妙華寺の2つの碑

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妙華寺の2つの碑
本堂の向かって右側に2つ碑があります。
1つは「戦没者慰霊碑」です。この碑は昭和27年4月28日當山同行建立とあります。碑の裏側に86名のお同行様のお名前と発願しました当時の住職や世話人のお名前が記載されています。また、この碑は松阪の田端石材店が造られたようです。昭和27年4月28日に戦没者追弔会が始まり、「戦没者慰霊碑」の前で毎年お勤めをしていました。当時は「戦没者慰霊碑」の前で「阿弥陀経」をお勤めして、ご遺族様やお世話方様の焼香があり、続いて本堂で、「文類偈」・「5首和讃」のお勤めをしていました。次の日から2日間(現在は29日のみ)春の千部会が勤まっています。年々ご遺族様の参詣が少なくなり、平成6年終戦49年目に50回忌をお勤めして戦没者追弔会としてのお勤めは最後になりました。
 もう1つの碑は、「浄土三部石経塚」とあります。隣の「戦没者慰霊碑」と土台が同じ形態ですので建立は昭和27年と思っていましたが碑の裏側に大正10年にあった碑が損害甚だしく昭和12年1月に修繕し直したとありました。この「浄土三部石経塚」の碑は、大変信仰の篤いお同行様が、妙華寺の敷地の小石に浄土三(部)経2万6千6百12文字を書き碑の下に埋めたとあります。また。「浄土三部石経塚」の碑の彫字の元は、法隆寺の管長の佐伯定胤猊下の真筆とあります。
 私(住職)は、この「浄土三部石経塚」とはどのようなものであるかわかりませんでしたが、2016年09月25日の京都新聞のHPで【「一石一字経」復活へ 京都帝釈天、全国から募集】の記事を目にしました。記事によりますと、江戸時代に石に経典の文字を1つ記して土に埋める「一石一字経」というものがあったそうで、紙に書く写経と違い河原などで集めた丸い小石に一字ずつ墨で「お経」の一字を書き写すことが全国的に広まっていたようです。
当時は一人か数人で1つの「お経」を完成させてその場に碑を建てるようでした。多大な労力と費用が必要だったようで近年はほとんど行われていないようです。
 また、今の「浄土三部石経塚」の以前のものと思われる小さな「浄土三部経石塚」の碑もあります(側面にこの碑が造られたのが天明●●年5月5日とあり天明年間の彫字が磨滅して判別できませんが江戸時代に小石に浄土三部経の文字を書いていたご奇特なお同行様がいらっしゃったのでしょう)、今ある「浄土三部石経塚」の碑の場所かどこか違う場所にあった小さな「浄土三部経石塚」の碑を大正10年に新たな信仰の篤いお同行様が、小石に浄土三部経の文字を書かれて碑を造られましたが損傷しましたので昭和12年に今の碑に修復されました。昭和27年に、「浄土三部石経塚」の隣に同じ形で「戦没者慰霊」碑を建立したようです。
※尚以前の小さな「浄土三部経石塚」の碑は、現在、樹木の元でのお墓の中心に据えられています。
【参考】佐伯 定胤(さえき じょういん)慶応3年6月25日(1867年7月26日) – 昭和27年(1952年)11月23日)は、日本の法相宗・聖徳宗の僧侶、仏教学者。
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