お寺の掲示板

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「今」を生きることに集中する

『大往生できる人 できない人』潔く、とらわれず、おまかせして生きる 田畑正久著 から
著書の中で、ほとんどの人が「仕合わせになるためのプラス条件」を増やし、「仕合わせの足かせになるマイナス条件」を減らしていくことで仕合わせになれると考えています。
しかし、「年を取ることは今まで見えなかった世界」が見えてくる、智慧をいただく、人間として成熟する歩みがある。と述べています。

私(住職)が25歳の時に、祖父が80歳で往生しました。私(住職)が52歳の時に、父が80歳で往生しました。祖父と父との続柄が違うこともありますが大切な人の死について思うことは変化しています。そしてこれからも変化していくと思っています。

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「死後の世界」が、あるかないかは、自分で決めていい

『人は人を救えないが、「癒やす」ことはできる』 谷川洋三著から
著書では続けて、あるかないかわからないのが「死後の世界」です。だからこそ、自分がどう思うかという基準で、自由に決めてしまっていいともいえます。

死の不安や恐怖を取り払いたいのであれば、どんなものでもいいので自分の中で決めることが必要です。有でも無でもどちらでも構わないので、自分の都合のいい死後の状態を設定して、そして信じること。その信じる度合いが100%に近づけば近づくほど、死を前にしたときの心の安定が得られるはずです。
自分で選べることが大切で、他者からの強要での選択では後悔がやってくると思います。

8月の聞法

8月の聞法
1日は、徳本会の暁天講座に初めて伺いました。旧「津市」の浄土真宗の3派寺院で50年以上活動されています徳本会は、毎月「真宗講座」を開催し、8月1日から3日まで、朝5時から6時の暁天講座を開催されています。今年の会場は、海に近い津市中河原の潮音寺様です。住職の村上英俊師には以前から親しくさせていただいています。徳本会の総理であります高田本山のご法主殿のご臨席の元、「重誓偈」のお勤めの後、真楽寺住職の鷲山了悟師(妙華寺の毎年秋彼岸の布教使)のご法話を聴聞しました。ご自身の病気を通して阿弥陀様のはたらきに遇うことができたことを、丁寧にお話されました。「自分自身のたよりなさ」や「無常」についてもう一度かみしめることができました。※中川個人の感想です。
2日は、昨日と同じ徳本会の暁天講座で、本願寺派布教使の加藤幸子師の「御開山聖人ご出生のご恩」と題して「南無阿弥陀仏」の呼びかけは、自我を破る「はたらき」であることを親鸞聖人が私に知らしめていただいたことをうれしく尊くあることをお話されました。昨日の「自分のたよりない」ことが破られていくことをが仏縁に遇うことであることを改めて感じました。※中川個人の感想です。
2日の高田本山夏季仏教文化講座は、花園大学の佐々木閑師の「現代社会で生きるためのブッダの教え」として仏教学の歴史やシャカの悟ったことの目的は、今に伝わる上座部仏教と大乗仏教で変わらないことなど基礎的なことを丁寧にお教えいただきました。ヨーロッパでは、インドの言語とヨーロッパの言語を比較すると同じような形であることから古代アーリア人を共通の祖先として見ることができ、ヨーロッパ人は自分のルーツとしてインドの研究を、1600年代(江戸時代の)頃からしていますので仏教学の先行研究はヨーロッパが中心であることも私には新鮮でした。※中川個人の感想です。


3日の徳本会暁天講座は、妙華寺の衆徒が「阿弥陀様のお心」と題してお話をさせていただきました。聖人の和讃から、私たちの日々の有り様は煩悩だらけである。手放すことをしたくない大切なものも最後は手放していかなければならないことは頭で分かっていても、今直ぐに起こることとは思っていない私をずっと見て下さる「はたらき」が阿弥陀様のお心とこれまでの経験を通してお話されました。凡夫とは私のことであると聖人の和讃からいただくことができました。 ※中川個人の感想です。
最後に3日間ご臨席のご法主殿からお言葉をいただき今年の暁天講座は修了しました。
この暁天講座の3日間は、徳本会会員の知人と共に聞法できた有難い時間でもありました。日が明ける頃に暁天講座がはじまり終わる頃は朝の光を感じながら1日がはじまる素敵な時間をいただきました。


8日は、奈良県の田原本町にある西本願寺派の浄照寺様のお盆行事に伺いました。浄照寺様は由緒ある格式のあるお寺ですが、私は勝手に親しみを感じています。
それはお寺の行事で多くのお同行様がそれぞれの役割を楽しく果たされているからです。またご住職様をはじめ寺族の方々の行事に向き合う姿に心打たれます。
今日は、お盆の行事でご法話は、本願寺派布教使の花岡靜人師でした。花岡先生は高田本山の布教伝道研修講座のご講師でもありますが、ご法話を聴聞させていただくのは初めてでした。親鸞聖人の『尊号真像銘文』から親鸞聖人自身の文である「正信偈」の一文からの讃嘆でした。親鸞聖人の阿弥陀如来の「はたらき」を讃嘆するお姿が素晴らしいのは、阿弥陀如来の「はたらき」がそのままでちゃんと私に届いているからのことですが、つい自分を付け足してしまいたくなってしまうのが凡夫の私であります。後二座ありますので最初のさわりだけでありましたが私にもわかるようにお話くださいました。外は暑い一日でしたが本堂内は空調設備のおかげで快適に聴聞させていただきました。※中川個人の感想です。


