くのご意見があろうかと思われますが、妙華寺の現状を振り返ってみます。
私のお寺では、昭和12年頃から火葬が始まり、次第に増えていきますが、成人の方の埋葬(土葬)での葬儀の最後が昭和40年で1軒行われています。(昭和39年は2軒、昭和37年は3軒)私が生まれた頃(昭和31年)から境内墓地の整備が持ち上がり、昭和40年頃に現在の形になりました。
埋葬の時の葬儀は、本堂の前の境内で行われていたようで、野仏(のぶつ)と呼ばれる来迎図の掛け軸をご本尊としてお迎えして、真宗高田派の伝統である、野袈裟(のげさ)と呼ばれる七条袈裟の幅の正絹に名号が書かれているものを棺桶にかぶせて葬儀をしていたようです。
火葬での葬儀は、今から10年ほど前までは、骨葬(こつそう)と呼ばれる火葬してから葬儀をする形でした。これまで、自宅での葬儀やお寺での葬儀が、昭和60年頃に、隣の市に葬祭ホールができ年々ホールでの葬儀が増えて、10年ほど前に市内に葬儀ホールができると今は全て葬儀ホールでの葬儀になりました。また10年前に市町村の合併が行われ、これまで骨葬での葬儀が、火葬前に葬儀をすることになり、火葬時間に合わせて葬儀が始まることになりました。
お通夜については以前にこのブログでも書きましたが、前々住職の代までは僧侶にお勤めを依頼されることはありませんでした。組内(町内会)が中心となり喪家になりかわり通夜から葬儀まで取り仕切って役割を果たされていました。お寺のある組内でも亡くなられた方のご自宅でのお通夜に坊守が組内の一員としてお勤めに参加していました。前住職の代になり、組内でお通夜や葬儀での役割を担うことができない地域が出てきて、お通夜でのお勤めを依頼されるようになりました。お通夜のお勤めに何をお勤めするか当時の住職と話し合い、「阿弥陀経」・「文類偈」・「五首和讃」・「短念仏」・「廻向文」として今に至ります。
葬儀式は、お寺での葬儀(骨葬)の流れに従っています。本堂では、最初に内陣に住職や法中が出勤して「阿弥陀経」・「短念仏」・「廻向文」・「歎仏偈」・「短念仏」・「廻向文」・「引声念仏」をお勤めし終わると、大間に設えた祭壇の前に、住職と法中が移動して着座し、「勧衆偈」・住職の焼香・弔辞や弔電の拝読の後、「正信偈」が始まると喪主の焼香・親族の焼香・参列者の焼香が続きます。お勤めは、「正信偈」・「三重念仏一首和讃」・「引声念仏」で終わり、最後に喪主と親族代表の野礼(のれい)があり、僧侶が退出します。自宅で葬儀の場合も、葬儀ホールでの葬儀の場合も同じ形で阿弥陀仏にひとしく摂取されている恩徳に感謝できるよう心がけています。その後、現在は出棺の準備でご往生された方へお花でのお別れがあり、火葬場へ出発します。
 これまでの葬儀を考えますと、ご往生された方のご縁のある方々(家族。親族・友人・地域の方)が一緒に悲しみ、時間を過ごしていたように感じられます。お通夜から、組内の方々が中心となりお勤めをして、食事の用意も組内の方々がして、喪家の方の悲しみに寄り添って、葬儀、その後の49日までのお勤め。その後の年忌にも家族と同じようにお勤めをしていたことは今で言うお寺を介しての公益としての機能が発揮されていたことと思います。そこには、私たちは共に生かされていると言う感謝があってのことなのでしょう。
現在では、僧侶を必要としない葬儀もありますし葬儀自体を省略する場合もあるようです。その理由にはさまざまなことがあるのでしょうが、大切な方がご往生されたことを縁として仏法に遇うことや大切な方を亡くされた喪失感や悲しみの中にあるご遺族の心情についは個人的なことと考えられているようです。
 また葬儀を通して地域のコミュニティを見ますと、私の地域では30年ほど前までは、葬式組と言われる組内(町内会)の役割は果たされていました。徐々にではありますが高齢化や世帯や人員の減少で最小単位と言われています葬式組のコミュニティの役割も果たされることができなくなり、葬儀は家族や親戚が執り行うようになり、親戚関係も希薄化することで、次第に家族の葬儀になりつつあります。ご往生された方も、お送りする側にも社会との関わりがあるのですが、以前ほど葬儀は社会と関わる役割(公益)が少なくなってきていると感じられていることも背景にはあるのでしょうか?
一度失ったコミュニティは元に戻りませんので、葬儀が社会と関わる役割(公益)をもう一度見直しながら、新しい役割(公益)が構築できるか考えていきたいと思います。
 親鸞聖人は90歳でご往生されました。その時、「それがし閉眼せば賀茂川にいれて魚に与ふべし」とおっしゃったそうです。現在ではご往生される側の意向を優先する場合が多いですが、親鸞聖人を尊敬するお弟子さんや親族はそうはしませんでした。葬送の儀を行い、その後ご遺骨はお弟子さんに分けられ、お墓がつくられて、堂宇を守りながら今にいたります。私(住職)には、お送りする側の温かいお心を感じます。
 また、葬儀とは別ですが、親鸞聖人のご命日に、この私がお念仏のみ教えを伝えくださった親鸞聖人のご生涯に報恩させていただくことができることも、とても有難いことです。私の大切な方がご往生されてからも私の中で遇えるという気持ちは安心につながるものと思っています。
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