高田本山 燈炬殿 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

高田本山 燈炬殿 VR 専修寺360
新しい宝物館の一角にあるVR室で、「SENJUJI 360」の映像を楽しみました。
自分の目で見る高田本山の境内、御影堂の中はとても素晴らしいものです。すべてが大きな建造物で、それをもう少し近づいてみたいなと思うこともあります。最新の技術によって見ることが可能になり、貴重な体験でした。
この映像からなにを感じるのか様々なものがあります。建築の視点であったり、美術的な視点であったり、歴史的な視点からも拡がっていくような感じです。
第一回の企画展は、7月9日までです。時間がありましたら、ぜひ訪れてください。

「燈炬(とうこ)殿」真宗高田派本山専修寺宝物館
正像末法和讃
「无明長夜の燈炬なり 智眼暗しと悲しむな 生死大海の船筏なり 罪障重しと嘆かざれ」 弥陀の本願は煩悩の長い夜の闇を破る燈火である。さとりの眼がないからとて、悲しむに及ばぬ。弥陀の本願はまた迷いの大海を渡す船である。罪とかが重いからとて、決してなげくに及ばない。
【註解 国宝 三帖和讃】常磐井鸞猷著

「无明長夜の燈炬なり」この左訓は「煩悩を長き夜にたとう。燈はつねのともしび、炬は大木なるともしび。弥陀のおん誓いを燈にたとえ申すなり」です。この一言は法然上人がお亡くなりになり、謝恩会のご法事(中陰中 六七日)が催された。そのときに聖閣法印が導師を勤め、「表白文」をのべられる。そのなかにでてくる言葉です。
「无明長夜」私たちの実感できる言葉が「長夜」です。夜明けのこない長い夜、これをもって私どもの「無明煩悩」を喩えられたものです。その「無明」を破らんがための燈
です。信心というものは、いつでも無明と光明の瀬戸際にたつ、その時を捉えたものです。「智眼暗しと悲しむな」智慧のまなこがくらい。「如来の智慧を聞かせたまえ」と、これは人間の無底の底からの深い祈りです。人間の悲しみとして、一番多きなる悲しみは、智慧の眼の暗さであります。
「智眼暗しと悲しむな」ということは、如来が人間の悲しみを見通されての言葉であります。私らの生活設計というものは、悲しむことのないように、笑って暮らそうと、みんな思っている。仏法はそうでない。まず悲しむ心をもちなさいという。何が悲しいかというと、「智眼の暗さ」が悲しいのです。智慧の眼を盲(めし)ていることが悲しい。私はこの
「智眼暗しと悲しむな」というのは、非常におごそかなものだと思います。まず、私の「智眼暗しと」と悲しむところからはじまる。泣いてもいないのに泣くなといったって、他人ごとに聞こえるのは当然です。泣いている人こそ泣くなという呼びかけが響くわけです。法然上人は「悲しむ心をもつべし」と、これは(親鸞)聖人が84歳になって、お手紙のなかに、法然上人のこの言葉をありありと思い出していられます。如来のお心においては、人をとがめないで悲しむ心である私たちが如来のお心をいただくためには、この悲しむ心という場がなければ、如来がおでましになる場所がない。悲しむ心をおこした私に「悲しむな」と、こう呼びかけて下さる。「罪障重し」と歎いておる人に「なげかざれ」と、ここに罪を許す大悲の温情が身に迫って生きてきます。
「生死大海の船筏なり」「みだのがんをふねいかだにたとえるなり」。生死流転の無明の大海に溺れて救いを求めている私に、ここに船がある筏があると。
「罪障重しと嘆かざれ」罪障の重いということがわからないものに、「嘆かざれ」という言葉は響いてまいりません。私は罪と障りの塊りだということを知らしめられ、その罪と障りをどうしようもない私に「罪障重しと嘆かざれ」との思いがけない呼びかけを聞いて、ここに如来の本願があると、はじめてこれが響いてくるのであります。
【正像末法和讃講話】川瀬和敬著