28日は、教学院主催の「仏法と現代を考える集い」で「医療と仏法」~医療現場の問いを抱えて仏教に学ぶ~と題して、真宗大谷派の僧侶であり、脳神経内科の医師でもある岸上仁師が講師でした。岸上師の医療現場は、病気が治らない(難病で治療方法がまだわからない)現場で、告知に当たって「治らないのであれば殺してください」など患者の声にどのように向き合っていくかとても難しい問題を、仏教を学びながら今もご自身に問いかけているようです。「ケアされる側」の問題は「ケアする側」の問題でもあり立場を超えた問題で「言葉にならない心の叫び」をどのように聞いていくか医療現場から多くのことを学び、仏教に学んでいらっしゃいます。同じ言葉であってもその言葉の奥にある心の叫びは、本人も気づいていない場合もあるかも知れないし、私も気づく事ができていないこともあり、「寄り添う」ことに大きな壁があるとの言葉に改めて私(住職)も肯きながらこれからの「寄り添う」あり方を考えさせられます。沢山の事をお話されましたが、私(住職)の理解が浅くもったいないことでした。 ※中川個人の感想です。

 

 

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遠く離れてはいても 心はひとつ

「長相思(チャンシャンスー)」作詞 きたやまおさむ

市川猿之助のスーパー歌舞伎『新・三国志 完結編』の中の挿入歌『長相思(チャンシャンスー)』の言葉。歴史が変転する流れのなかで望郷の歌として歌われたようです。
歌舞伎も三国志も知らない私にとってこの言葉は何が響くのか「望郷」としてなつかしさや過去の思い出としても響いてくるが「別れ」を告げられても共にいることとして響いている。

お寺の一日(9月)

お寺の一日(9月)

9月は、秋のお彼岸の準備から始まります。妙華寺のお彼岸は秋分の日にお勤めいたします。国の祝日法で秋分の日は、「先祖をうやまい、なくなった人々をしのぶ」とあることを教えていただきました。私(住職)が小さかった頃は「暑さ寒さも彼岸まで」と言葉とおりの季節感でしたが最近は秋の彼岸法会で扇風機が必要なこともあります。また、最近は小学校の秋の運動会に重なることもあります。平成29年に本堂に空調設備を導入しましたので7月8月のお勤め時、暑さも少ししのげた感じです。

8月のおてらおやつクラブ

8月のおてらおやつクラブ
8月は、9日に一人親家族様に19日に二つの支援団体様へ「お供え」を「おすそ分け」させていただきました。

おてらおやつクラブの冊子「てばなす」2号を事務局からお送りいただいています。お盆
参りにお配りできれば良いのですが準備ができずに、秋彼岸会の案内時に配布予定です。

また、年2度回収の古本勧進での古本も募集しています。
今回は8月末までに集まった古本を寄付させていただきます。
不要になりました古本がありましたらいつでもお寺にお持ち込みください。
対象の本は、裏表紙にバーコードのあります文庫本・新書本・単行本です。
申し訳ございませんが、週刊誌・雑誌・百科事典・全集は対象外です。
本以外、書き損じのハガキ・不要なCDも受け付けています。

8月の法語カレンダー

8月の法語カレンダー
「涅槃の真因は ただ信心をもってす」 『顕浄土真実教行証文類』から

『顕浄土真実教行証文類』6巻
親鸞聖人が、経(釈尊が説いた教え)、論(経説等をインドの高僧が解説した書)、釈(中国の高僧が経論の意味を解説した書)の重要な文章を集め、自身の文章も加えて真宗の要義を組織的体系的に論じ明らかにした書で立教開宗の根本聖典。教、行、信、証、真仏土、化身土の6巻よりなる。74歳の時完成するがその後幾度となく加筆訂正をする。聖人自筆本が東本願寺に蔵されている。
今月の法語は、「三心一心(さんしんいっしん)問答」の文にあります。

何一つなし得ないこの私を、必ずこの上ないさとりの仏に成らせると誓われた阿弥陀さまは、私がなすべきことを全部、阿弥陀さまの方でご用意してくださり成就してくださいました。その全てを頂戴するのがご信心です。
私にとって、ご信心一つが、仏に成らせていただく正しき因でした。
いま、さとりを開き仏と成る、涅槃にいたるいのちを生きることができます。
これが、浄土真宗・阿弥陀さまのお救いです。

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人は「生きてきたように、死んでいく」

『大往生できる人 できない人』潔く、とらわれず、おまかせして生きる 田畑正久著 から

著書で、「私(著者)も含め、終末期の医療の現場にいる多くの人が思うのは、『人は生きていたように死んでいく』ということではないでしょうか。まさに「生き様」が「死に様」というのは、本当にその通りだと実感します。「何を大事にして生きてきたか」が、そのまま出てくるわけです」
続けて著者の友人が仏教の勉強を始め、お坊さんにいろいろ質問したところ、「是非、続けて聞法してください」と言われたそうです。 「聞法」とは仏教用語で、仏教の教法を自己と照らし合いながら聴聞するということです。しかし、この友人は私に、「自分たちは食べるために働かなくてはいけなくて忙しいから、「聞法しろ、聞法しろ」と言われても、なかなかお寺に行けないんだ」と感想をもらしました。そこで「食べないと死ぬと思っているかもしれないけど、食べていてもやっぱり死んでいくよ」と私が返すと、苦笑いをしていました。「治療しないと死にますよ」と医師は言いますが、生まれてきた者は、誰もが老病死に必ずつかまっていく現実を忘れてしまっているのです。

私も若い頃から「食べていかないと死んでしまうけど、食べていても死んでいく」ことに「生きる意味」は何かとずっと尋ねているようなことです。

8月のお盆勤め

今年の8月のお盆は台風10号のゆっくりした動きで14日15日は風雨の影響でいつもより大変でした。毎年のことですが、8月のお盆は小さな子どもさんがお仏壇の前に一緒に坐ってお勤めするご家庭が多くこの姿が相続されることがお寺として大切だと改めて感じています。また7月のお盆と同様に「いのちの積み木」を内陣の高座に積み、私の「いのち」が先祖の「いのち」の繋がりを可視化しての思いをお伝えしました。

またお寺のお墓へも、ご遠方からお盆参りにお見えになられるご家族が多くいらつしゃるのは8月のお盆ならではの光景と感じます。事前にご連絡いただいたりして、住職がお会いできましたらお墓でお勤めをさせていただくのですが、出かけている場合が多く、その時は、後ほど住職がお墓や本堂でお勤めをさせていただいています。また、遠方からお盆参りにお見えになるのが困難な場合もご連絡いただきましたらお墓でお勤めをさせていただきます。関東のお同行・名古屋市・四日市・鈴鹿市・松坂市・津市・京都府・大阪府・兵庫県のお同行の方々から連絡をいただき今年は、7日・10日・11日・16日の朝墓でお盆のお勤めをさせていただきました。


※今年は、お盆に入る時にお墓参りの方から隣寺との境の垣根に蜂の巣があることを教えていただきその日の夕方駆除しました。駆除しましたが2週間ほどは蜂が巣を捜しにくるそうですのでもうしばらくご注意ください。
 

真宗でお盆の法会を歓喜会(かんぎえ)というのは、自分を振り返って慚愧の中に佛恩報謝をさせていただき、その喜びを信心歓喜しお念仏申すことだとお聞かせいただきます。
親鸞聖人は「歓喜」というは、「歓」は身のよろこびで、「喜」は心のよろこびと解説されています。身も心もよろこぶという大変なよろこびを「歓喜」と教えられました。
ではこのような喜びはどんなときにあらわれるのでしょう。親鸞聖人は、「私たちが、佛さまの本願(私たち凡夫を必ずお浄土に救いますという願い)を信じて、お念仏を申す心になったとき、このような大きな喜びが自然にでてきます」と申されました。
すなわち、佛さまからいえば、本願が確かであったという証明であり、私たちからいえば、すべておまかせできたという安堵であり、佛と私が共に喜ぶさまが、歓喜といえます。
また、「歓喜」というのは、私の自力の限りを尽くしても不可能であった人生課題が、佛さまの願いによって氷解した時の喜びですから、日常生活上の喜怒哀楽とは次元の違う大きな喜びであります。

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「死ぬのが怖い」のは、死んだらどうなるか わからないから

『人は人を救えないが、「癒やす」ことはできる』 谷川洋三著から
著者は、「死ぬのが怖いのは、これまでに死を経験したことがないからといえます。
人はいずれ死にますが、死後どうなるかのかは、誰にもわからないのです」と続けます。

また、著書では、「死が怖いのは、「わからない」から。未知のことに対して恐怖心を抱くのは、ある意味当たり前のことだといえます。このように考えると、死の恐怖をなくすには、死んだらどうなるかをあらかじめ考えておけばいいということになります。実際にどうなるはわからないので、創作してもいいということです。
もしも答えが出ているのなら、その考えをぜひ大切にしてほしいと思います。きっと、死に対する恐怖心を取り除く役割をしてくれるはずです」とあります。

私(住職)には、小さい時から身近であった「お浄土の話」がしっくりします。